長崎を開港したキリシタン大名の本拠地
大村市には、長崎県の玄関口・長崎空港があります。空港は、大村湾に浮かぶ箕島にあって、市街地とは長崎空港連絡橋(箕島大橋)で結ばれています。橋は、県道38号となっており、鉄道はありません。ただ、歩道が設置されており、全長970mの橋を歩いて渡ることも出来ます。また、ハウステンボスとの間には、連絡船もあります。
空港がある大村湾は、四方を陸で囲まれた「ほぼ湖」となっています。そのため、いつも穏やかな波の音が、琴の音に似ているとして、琵琶湖に例えて「琴湖(きんこ/ことのうみ)」とも呼ばれています。
大村湾が、外海とつながるのは、針尾瀬戸と早岐瀬戸の2カ所だけで、いずれも佐世保湾に通じています。針尾瀬戸は、日本三大急潮の一つとして知られ、鳴門と同じように渦潮が見られます。一方の早岐瀬戸は、全長約11km、幅は100m前後の狭い海峡で、早岐瀬戸と大村湾の関係は、一見すると湖に注ぐ川にしか見えません。
そんな大村市は、江戸時代、大村藩の城下町として栄えました。大村氏は、もともとこの地方の領主で、豊臣秀吉の九州平定では秀吉に従って領地を安堵され、関ケ原の戦いでは徳川方について本領を安堵されました。江戸期を通じて、大村氏の転封はなく、長きにわたってこの地を治めることになりました。
大村藩初代藩主・大村喜前の父純忠は、最初のキリシタン大名として知られます。純忠は、1533(天文2)年、大村氏と縁戚関係にあった戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。母が、大村家第16代・純伊の娘であったために、1538(天文7)年に大村氏の養子となり、第18代領主となります。その後、1561(永禄4)年に横瀬浦(現・西海市)、1570(元亀元)年には長崎をポルトガルに開港し、長崎が南蛮貿易の中心地として発展する礎を築きました。
しかし、1588(天正16)年、秀吉が長崎を直轄領とし、1605(慶長10)年には徳川幕府も同様に直轄領としたため、大村藩は、南蛮貿易の利益を失うことになりました。そんな中、純忠の跡を受けた喜前は、1599(慶長4)年に玖島城を築き、三城城から本拠を移し、城下町も整備。城を中心として五つの武家屋敷街を作り、武家屋敷がある本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路を「五小路」と呼びました。今も当時の面影を伝える町並みが残っていますが、特に小姓小路は、藩政時代の雰囲気を感じさせる通りとなっています。
また大村は、九州唯一の脇街道である長崎街道の宿場町としても繁栄。鎖国の中、海外に唯一、門戸を開いていた長崎を起点とする長崎街道は、非常に重要な意味を持っていました。そのため、参勤交代の大名行列だけではなく、オランダ商館長やオランダ商館のドイツ人医師シーボルト、更には将軍吉宗に献上するゾウも、この街道を歩いて江戸へ向かいました。
大村には、本陣があった大村宿の他にもう一つ、松原宿がありました。大村宿と松原宿の間は2里(8km)で、松原宿の手前に郡川があります。シーボルトは著書『日本(NIPPON)』の中で、「森を流れる川で、深くはないが、時には急流となり、この辺りでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が川床に横に並べてあって、それを渡って人や荷馬が通っていく」と記しています。
今は、飛び石が置かれていた旧街道の少し上に、国道34号が通り、橋で渡ることが出来ます。川を渡った先は、寿古(すこ)町といい、日本初の観光コーヒー園「長崎スコーコーヒーパーク」があります。園内では約200本のコーヒーの木が育っており、生産から焙煎までを一貫して行っています。園内にはレストランもあり、オリジナルの100%寿古珈琲を飲むことが出来ます。
創業以来、浅煎りにこだわってきたコーヒーは、やや酸味のある軽い味わいで、スターバックスなど深煎りに慣れた人は、物足りなさを感じるかもしれません。しかし、香りは非常に高く、焙煎豆をひき始めると、店内には早くも豊かな香りが広がります。コーヒーをいれた後の香りも格別で、寿古珈琲に使う波佐見焼の特製カップには、上部に穴の空いたふたが付いており、香りをかげるようになっています。
コーヒー園から松原宿までは約800m。松原宿は、本陣や脇本陣はなく、八幡神社の門前に酒屋を兼ねた茶屋が建てられ、ここで大名などが休憩を取ったそうです。松原宿から、次の彼杵宿(東彼杵町)までは、長崎街道では唯一、海を眺めながら歩ける貴重な道でした。そのため、多くの人が景色のすばらしさについて書き記し、風景を絵に残しています。その一人がシーボルトで、『日本』には、「我々は大村湾を見渡すすばらしい眺望を楽しみ・・・」との記述があり、シーボルトに同行した絵師・川原慶賀が描いた大村湾の挿絵が数枚掲載されています。
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