筑豊炭田の川・遠賀川上流にある鮭神社

1986(昭和61)年頃、福岡県飯塚市と嘉穂町で、鮭の稚魚が放流されたという新聞記事を読みました。それによると、「放流したサケの稚魚は、北海道生まれの嘉穂町(現・嘉麻市)育ち。卵を北海道から空輸して、嘉穂町の大里叶・鮭を遠賀川に呼び戻す会代表宅で100%近いふ化に成功。(略)嘉穂町にある日本で唯一の鮭神社で、放流祈祷を厳かに行った」とありました。

福岡県で鮭の放流とは珍しいと思ったのですが、一つひっかかったのが、「嘉穂町にある日本で唯一の鮭神社」という部分。なにしろ、百科辞典などによると、鮭は「太平洋岸の利根川以北、日本海岸の山口県以北」に上るとされています。それがなぜ、九州に鮭神社があるのか? ミーハー心がくすぐられました。

早速、取材をしようと、遠賀川に鮭を呼び戻す会に連絡を取りました。すると、代表の大里さんは、造り酒屋を営んでおり、酒蔵は神社とは隣り合わせにあるとのこと。鮭と酒。最初は、しゃれかと思ったのですが、そんなことはなく、大里さんの家は、昔は鮭神社の神官であったそうで、当時は氏子代表を務めていました。

鮭神社の建立は1200年以上前。祭神は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)とその子鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、海神の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の三柱となっています。しかし、「シャケ様」とか「鮭大明神」と呼ばれて信仰を集めているのは、これらの神様ではなく、鮭そのものでした。

鮭が上ってくると、氏子たちは神様にお供えして豊年を祈り、食べずに境内の鮭塚に埋めました。

実際、鮭は昭和の初めまでよく上ってきていました。遠賀川の河口は、九州でも最も北寄りにあり、地理的には、鮭が上ってきてもおかしくはないわけです。そして、豊作になるような年には天候もよく、鮭も上ってきたのでしょう。それが逆に、鮭が上ってくれば豊作になると考え、鮭大明神として祭ったものではないでしょうか。

しかし、石炭産業の発展(遠賀川流域は筑豊炭田の町が連なる)に伴い川が汚れ、鮭は全く捕れなくなりました。鮭のこない年は、大根をタテ割りにして赤トウガラシの目を入れて鮭をかたどり、代わりにするのが習わしです。そして、鮭の代わりに大根が祭られる年が続きました。

ところが1978(昭和53)年12月、遠賀川で鮭が捕れたのです。40年ぶりのことでした。大里さんも、実はそれまで鮭など見たこともなく、単なる言い伝えと、毎年の祭礼を醒めた目で見てたそうです。しかし、この時以来、昔のように鮭の返ってくる川にしようと、一念発起したのだといいます。

1983年、鮭魚業の拠点・北海道広尾町の要請で、ご神体を分祀しました。その縁で3年後、広尾から2万粒の鮭の卵がやってきました。卵は大里さんの自宅で、100%近いふ化に成功。そして冒頭のニュースのような放流となったわけです。


これは以後、毎年続けられています。当時、筑豊は若い人たちが流出していました。でも、いつかは自分の古里に戻って来てほしい。鮭の回帰性を思う度、大里さんたちはそれを思うと話していました。

鮭に託す夢は、また若者の古里回帰ともつながる、筑豊の大きな願いでもあったのです。

※その後、この活動は遠賀川流域の他の地域にも広がり、今では稚魚の放流は春の風物詩となり、秋には数匹の鮭が遠賀川に遡上するようになっているそうです。また、当時は日本で唯一と思われていた鮭神社は、島根県の雲南市にもあることが分かりました。造営年は不明ですが、少なくとも江戸時代にはあったようです。ただ、近くにある阿用川は、赤川を経て斐伊川に流れ込んでおり、斐伊川が宍道湖に注いでいることを考えると、かなり謎です。 

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