シルバーラッシュに沸いた石見銀山夢の跡
世界遺産・石見銀山のある大田市には、これまで4回行っています。石見銀山の大森にも行ったことがありますが、3回目までは世界遺産登録前のことで、その時は人気など全くと言っていいほどない、閑散とした町でした。
大田市は島根県中央部、北は日本海に面し、市の南東端には、山陰の名峰三瓶山がそびえています。この大田市の中心部から西へ車で約15分、狭い谷間を縫うように流れる銀山川に沿って進むと、古い家並みが忽然と現われます。
国の伝統的建造物群保存地区に指定されている「大田市大森銀山地区」です。江戸初期、江戸が人口40万人の頃、20万の人口を抱え、寺が100余と伝えられた銀山の町です。
今も1kmにわたって古い家並が続きますが、大森に住むお年寄りの話では、昔はぎっしりと家が建てこんでいたそうです。確かに、路地を入っていくと、通りの裏側は今は空き地や畑になっていますが、奥には必ずと言っていいほど崖にへばりつくようにして建つ寺があります。谷間の空間を最大限に活用して暮らした、大森の人々の生活が偲ばれます。大森は江戸時代、大量の銀生産で栄え、俗に「石見銀山」と呼ばれ、幕府直轄の天領となって、代官所も置かれていました。当然、武家屋敷なども多く残っているのですが、不思議なことに、町人屋敷との住み分けがされていません。
侍と町人の家が混在するという、特異な町並みを持っているのが、大森の特徴とも言えます。大森から更に山へ入った辺りは、銀山町と呼ばれ、恐らく銀山の発見以来、最も早くに出来上がった町であったでしょう。
やがてシルバーラッシュが起こり、銀山関係者を相手に商いを営む町人が、下手の大森に町を作っていきました。更に、代官所が大森の入り口にあることから考えると、江戸時代に天領となって、赴任してきた武士のために作られた役宅は、下手から上手へ向かって作られていったのでしょう。谷間の狭い土地だけに、銀山が繁栄を続けるうち、その双方が混ざり合ったものと考えられます。
大森の町並みのいま一つの特徴は、屋根が石見地方特有の赤い瓦で葺かれていることです。日本の家並の美しさはモノトーンの美だと言われますが、そこに、ある色が添えられると、強い印象を与えます。紅殻の格子がそうであり、紺の暖簾が美しく見えるのも、そのためでしょう。
大森では赤瓦が町全体の印象を決めています。そして、今は空き家も多い大森の町並みに、明るさを与えてもいます。
ところで、最初に大田へ行った時は、カメラマンのIHさんが一緒でした。大田で我々を迎えてくださったのは、IHさんが審査員を務める写真コンテストの常連だったAYさんでした。写真の話をしている時、AYさんは、「私は、主に100mmマクロレンズを使っており、ブレを防ぐため、面倒がらずに必ず三脚を使用し、それが、傑作を生み出す要素となることを忘れないよう心掛けています」と話していました。
で、実は大田取材の際、6×6のハッセルを使っているIHさんが、手持ちで撮影をしようとしたところ、「先生、三脚は?」と、AYさんが血相を変えて飛んできました。どうやら三脚を忘れてきたと思ったのでしょう、「ちょっと待っててください」と、自分の車のトランクを開け、中から三脚を取り出し、IHさんに渡しました。IHさんはオープンだったので、特に三脚を使用するつもりはなかったのですが、渡されてしまった以上、使わざるを得ず、真面目な顔をして三脚を立て、撮影に取り掛かりました。私は、笑いをこらえながら、二人のやりとりを見ておりました。
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