震災の被災地で女性たちの支援に取り組む
宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。
そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。
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その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。
家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。
ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。
しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました。そこで、高浜消防団の団員3人が、高浜から隣の磯鶏に抜ける、昔の農道を通って母子を病院へ送り届けることになりました。夜の8時過ぎの真っ暗な中、けもの道の状態の峠をそれこそ命がけで歩いて越え、母子は無事、病院に入ることが出来ました。
次の日、岩間さんは偶然にも母子を探していた父と祖父に出会い、二人の無事を伝えたのでした。
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母子が、消防団に連れられ通った山道は胡瓜沢と呼ばれ、以前から住人により、津波で高浜地区が孤立しないよう、車が通れる道路を開設してほしいと切望されていたそうです。須賀原さんは、震災直前に開かれていた市議会の一般質問で、この道の重要性を訴えていましたが、その時の答弁は思わしいものではありませんでした。それが、震災で認識が変わり、復興予算で避難道路としての設置が決まりました。「高浜地区では、高浜小学校が避難所に指定されていましたが、そこへ避難するにはいったん海側へ下がらなければいけないお宅もありました。もっと早くに開設していたなら、これほど多くの犠牲者を出さないで済んだのでは、といまだに悔やまれます。
東日本大震災では、宮古の田老地区で『万里の長城』とも呼ばれた巨大な防潮堤が破壊され、同地区に大変な被害をもたらしました。津波に対しては、防潮堤などに頼るのではなく、まず逃げることです。それが命を守る最良の方法であり、最大の防災なのです。そのためには逃げ道を確保しなければなりません。遅きに失した感はありますが、道路の設置をまずは喜びたいと思います」(須賀原さん)。
この話を伺ったのは、2016年の4月に、宮古市長が年度最初の記者会見で、その年度が復興計画における再生期の最終年度に当たり、災害公営住宅や区画整理など、住まいの再建に向けたハード面での整備が今年度中に完了する見通しを示した時でした。こうして、行政によりハード面の整備が着々と進む中、須賀原さんたち「輝きの和」では、ソフト面で復興をバックアップしていました。
「輝きの和」の製品は、被災地の手作り品ということもあり、当初から東京でも盛岡でも、多くの人が関心を寄せ、実際に購入してくれました。しかし、岩間さんと須賀原さんは、被災地だからという理由で買ってもらえるのも2年が限度だろうと、発足時から商品価値のあるものを作ろうと考えていました。
ヒントは支援物資の中にありました。「輝きの和」では、小物作りの材料となる端ぎれを募集していましたが、送られてきたものの中には、着物や帯などの古着も混じっていました。そこで、これを生かす方法として、江戸時代に東北地方で生み出された裂き織りに着目。横浜の裂き織り教室から講師を招いて講習会を開くなどして本格的な活動を始めました。そして、木目込み人形作家の岩田博子さんや、ウニの殻を使った染色技術を確立した「アトリエぐらん」の田川宮子さんらの協力を得て、商品開発を進めてきました。
その後、2015年1月17日に、念願だった「みやこ体験広場」が、宮古市実田の民有地にオープンしました。広場には、新旧合わせて4棟のユニットハウスを設置。広場のうち、手創工房「輝きの和」では、裂き織り(緋紗織)と、着物のリメークを中心に制作。また染物工房では、うに殻から抽出した色素を使う、うに染めが体験出来るようにしました。更に無料の交流スペース「陽だまり」も併設させました。
「裂き織りは横浜から、着物のリメークは東京から、それぞれ講師を招き、定期的に講座を開設する予定です。工房への参加者は年配の方が多いんですが、今後は若い方も増やしていきたいですし、観光客にも来て頂きたいと思っています。また、交流スペースには無料で使えるカラオケを用意したいですし、将来的にはキッチンカーを置いて名物グルメを提供し、老若男女いろいろな人が集う、本当の意味での広場にしたいと思っています」と、体験広場オープンの日、須賀原さんは将来構想を話してくれました。
その構想通り、しばらくして、キッチンカーも購入。「老若男女いろいろな人が集う、本当の意味での広場にしたい」と、空きスペースにキッチンカーを置いて、宮古らしい食の提供も始めました。キッチンカーは「輝きの和」にふさわしく、ハワイ語で「日の光が当たる場所」 「太陽の光が差し込む場所」を意味する「KUKUNA(くくな)」と名付けられました。
キッチンカーKUKUNAは、2018年暮れから、宮古市鍬ケ崎地区に出動するようになりました。鍬ケ崎は、津波で甚大な被害を受け、当時、区画整理事業が進んではいましたが、建物よりも空き地の方が目立ち、いまだに飲食店は1軒だけという状態でした。ここでKUKUNAは「中華そば」ののれんを掲げ、ラーメン店として営業を始めました。店を出すのは、津波で被災した加倉稔之さんと佳子さん夫婦。
かつて茨城県でラーメン店を開いていたご主人が、「津波で全てを流された鍬ケ崎を活気づけたい」とラーメン店の出店を計画。「輝きの和」に参加していた佳子さんから、その話を聞いた須賀原さんたちが、地域復興の役に立てればとキッチンカーの提供を申し出て、ご夫婦のラーメン店営業が始まりました。
「輝きの和に参加したことで皆さんにお会い出来、そのおかげで鍬ケ崎に帰って来られました。地元の皆さんも、突然現れたキッチンカーを快く受け入れてくださり、開店翌日からは回覧板を回してくださったのではと思うほど、多くの方にお越し頂いています」と、佳子さんは話していました。
ところで、最後の宮古取材は、カメラマンの田中さんと一緒だったんですが、駅前のホテルに泊まって、翌日のロケハンがてら、駅周辺をぶらぶらした後、「季節料理 栄子」という店に入りました。冬だったこともあり、以前に「どんこ汁」を食べた「魚元」という店を第一候補にしていたのですが、どうやら廃業しているっぽく。で、周りを見渡すと、「ジンギスカン椿」やら「焼とり遠野物語」やら、宮古というより遠野の印象・・・。
そこで、「遠野物語」の路地を入ってみたところ、すぐさま赤提灯が出現。それに誘われ、まんまと「栄子」さんに入ったというわけです。先客はなく、カウンターの中には、我々の母親世代とおぼしき女性が一人。若干の不安はあったものの、実は私、こういう雰囲気が嫌いじゃないので、田中さんを促してカウンターに着席。寒かったので、熱燗とおでんをお願いしました。で、目の前の燗どうこが、とてもシブいので、聞いてみると、50年物とのこと。なかなかお目にかかれない年代物でした。
なお、この記事を書くに当たり、「栄子」さんの近況を調べたところ、どうやら閉店している模様。ちなみに、割烹料理屋「魚元」は、震災前は駅弁もやっていて、駅弁ファンの間では有名店だったらしいのですが、結局、宮古駅名物の「いちご弁当」や「海女弁当」は、復活することなく、調製元の閉店と共にその歴史を閉じたようです。
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