醤油の原点、紀州湯浅の溜まり醤油

運河沿いに建つ角長の蔵
湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として、古くから栄えてきました。また、紀伊水道に臨む湯浅湾の奥にあり、海路の便が良かったことから、物流の中心地となっていました。今も、江戸から明治にかけての建物が軒を連ね、往時をしのばせています。

湯浅はまた、日本人にとって欠くことの出来ない味、醤油の古里でもあります。1800年代初頭には、なんと92軒もの醤油屋が営業していたと言われ、醤油醸造の町としても有名です。

醤油は、鎌倉時代の禅僧覚心(法燈国師)が、修行をしていた宋の径山寺(きんざんじ)から、味噌の製法を持ち帰ったことから生まれたと伝えられています。覚心は帰国して、生まれ故郷の由良にあった真言宗の西方寺に入り、同寺の宗旨を禅宗に改め興国寺を開きました。その後、近隣の村々に味噌の製法を伝授していきますが、その過程で醤油が誕生したというのが定説になっています。ただ、発祥譚には、微妙に異なる伝承があります。

一つは、湯浅周辺で径山寺(金山寺)味噌作りが広まり、製造工程で桶の底に溜まった汁がおいしく、それを調味料として使うようになったという説。

もう一つは、ヤマサ醤油のサイトに出ているんですが、仕込みの間違いか何かで水分の多い味噌が出来、その上澄みをなめてみるとおいしく、食べ物の煮炊きに使えると、以後、わざと水分の多い味噌を作るようになったのが始まりという説です。

いずれにしても、湯浅の金山寺味噌作りから溜まり醤油が生まれたのは確かなようで、湯浅は、いわば日本の醤油の原点と言えるわけです。

湯浅は、良質な水に恵まれ、醤油醸造に適していたことから、室町時代にはそれまで自家製で賄われていた醤油を売る店も現れました。江戸時代に入ると、湯浅醤油の名声は一層高まり、販路も拡大。「下り醤油」と呼ばれて関東へも送られました。紀州藩の手厚い保護を受けた湯浅醤油は、「○キ」印の旗を掲げた船で運ばれ、やはり紀州名産のミカン船と共に、さまざまな特権を与えられていたといいます。醤油屋の数が92軒あった当時、湯浅の戸数は約1000戸だったようですから、1割の家が醤油を作っていたことになります。

しかしやがて、江戸へ流通する醤油の産地は、房州の銚子や野田へと移っていきます。ここで江戸の人々の嗜好に合わせた濃口醤油が作られるようになりますが、房州へ醤油醸造の技術をもたらしたのは、紀州から移住した人たちでした。

湯浅の町並み

湯浅の町並み

ちなみにヤマサは、湯浅の隣村・広川出身の濱口儀兵衛氏が、1645(正保2)年に銚子へ移り、廣屋儀兵衛商店として創業。当初、儀兵衛の儀(ギ)から、山笠に「キ」の字をあしらった暖簾にするつもりでしたが、出身地である紀州徳川家の船印に似ていたため、遠慮して「キ」を横向きしたところ、「サ」に見えたことから、「山笠にサ」で「ヤマサ」になったようです。

甚風呂
それはともかく、湯浅港へ通じる運河沿いには、今も醤油や味噌など、醸造業関連の町家や土蔵がよく残っており、2006(平成18)年に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。中でも、1841(天保12)年創業の角長は、伝統的な醸造方法を守り、創業当時から使い続けている仕込み蔵で、溜まり醤油を醸造しています。

もろみは約1年3カ月かけて、吉野杉の桶で熟成させます。仕込み蔵は天井や壁、柱に麹菌がびっしり付着。この蔵付き酵母がおいしい醤油を育てています。醤油作りは「一麹、二櫂、三火入れ」と言われます。火入れは殺菌のために煮沸する仕上げの工程で、江戸時代と同じ松材を燃料に半日かけて行います。これによって味がまろやかになるのだそうです。

ところで、伝建地区を歩いていると、「甚風呂」と書かれた暖簾が下がる建物に出会います。幕末から昭和の終わりまで、4代続いた銭湯だそうです。本当の名称は「戎湯」ですが、創業者の須井甚蔵さんから4代目の須井甚一さんまで、「甚」が通字になっていたため、「甚風呂」と呼ばれていたようです。現在は歴史民俗資料館として古民具などを展示している他、銭湯時代の番台や浴場跡なども保存され、見学が出来るようになっています。

実は私、湯浅を訪問するに当たって、どうしても行きたい場所がありました。そこも、銭湯なんですが、それは当時、湯浅で1軒だけ営業していた「布袋湯」という公衆浴場でした。明治初めに建てられた銭湯らしいですが、入口がアーチ型になったレンガ塀の外観が、たまらなく魅力的でした。

湯浅町 布袋湯

湯浅駅に着いた私、ちょうど昼時だったので、駅前にあったレトロな食堂「一二三食堂」で食事をした後、先に伝建地区を周り、満を持して布袋湯の前に立ちました。しかし、16時にならないと開かないらしく、その後、兵庫県の出石まで行かなくてはいけない私は、お湯に入るのを諦め、断腸の思いで、布袋湯前を後にしました。

湯浅町 一二三食堂

かつてこの辺りは、三味線の音が流れる花街で、多くの芸妓が行き交っていたようです。そのため、布袋湯にも毎日芸妓が100人くらい入りに来ており、脱衣箱の扉には、「つばき」「らん」「もも」「つつじ」と、一見、花の名前が書いてあるようで、実は芸妓の源氏名を入れていたらしいのです。

布袋湯は、私が訪問した2年後の2015年に廃業してしまったそうで、Googleのストリートビューで見たら、更地になっていました。返すがえすも惜しいことをしました。※食事をした一二三食堂も、既に閉業しているようです。写真の赤いものは、スイカなんですが、SNSに投稿したところ、仲のいい友人が「めんたいこ、いいなー」と反応。かくいう私も、最初出された時はそう思ったんですが・・・。

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