幕末の黒船来航をきっかけに築かれた横浜中華街

横浜中華街

横浜が歴史の舞台に登場するのは、幕末の黒船がきっかけです。開国を迫られた幕府は、アメリカやイギリスなど5カ国と条約を結び、横浜、長崎、函館を開きました。

横浜中華街
当時の横浜は80軒ほどの漁師小屋が建ち並ぶ寒村で、当初アメリカは、東海道の宿駅であった神奈川宿に近い神奈川湊の開港を求めていました。しかし、幕府は外国人と住民が接触するのを防ぐため、神奈川湊を避けて、東海道から外れた横浜に港を新設し、外国人居留地も整備しました。

この時、外国人たちは、筆談によって日本人との通訳が出来る中国人を伴ってきました。また横浜と上海、香港間に定期航路が開かれると、大勢の華僑が来日。彼らは居留地の一角に関帝廟、中華会館、中華学校などを建設し、中華街を築きました。

当初は日用品や衣料品、食品を扱う店が多かったようですが、やがて中国人の職業は三把刀(料理、洋裁、理髪)という刃物を使う仕事に制限され、中華料理店が増えることになりました。

その後、1972年の日中国交回復後、中華街は観光地として発展します。更に2004年に横浜高速鉄道が開業し、元町・中華街駅が設置されると、アクセスと知名度が大幅に向上。現在は食の一大観光地として、年間2000万人以上が訪れています。

横浜中華街

横浜中華街

横浜中華街と呼ばれるのは、風水に基づいて置かれた、東西南北四つの門を結ぶ400m四方のエリアです。ここに200件近い料理店が軒を連ね、世界有数の規模を誇る中華街となっています。

横浜中華街 関帝廟
店の約7割が広東料理で、味付けは比較的あっさりしているのが特徴です。他にも、辛みと酸味の効いた四川料理、濃厚な味付けの上海料理、北京ダックなどで知られる北京料理、海に囲まれた地理的特徴から海産物が多く使われる台湾料理など、この街に来ればありとあらゆる中国料理を食すことが出来ます。

そんな横浜中華街の人たちが、心のより所としているのが関帝廟です。開港3年後の1862年に建てられた小さな祠が始まりとされ、主神は三国志の英雄として有名な実在の武将関羽。旧暦の6月24日(今年2021年は8月2日)には関羽の生誕日を祝い、中華街を代表する伝統行事「関帝誕」が開かれます。

横浜中華街には、この関帝廟と同様、実在したとされる人物を祭った媽祖(まそ)廟があります。媽祖はおよそ1000年前の北栄時代、福建省で生まれ、備わった神通力によって人々を救ったという伝説が残る女性だそうです。その後、媽祖は神格化され、航海の安全や漁業、健康、縁結びにご利益があると言われる女神として、主に中国沿岸地方、台湾などで信仰されるようになりました。日本では15世紀に沖縄・琉球王国で祭られたのが最初とされ、横浜中華街のほか、箱根や長崎など日本全国約20カ所に媽祖を祭る神社仏閣があります。

横浜中華街 媽祖祭
春節と共に、横浜中華街に春の訪れを告げる媽祖祭が、毎年3月20日に開催されます。2006年の3月に「横浜媽祖廟」が開廟したのを記念して始まりました。日本ではお彼岸の時期ですが、我が家では湘南にある義父の墓参の帰り、横浜に立ち寄ることがあり、媽祖祭にぶつかったことがあります。盛大に爆竹が鳴らされ、燈や太鼓、銅鑼など総勢約200人の行列が中華街を巡行。今は亡き義母と一緒に、媽祖祭を見られたことは、いい思い出になっています。

ところで、義母や義姉、妻と一緒の時は、「萬珍樓」や「聘珍樓」といった高級店に行くことが多いのですが、一人で行った時は、焼きそばで有名な「梅蘭」か、スープチャーハンの「接筵」、あるいは四川料理の「富筵」で食べていました。富筵は、以前に取材でお世話になったこともあり、まず最初に覗きます。ここは、料理そのものもさることながら、あんにん豆腐がうまいです。

で、接筵と梅蘭ですが、接筵は、神奈川県中日調理師会の会長やメルパルク総料理長として知られ、中華街の料理人が一目置いていた勢津栄興さんの店でした。「でした」というのは、2004年に栄興さんが亡くなり、跡を息子の文慶さんが継いで、店の味を守っていましたが、2019年暮れ、惜しまれつつ閉店してしまいました。

海員閣
一方の梅蘭も、勢津さんと同じ2004年に創業者の藤江林洋一さんが逝去。こちらもお子さんが後を継ぎましたが、兄弟それぞれが「梅蘭」の名で店を継承。お兄さんの梅蘭は神奈川県内はもとより、東京、埼玉、千葉、茨城、愛知、京都など20店舗、弟さんの梅蘭も県内を始め東京、大阪、岡山、福岡など19店舗を展開。ちょっとややっこしいんですが、どちらも「梅蘭焼きそば」をウリにしています。

接筵と梅蘭、それぞれ創業者が看板メニューを生み出し、有名になった中華料理店ですが、先代が亡くなった後は、全く異なる道を歩んだことになります。そう言えば、横浜中華街で忘れてはいけないのが「海員閣」。

海員閣が創業した1936(昭和11)年当時は、中華料理に必須の火力の強い厨房設備がなく、中華街ではコークス窯を使う店が多かったようです。しかし、時代と共に高性能の設備が登場すると、火起こしやメンテナンスが大変なコークス窯を使う店は徐々に減り、最終的にはこの海員閣だけになってしまいました。しかし、こちらも代替わりに伴う長期休業を経て、2018年5月に再開した店では、創業以来のコークス窯を諦め、ガスに替えたそうです。たぶん性能的には問題ないのでしょうが、寂しい気もします。

そんなわけで、今、個人的には、接筵のスープチャーハンが食べたい、と思う私です。

横浜みなとみらい

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