取材のために登った日本一の富士山

富士山

かつて一度だけ、富士登山をしたことがあります。ちょうど30歳の時でした。富士山に登ることになったのは、還暦を記念して富士山山頂からハンググライダーで飛ぶ方を取材するためでした。

還暦と言えば60歳。当時はちょうど私の倍に当たる年齢です。正直、どんだけ酔狂な・・・と思わないでもありませんでしたが、私、かなりのミーハーなので、仕事抜きで、富士山滑空に興味津々でした。

その方、河辺忠重さんが、ハンググライダーを始めたのは、53歳の時でした。始めた年齢も年齢ですが、そのきっかけがまた変わっていました。


富士山飛行からさかのぼること7年前、河辺さんはちょっとしたはずみで道でころび、肩を痛めてとある大学病院に入院しました。ところが、どこでどう間違ったのか、内科に放り込まれ、いろいろな検査を受けるはめに。それまで入院はおろか、病気と名のつくものとは無縁だった河辺さんですが、ここでやれ血圧が高い、尿酸値が高い、肝臓が悪いと、次々に悪いところが発見され、医者からは、あと半年気づかずにいたら命がもたなかったかもしれない、と言われてしまいます。文字通り、けがの巧妙です。

で、驚いた河辺さんが、まず考えたのは、自殺的に死ねる方法だったそうです。そして見つけたのが、ハンググライダー。戦時中から飛行機に乗り、空で育った河辺さんの目には、操縦桿も何もないハンググライダーは、とても頼りなげに映ったようです。

富士山

「こんな危ないものならすぐ死ねるだろうと思った」。富士山頂でお会いしした時、河辺さんは、笑ってそう話していました。

ところがやってみると、これが何にもましてすばらしいものであることに気づきました。次第しだいに熱中し、仕事を退いてからは、まさにハンググライダーひと筋の人生へばく進。

そしてあの事件から7年、健康と共に青春をも取り戻した河辺さんは、ついに富士山から飛行するまでになったのです。事実は小説より奇なり。これ本当の話です。

なお、富士山からの飛行の模様はNHK福岡局が密着取材、「お達者くらぷ」で全国放映されましたが、この時のNHKと私の取材格差は、かなりのもの。当時、やれロケ弁が二段重ねだとか、霧が出なけりゃスモーク焚いちゃうとか、フリーのカメラマンや編集者からはやっかみの対象となっていたNHKだけあって、それはもう大名取材だったわけです。


貧乏雑誌の編集者である私は、当然のことながら新宿からバスで富士山五合目へ向かいました。富士山山頂への登山ルートは四つあります。山梨県側は富士吉田市(吉田口)、静岡県は小山町(須走口)と御殿場市(御殿場口)、富士宮市(富士宮口)が設けられています。最もポピュラーなのが山梨県側の吉田ルート、一番短いのが富士宮ルート、登山者が少ない須走ルート、最も距離が長く上級者向けの御殿場ルートという感じでしょうか。吉田ルートは、アクセスがいいこともあって、登山者の6割が利用します。そのため山小屋も多く、救護所や売店、トイレなども充実しています。

私も、往路は吉田ルートを選択しました。五合目から六合目までは勾配もあまりなく、かなりのハイペースでタッタ、タッタと登りました。慣れている人は、もしかしたら、もっとゆっくり歩いていたのかもしれませんが、私は一刻も早く頂上に行きたくて、前の人をどんどん追い越しながら歩いていました。


そのペースは六合目以降も衰えず、七合目からの岩場もなんのその。一度も立ち止まることなく、八合目に到着しました。ここまで、かなり順調で、なんだ大したことないな、と思ってしまった私。水ぐらい飲んでおいた方がいいな、とそこで初めて足を止め、ベンチに座って水を飲みました。

そして、さあ、あと少しと立ち上がったのはいいのですが、さっきまでの元気はどこへやら。急に足が重くなってきました。水はともかく、座ったのが良くなかったのかもしれません。ここから九合目までの長いこと、長いこと。

しかも、九合目の手前に本八合目というのがあり、これが精神的なダメージを増幅させました。えっ、九合目じゃないの。まさか、この先に新八合目とかあるんじゃないだろうな・・・。もうこうなると、途中リタイアすら頭をよぎります。そんな折れそうになる気持ちを鼓舞しながら、一歩ずつ前進。八合目までは違う人間が歩いていたんじゃないか、と思うほど、ペースが落ちました。


そしてやっとたどり着いた九合目では、もうここの山小屋に泊まっちゃおうかとまで思い詰めます。ただ、明日の富士山滑空に間に合う確信がなかったので、仕方なくそのまま登り続けました。吉田ルートの平均は6時間強らしいですが、そこまで時間はかからなかったものの、八合目以降は本当に疲れました。

山頂到着後、予約していた山小屋に荷物を置き、河辺さんが泊まる山小屋を訪ねました。NHKの取材班やハンググライダーの撮影などもするプロの写真家もその小屋におり、宴会が始まるところでした。聞くと、彼らは河辺さんと一緒に、荷物を運ぶブルドーザーで登ってきたとのこと。がーん、その手があったのか・・・と貧乏雑誌の編集者。しかも、器材だけではなく、飲み物や食べ物も大量に持参。携帯用の酸素ボンベもたくさん転がっていました。さすがです。

そんなわけで、私もご相伴に預かった後、自分の小屋に戻って就寝。しかし、大して寝ていないうちに、小屋の人から起こされてしまいました。「ご来光ですよ」と。


私は、ご来光なんてどうてもいいから寝かせておいてくれ、と頼んだのですが、ご来光を目指して登ってくる人たちが、これから仮眠を取るので交替してくれ、と冷たく言い放たれました。仕方なく真っ暗な外に出たものの、ご来光なんて想定していなかった私、トレーナーにウインドブレーカーしか持っていなかったので、寒いのなんの・・・。ガタガタ震えながら、ご来光を待つことになりました。

まあ、確かに、ご来光はそれなりにきれいではあったんですが、本音は寝ていたかった・・・。その後、朝食をとって、河辺さんの所へ向かうと、NHKの取材班が全員ダウンしていました。二日酔いではなく、どうやら前日、ブルドーザーで一気に登ってきたことで、高山病になってしまったようです。その中にあって、還暦の河辺さんだけ、元気に飛行の準備に取り掛かっていました。

しかし、その日はなかなかいい風が吹かず、テイクオフには厳しいコンディションだったようです。富士山連泊は全く想定していなかっただけに、風よ吹けと祈り始めた私。と、ここで、NHK取材班が救世主となったのです。

雲の動きや風の具合を見ていた河辺さん、次にNHKの人たちの方を見て、「みんな完全にグロッキーなので、飛んじゃいます」と決断。それからは、アップテンポで進行し、河辺さんは、ホントにあっさりと、富士山頂から朝霧高原へ向けて、ハンググライダーで飛び立ちました。

NHKの場合、ランディング地点にも取材班が待っているそうですが、私は本人が飛んでしまったら取材終了。青い顔をしたNHK取材班に別れを告げ、帰りは須走口を使い、まっすぐに砂地が続く「砂走」を一気に駆け下りました。

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