悲喜交々、幾多のドラマを生んだ引き揚げの街
舞鶴は、城下町と軍港という二つの顔を持っています。
西舞鶴は、細川氏の城下町として、明るくのどかな港町の風景を見せます。細川藤孝、忠興(妻はガラシャ夫人)父子が、この地に城を築いたのが1579(天正7)年。その田辺城は、鶴が舞うような美しい姿から、別名舞鶴城とも呼ばれ、廃藩後、その名をとり、町の名前を舞鶴と改めました。
一方、東舞鶴は、海軍と共に発展した計画都市で、現在も海上自衛隊が駐屯し、軍港としての性格を残しています。明治政府の海軍大臣西郷従道は、天然の良港舞鶴に海軍鎮守府を開庁、初代司令長官に東郷平八郎中将を任じました。そして現在は「世界に開かれた海洋・文化都市」を目指した街づくりが進められています。
しかし、舞鶴と言えぱ、やはり「引き揚げ」。戦後、舞鶴は引揚港の代名詞ともなり、悲喜交々、数々のエピソードを生みました。
敗戦時、外地にいた日本人は約660万人と言われます。1945(昭和20)年9月25日、復員第一船高砂丸が、大分県別府港に到着。以後、続々と引揚船が各地の港に着きました。舞鶴は、この年10月7日に雲仙丸が入港して以来、引揚者の1割を迎え入れることになりました。引揚援護局の壁は、消息を求める貼り紙で埋まり、ある者はあてもなく名前に聞き覚えがないか、上陸する人に聞いて回りました。また、喜びにわく人波の陰では、いまだ還らぬ夫や息子を待ちわび、船が着く度に桟橋にたたずむ女性の姿が見られるようになり、だれ言うとなく「岸壁の母」「岸壁の妻」と呼ばれ、日本中の涙を誘いました。
1946(昭和21)年の末までに、約510万人が帰国しましたが、民族独立運動が高まる地域や統一的な政治権力を持たない地域では、引き揚げも円滑には進みませんでした。特に、ソ連管理地域は悲惨を極めました。
推定57万5000人が、ソ連に抑留され、シベリアからの引揚第一船大久丸が、舞鶴に入港したのは46年11月8日のこと。が、これも1年余りで中断、領海の氷結が理由でした。GHQが砕氷船を送ること、氷結の心配のない港に船を送ることを申し入れましたが、ソ連は拒否。結局、引き揚げが再開されたのは、49年6月のことでした。
この頃から、各地の引揚援護局は廃止され、50年からは舞鶴が唯一の引揚港として、大きな使命を果たしました。舞鶴が迎え入れた引揚者は、45年から58年までの13年間に約66万人、遺骨は1万6000柱を数えました。舞鶴には、引き揚げや、ソ連抑留を物語る数々の資料を展示した「引揚記念館」があります。私も見学させてもらいましたが、義父がシベリア抑留者だったこともあり、感情が入りすぎ、かなりのショックを受けました。
また、取材で訪れた1993年頃、上陸地「平桟橋」を復元する運動が起こり、翌年の復元を目指して募金活動が展開されていました。そして、翌94年5月に復元完了。ようやく祖国の土を踏んだ方たちの思いを、今に伝えています。
※2枚目の写真は、東郷平八郎を始め鎮守府の歴代長官が居住した旧官邸。海上自衛隊舞鶴地方総監部が監理(取材協力/海上自衛隊舞鶴地方総監部広報係)
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