維新の里・萩に春の訪れを告げるシロウオ漁

四ツ手網漁
萩を訪問したのは、高知市の隣、南国土佐の玄関口・高知空港を抱える南国市の子どもたちと一緒でした。当時、南国市の民間団体が実施していた「オレンジ・ツアー 南国少年のバス」に同行した時のことです。ツアーは毎年、春休みを利用して、南国市内の中学1、2年生を集め、3泊4日の日程で、維新発祥の地・萩と奇勝秋吉台を訪問していました。

萩では史跡巡りが行われ、班ごとにコースを決めて、自転車で回りました。私も自転車を借り、子どもたちと一緒に、あちこちを回りました。

その際、川に船を浮かべ珍しい網で漁をしているご夫婦がいたので、聞いてみると、シロウオを取っているとのこと。使っていた網は、四ツ手網と言って、萩では、毎年2月下旬から3月の下旬にかけて、この伝統的な漁法で、シロウオを取っているそうです。

十文字に組んだ竹に四隅をとめた六畳大ほどの網を川底近くに沈め、潮の流れに乗ってシロウオが川を遡上するのを待ち、群れが網の上を通過する頃合いを見計らって、一気に網を引き上げるというもの。そして、引き上げた網の上を柄の長いひしゃくでポンポンと叩いて、シロウオを集めてすくい取ります。

萩のシロウオ漁は、早春の風物詩として知られ、この時期、「シロウオの踊り食い」を目当てに多くの人々が萩を訪れるそうです。オレンジツアーは、それを狙ったわけではないんでしょうが、季節が重なるため、ツアーを引率していた大人たちは、この踊り食いを楽しみにしていたようです。


で、昼食時、大人たちは、当たり前のようにシロウオを注文。私の分も頼んでくれたまではいいのですが、「こうやって食べるんですよ」と、見本を示してくれた方の喉の奥から、軽やかなうがいのような音が聞こえてきました。たまたまその方が、喉ごしを楽しむのではなく、一度シロウオを喉にため込むタイプだったのでしょうが、その様子を見た私、げっ! こんな食べ方するんか! と、思ってしまったのでございます。そして、やや興ざめした私は、喉ごしを楽しむべきところ、シロウオをかんでから飲み込んでしまいました。

それからだいぶ年月が経って、福岡で、取材先の方から夕食に誘われ、付いていくと、川の側の店で、シロウオの踊り食いがオーダーされていました。が、初の踊り食いを楽しむカメラマンの田中さんを横目に、私はうがい音がトラウマとなってよみがえり、この時もシロウオをかんでしまいました。


そんな私の変な思い出とは全く関係なく、ここ萩は、維新の里として有名な土地です。萩市は、1600(慶長5)年から260年間、長州藩36万石の城下町として栄えました。日本海にせり出した指月山の麓、阿武川が二手に分かれてできた三角州が、当時の城下町です。

今は石垣のみを残す城址から、堀を隔てて整然と区画された街路には、武家屋敷の長屋門や土塀、白壁の屋敷が並び、明治維新の立て役者となった志士たちの居所も点在。およそ420年前、萩城築城の際に整備された当時の姿を残しています。


萩が誇る伝統工芸・萩焼の歴史も、この城下町の形成と時を同じくして始まっています。毛利輝元が、文禄・慶長の役で朝鮮から連れ帰った陶工の李勺光と李敬の兄弟を、萩城下に住まわせたのが、萩焼の起こりと言われています。

萩焼という名称は、明治以降に使われたもので、当時は彼らが居住し窯を築いた松本村中の倉と、後に李勺光の子孫が移住した深川(現在の長門市)の地名から、それぞれ松本焼、深川焼と呼ばれていました。いずれも藩の御用窯ですが、松本窯が茶陶中心で民間に出回ることがなかったのに対し、深川窯は自家営業を認められ食器生産も行っていました。

初期の萩焼は李朝風の色彩が濃かったようですが、次第に織部や楽焼の影響を受けて多様化し、柔らかみのある萩独特の作風が生まれました。

優れた茶人であった輝元を始め、毛利家は代々焼き物の保護育成に力を注ぎました。陶工たちには、下級武士と同等の処遇が与えられ、苗字帯刀を許されたと言います。

明治維新後、後ろ盾を失った御用窯は、厳しい道を歩むこととなりました。しかし、戦後は、茶陶としての名声を確立し復興。旧御用窯の他にも多くの作家を輩出し、李朝の流れをくむ伝統が現在まで受け継がれています。

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