聖徳太子が開き、1400年の歴史を刻む斑鳩の里
今年は聖徳太子(574 - 622)の1400回忌に当たり、奈良県斑鳩町の法隆寺で、4月3日から5日まで法要が営まれました。
私が習った日本史では、聖徳太子と言えば、十七条の憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などを成し遂げた偉人として、扱われていました。しかし近年の研究で、それらに疑問符が付き、一時、「聖徳太子」の表記が、小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更されました。その後、反対意見が殺到したため文部科学省が変更を撤回し、現在はまた元の「聖徳太子」に戻っていますが、高校の日本史では「厩戸皇子」「厩戸王」とする教科書の方が多いようです。
厩戸皇子(うまやどのおうじ)というのは、聖徳太子の本名なので、じゃあ合ってるじゃん、より正確を期しただけでは、と思うんですが、事はそう単純ではないようで・・・。 例えば『日本書紀』によると、最初の遣隋使は607年にあの小野妹子らを派遣したことになっていますが、中国側の『隋書』には600年に日本の使節が来たという記録が残っているのだそうです。とはいえ、厩戸皇子が推古天皇から摂政に任じられたのは593年のことですから、600年の派遣も彼が中心になったと考えてもおかしくはありません。
ただ、当時は蘇我馬子が権勢をふるっていたというのも確かなようです。推古天皇も、崇峻天皇が馬子に暗殺された後、叔父である馬子に推されて即位しました。で、推古天皇は、天皇中心の国造りを目指し、甥である厩戸皇子を摂政にするわけですが、馬子との力関係を考えると、聖徳太子の業績とされている事案の全てが、厩戸皇子一人で成し遂げたと考えるのは、かなり無理がある、というのが現代の考え方のようです。
で、622年に厩戸皇子が亡くなった後、蘇我氏は更に力を強め、馬子の孫・蘇我入鹿は、厩戸皇子の一族が住む斑鳩宮を襲撃。厩戸皇子の子・山背大兄王を含め、一族は自害に追い込まれます。その後、蘇我氏の横暴を快く思っていなかった中大兄皇子が、中臣鎌足らと共に蘇我入鹿を暗殺、大化の改新へとつながります。と、なんだか歴史ブログみたいになってきちゃいましたが、もう少しだけ・・・。
大化の改新から更に時が経ち、厩戸皇子が亡くなって50年後の672年、古代日本最大の内乱・壬申の乱が起きます。で、勝者となった天武天皇は、天皇中心の律令国家造りを進めていきます。しかし、壬申の乱は甥と叔父の皇位継承争いで、天皇の権威が失墜する結果となったため、これまでのレガシーを厩戸皇子一人の功績とし、彼をレジェンド聖徳太子として称えることで、皇族の優秀性と天皇が正当な統治者であることをアピールしたのでは、と考える研究者もいるわけです。
話がかなり長くなりましたが、今回紹介したいのは、その厩戸皇子が居を構えた斑鳩の話です。
昨年のこと、斑鳩町教育委員会が、太子1400回忌を前に、法隆寺の倉庫などを調査する中、斑鳩宮の壁土が発見されました。これは、戦前の調査で出土しましたが、長らく所在不明になっており、約80年ぶりに確認されたそうです。で、その壁土には、焼けた痕跡があり、蘇我入鹿の襲撃で斑鳩宮が焼失したことを裏付ける資料となる可能性があるようです。厩戸皇子が、一族の新居・斑鳩宮の造営に着手したのは601年のことで、4年後の605年に飛鳥から斑鳩へ移住してきました。父・用明天皇のために創建したとされる法隆寺も、同時期に建立されたと推測され、法隆寺の完成は607年と言われています。ただ、斑鳩宮は643年に蘇我入鹿の焼き討ちで、また法隆寺も670年に、落雷がもとで起きた火災で焼失したとされています。
現在、法隆寺の中心となっている西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物と言われる金堂を始め、焼失後に再建されたものになります。また、夢殿を中心とする東院伽藍は、738年頃、法隆寺の僧行信が、斑鳩宮があった場所に厩戸皇子を偲んで建てたものです。
この法隆寺の西大門を出たエリアは、西里と呼ばれ、静かで落ち着いた家並が続いています。法隆寺の維持管理を行う大工集団が住んでいた所で、江戸時代の中井正清や、「最後の宮大工」と称された西岡常一さんなどが、宮大工の伝統を継承してきました。
中井正清は、西里出身の大工棟梁で、徳川家康に認められ、上方の大工支配を任されました。正清は、築城のスペシャリストで、伏見城、二条城、駿府城、江戸城などの造営に携わった他、江戸の町割りや増上寺、日光東照宮など、徳川幕府に関わる工事の多くを担当しました。西岡常一さんは、祖父、父と続く宮大工棟梁の3代目で、法隆寺の昭和の大修理に携わった他、法輪寺三重塔や薬師寺金堂などの再建に従事しました。西岡さんには、雑誌でインタビューしたことがあり、その時、一番思い出に残っているのは、「何と言っても、昭和9年に始まった法隆寺の大修理」と話していました。
西岡さんが27歳の1934(昭和9)年に昭和の大修理の戦前分が始まり、食堂を父の楢光さん、礼堂を西岡さんが初めて棟梁として担当しました。ちょうど結婚をされた年でもあったそうで、自分にとって記念すべき年で、「これで、育ててくれたお祖父さんに恩返しが出来たと思いましたわ」とも語っていました。
西岡さんは、明治の職人気質のお祖父さんから、西岡家に代々伝わる「口伝」をたたき込まれたそうです。「塔の建立には木を買わず山を買え」「木は生育の方位のままに使え」とか、「堂塔の木組みは木の癖組み」「工人らの心組みは匠長が工人らへの思いやり」「百工あれば百念あり、一つに統べるが匠長が器量なり」といった一連の教えで、棟梁としての奥義でした。
西里は、こうした伝統を受け継いできた宮大工たちの集落で、今も、そうした歴史を伝えるかのように、法隆寺西大門から藤ノ木古墳にかけて、土塀に囲まれた屋敷群が続き、しっとりとしたたたずまいを見せています。
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