国のため散華した若鷲を追悼し、恒久の平和を祈る
阿見町は茨城県南部、町の北側を霞ケ浦に面し、大正時代末に東洋一の航空基地と言われた霞ケ浦海軍航空隊が設置されました。更に昭和14年には海軍飛行予科練習部、いわゆる予科練が神奈川県・横須賀から移転し、予科練教育の拠点となりました。予科練を経て戦地へ赴むいた若鷲は約2万4000人、その8割に当たる1万8564人が戦死しました。
その阿見で、予科練の貴重な遺産と歴史を後世に伝え残していこうと、40年以上にわたり毎年8月に、国のために亡くなった若人の冥福を祈りつつ、恒久の平和を誓う会が開催されていると聞き、取材に行きました。会場は、戦陣に散った予科練生の名簿を納めた「予科練の碑」前で、主催のライオンズクラブ関係者を始め、武器学校幹部、阿見町関係者、ロータリークラブ役員らが出席。夕闇迫る午後6時半に開会し、黙祷の後、「海ゆかば」が奏でられる中、出席者全員で白い菊を献花しました。
「予科練の碑」は、陸上自衛隊土浦駐屯地の中にありますが、碑が設置されている庭園「雄翔園」と、その一角にある「雄翔館」は、自衛隊駐屯地に隣接する阿見町運営の予科練平和記念館から、駐屯地の通用路を通って自由に見学することが出来ます。
当日、私は上野から常磐線に乗って土浦まで行き、土浦からはバスで予科練平和記念館を目指しました。最寄りのバス停は阿見坂下で、降車後、記念館までは徒歩3分です。記念館一帯は、霞ヶ浦平和記念公園になっていて、記念館の側には、あの零戦(零式艦上戦闘機)のレプリカが展示された格納庫や、人間魚雷・回天一型の実物大模型があります。
予科練平和記念館は、予科練の歴史と共に阿見町の戦史などが保存・展示されています。「阿見町名所百選」になっていて、命の尊さや平和の大切さを考え、次代に伝える施設として、2010(平成22)年2月2日に開館しました(なぜ2並びなのかは不明)。この記念館を出て、回天の模型を右手に見て歩道を進むと、「雄翔館 無料→」と大書された看板が前方に見えます。ここからは陸上自衛隊土浦駐屯地になり、仕切られた通路を通って、雄翔園へ向かいます。
雄翔園の中央の芝生は桜の花びらをかたどっており、芝生まわりの敷石は錨を、芝生の中の7個の石は予科練の制服「七つボタン」と七つの海を表現しているそうです。また、池と築山は日本列島を表し、各都道府県の場所にはそれぞれの場所から運んだ石と、木が移植されていると伺いました。その一角には、1968(昭和43)年に開館し、予科練出身者、遺族などで構成される財団法人海原会が管理する雄翔館があり、予科練戦没者の遺書・遺品約1500点を収蔵、展示しています。
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以前、関係していた雑誌に、予科練出身の方から寄稿して頂いたことがあります。その一部を抜粋して紹介します。
「当時15歳半ばだった私は、国や家族を守るという純粋な志を抱いて予科錬に入隊した。昭和15年のことだ。『七つボタンは桜に錨』の歌のようなロマンチックな所ではなく、想像を絶する猛訓練の毎日であった。(略)
昭和18年、搭乗に必要な全課程を終了し、私は一人前の零式艦上戦闘機搭乗員として、柴田指令率いるラバウル204海軍航空隊に着任した。が、日本は既にガダルカナルから撤退し、ソロモン海域の戦局は一段と厳しさを増しつつあった。制空権確保のために、私たちゼロ戦部隊は連日の出撃を余儀なくされた。消耗も激しく、内地からの補給も途絶え、戦局は悪化の一途をたどった。
昭和19年1月、我々はトラック島に移動した。忘れもしない2月17日、グラマン100機の猛空襲を受けた。押っ取り刀でゼロ戦に飛び乗り迎撃に飛び上がったが、高度もスピードも十分なグラマンは、優位な態勢で我がゼロ戦に襲いかかってきた。後ろ上方から突っ込んでくるなと思ったとたんに、腰がピシッと鞭で打たれたような感じを受け、下半身が痺れてしまった。『やられた!』と思ったが、不思議に痛みがない。『なにくそ!』と操縦桿を握りしめ、無我夢中で機首を反転させ追撃態勢に入った。必殺の狙いを定めて全弾発射した。手ごたえは十分! 命中した。バランスを失ったグラマンはまもなく錐揉み状態となり、空中分解し私の視野から消えた。
出血が多いためか気を失いそうになる自分を励まし、愛機ゼロ戦を信じ、いちばん近い竹島飛行場に緊急着陸した。野戦病院で応急処置を受け一命は取りとめたが、病院船(氷川丸)で呉に輸送され、呉海軍病院で手術を受けた。傷が癒えて峯山海軍航空学校の指導教官として再び着任したが、もはや日本は練習機も燃料も底をついていた。訓練生徒の多くは飛ぶこともなく、人間魚雷回天に動員され、神風特攻隊として散った。
昭和20年、敗戦により復員した私の故郷は廃墟と化し、食糧事情も極めて悪く、ほとんどが栄養失調であった。みな、空腹に耐えた。
今日の日本の繁栄をだれが想像しただろう。しかし、日本は世界に稀な奇跡の復興をなし得た。その原動力になったのは戦争の空しさや悲惨さを経験し、廃墟の戦後を乗り越えた人々のたくましい勤労意欲によるものだったろう。先人の血と汗により得た豊かさであることを、若い方に知ってもらいたい。」
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