海も山も魅力的な房総半島
学生時代に、友人たちと外房の海へ遊びに行ったことがあります。夜中に、大学のある早稲田に集合し、車で出発。当時は、東京湾アクアラインであるとか、京葉道路とかはありませんから、ひたすら下道を走ります。
で、外房の海で、名前を知っていたのが、御宿とか鴨川だったので、道路標識を頼りに、適当に走っていました。やがて、道路が狭くなり、気がつくと街灯もない山道を走っているではありませんか。
「あれ、おれたち、海に行くんだよな」「これ、完全に山じゃない?」と、一同、不安感が募ってきます。夜中で、車もあまり通っていないだろうからと、その時はペーパードライバーの友人が運転していたのですが、真っ暗な中、左側が崖の細い山道を走ることになり、運転する側も、同乗している方も、なかなかにスリリングな展開となりました。
周囲が確認出来ない夜中の走行ということもあり、我々の印象では山越えだったのですが、房総半島の中部から南部にかけては、標高300m前後の丘陵地帯になっています。そんな房総半島のほぼ中央に、養老渓谷があります。大多喜町の麻綿原高原(まめんばらこうげん)を源流とする、養老川沿いの渓谷です。
養老渓谷最大の見所は、100mにわたってゆるやかに流れ落ちる粟又の滝です。房総一の名瀑として知られ、滝壺の近くから下流にある小沢又の滝付近まで、約2kmの遊歩道が整備されています。この粟又の滝自然遊歩道沿いには、大小の滝が点在し、春から秋にかけて水辺を散策をする人でにぎわいます。
養老渓谷のある大多喜町は、古くから房総半島の交通の要衝として栄え、戦国時代以降は城下町としても繁栄しました。大多喜町のシンボルとなっている大多喜城は、戦国時代に上総武田氏の一族である真里谷信清が築いた小田喜城がベースになっているとされます。その後、1544(天文13)年に、『南総里見八犬伝』のモデルとなっている安房里見氏の武将・正木時茂が、真里谷朝信から攻め取り、里見氏の所領となりました。
しかし、1590(天正18)年に、豊臣秀吉が関東を平定し、徳川家康が関東へ移封されると、小田喜城は家康に接収され、徳川四天王の一人・本多忠勝が、10万石を与えられてこの地に入りました。忠勝は、里見氏に備えて城を大改修し、城の名を大多喜城に改めました。併せて城下町の整備にも手を付けましたが、関ケ原の戦いを経て、忠勝が1601(慶長6)年に桑名へ移封。更に後を継いだ次男の忠朝が大坂夏の陣で戦死し、次を託された甥の政朝が龍野藩に移されると、大多喜藩は80余年の間に6人の城主が入れ替わり、落ち着かない状態となります。しかも、1619(元和5)年には、当時の藩主・阿部正次が拠点を移したことから、大多喜藩は一時的に廃藩となってしまい、城も荒廃しました。
大多喜藩が安定するのは、1703(元禄16)年に、松平正久が藩主になってからのことで、「房総の小江戸」と称される、今につながる町並みが整ったのは、この頃になってからだったようです。元禄年間に作成されたと考えられる城下絵図には、整備された町が描かれています。城下町の中心部は、「根古屋(ねごや)七町」と呼ばれ、大多喜街道に沿って北から紺屋町、田丁、猿稲町、久保町、桜台町、新丁、柳原町という七つのエリアから成り立っていました。ところで、学生時代に我々が目指した外房の海までは、大多喜から約20km、車で30分ほどです。大多喜街道が海岸に出た所は、外房屈指の港町・勝浦になります。勝浦には、400年以上の伝統があり、日本三大朝市に数えられる勝浦名物の朝市があります。多くは地元農家のおばさんたちの露店ですが、水曜日を除く毎朝、仲町通りで開かれ、野菜、果物、花、魚介類から、日用品まで、ほとんどのものがそろっています。
勝浦の隣にある御宿町の御宿海岸には、童謡『月の沙漠』にちなんだ像が建てられています。『月の沙漠』の作者加藤まさをは、立教大学在学中から、来る夏ごとに御宿海岸を訪れ、海につながる砂の丘をよく散策していたそうです。その中で、『月の沙漠』の着想が生まれ、1923(大正12)年、創刊したばかりの『少女倶楽部』3月号に、作品を発表しました。
この詩が、その前年に上京していた佐々木すぐるの目にとまります。彼は『月の沙漠』の美しい幻想に魅せられ、作曲した曲譜を自ら謄写版にして全国の学校に紹介、1932(昭和7)年にはコロムビアが初めてレコード化しました。詩が発表されて間もなく100年、夜の砂丘のイメージは、今も変わらず美しく、若い叙情の世界を伝えて、新鮮です。
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