海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町

千綿駅
昨日の記事に続いて、長崎街道絡みです。長崎街道は、江戸初期に整備された脇街道の一つで、鎖国の中、唯一外国に門戸を開いていた長崎から、西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として、重要な役割を果たしていました。長崎から小倉まで全長57里(約228km)の間に、25の宿場が置かれていました。

昨日の大村市には、大村宿と松原宿が置かれていましたが、今日の東彼杵町には、彼杵宿と千綿宿がありました。ただ、千綿宿は、長崎街道25宿には入っていないので、彼杵宿と松原宿の間宿(あいのしゅく)だったのだろうと思います。松原宿-彼杵宿間は9kmほどしかありませんが、千綿宿の手前、江ノ串川を渡った辺りから、いったん海岸を離れて山道を行き、現在の千綿駅付近でまた海沿いに降りてきます。千綿付近の風景と言われる、シーボルト『日本(NIPPON)』の挿絵を見ると、海の近くが田んぼか畑になっていたので、街道は山側に迂回したのでしょうか。で、ここらでちょいと休憩しては、といった感じで茶店を出したのが、千綿宿の始まりだったのかもしれませんね。


今は、海岸線に国道34号が、また山側に長崎自動車道が出来ています。また、国道34号の内側の海沿いには、JR大村線が走っており、松原、千綿、彼杵と、長崎街道の宿駅と同じように、鉄道の駅が設置されています。このうち千綿駅は、海の見える駅として知られ、レトロな木造駅舎と共に、人気を集めています。

千綿駅
大村線は、1898(明治31)年に、九州鉄道の長崎線として開業。1907(明治40)年に鉄道国有法により国有化され、長崎本線となった後、1934(昭和9)年に、佐世保市早岐と諫早間を長崎本線から分離して、大村線となりました。

千綿駅は、1928(昭和3)年の開業で、現在の駅舎は、開業当時の駅をイメージして、1993(平成5)年に建て替えられたものです。ホームは、大村湾の海岸線に沿って設置されているため、カーブしています。このホームからは、さえぎるものなく海を見ることが出来、潮の香りも漂ってきます。

駅は無人駅で、私が行った2012(平成24)年当時は、何もありませんでしたが、16年から、東彼杵町のまちおこしグループ「長咲プロジェクト協議会」が管理業務を担当。駅構内に「千綿食堂」をオープンさせているそうです。

で、また長崎街道に戻りますが、千綿宿から次の彼杵宿までは、現在の国道34号やJR大村線の内になったり、外になったりしながら、だいたい並行しています。そして、彼杵宿が近づいたところで、ぐぐっと海側に入り、彼杵川を渡って200mほどの思案橋で北上、次なる嬉野の宿場へ向かって、山道に入っていきます。

千綿駅

思案橋は、平戸藩の参勤交代などに使われた平戸街道との追分になっていました。現在、近くに船だまりがありますが、その先は、かつての港だったので、この運河はもっと内陸まであり、追分の所に思案橋が架かっていたのかもしれません。そんなわけで、彼杵は、陸海両方の交通の結節点として、肥前国の要と言われ、大いににぎわいました。

彼杵はまた、かつての捕鯨基地で、彼杵港に水揚げされた鯨の肉は、長崎街道や平戸街道を通じて九州各地に運ばれました。現在、捕鯨は実施していませんが、月に1回、鯨肉の入札会が開かれ、鯨食文化も残っています。


東彼杵の特産に、「そのぎ茶」がありますが、茶の栽培は、江戸時代に大村藩主の奨励によって盛んになりました。現在、大村湾を一望する台地に、約400haの茶畑が広がり、毎年県内の60%を占める750トンのお茶が生産されています。そう考えると、先述したシーボルトの『日本』に掲載された挿絵で、海沿いに広がっていたのも茶畑だったのかもしれません。

ところで、『日本』にはもう一つ、「彼杵村付近から大村湾を望む景」という挿絵が入っています。これは、彼杵川河口と大村湾の風景ですが、この河口は、「日本二十六聖人」乗船場跡になります。日本二十六聖人とは、1597(慶長元)年に、豊臣秀吉によって処刑された宣教師6人と日本人信徒20人のことで、この地から3艘の舟に乗せられ、処刑場となる長崎西坂の丘へ送られました。

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