そうだ 大槌、行こう
東日本大震災が起きた時、この海岸にある浪板観光ホテルには、47人の宿泊客がいました。そのうち、秋田県五城目町と井川町の「老人クラブ」会員ら43人は、地下1階のホールで大衆演劇を観劇している最中でした。お年寄りたちは、浴衣に羽織、スリッパ姿でしたが、従業員の指示で、そのままホテル前の国道を横切って山を上り、町内会の集会所に避難しました。
いったん落ち着いた後、山﨑龍太郎社長と妹で女将の緑莉さん、そしてホテルの防災担当だった道又晃さん、営業支配人小笠原弘孝さん、料理長那須川忠さんらが、ホテルへ戻って状況を確認すると共に、部屋に客が残っていないかどうか、館内を確かめて回りました。その時、船越湾の入口にある野島で、水煙が上がりました。それに気づいた道又さんは、すぐに「津波がきます」と声を掛けましたが、山﨑社長と緑莉さんは間に合わず、押し寄せた津波にのみ込まれました。また、那須川さんもホテルの駐車場で津波に巻き込まれました。
ホテル近くの国道に待機していた大槌町消防団の加賀敏勝さん、久保衛さん、佐藤貴広さんの3人が、すぐに那須川さんの救助に向かいました。しかし、国道から10m下の駐車場へ垂らした消防用ホースを、那須川さんがしっかりつかんだところに、更に大きな第2波が押し寄せ、那須川さんと3人の消防団員は、ポンプ車と共に流されてしまいました。
一方、「老人クラブ」会員らが避難した集会所では、地元の人たちが米や衣類、毛布を差し入れてくれ、一行は、ここで2晩を過ごした後、3月13日にホテルのバスで五城目町へ帰ることが出来ました。「命拾いしたのはホテルの従業員や大槌町民のおかげ」「ホテルは犠牲者を出しながら全員の命を守ってくれた。このご恩を忘れてはならない」。五城目町ではホテルや大槌町への感謝の気持ちが強く、町を挙げて救援物資を届けたり、街頭募金で義捐金を集めたり、大槌への恩返しが始まりました。
震災から2年4カ月となる2013年7月11日の月命日には、旧大槌町役場前に新しい献花台を設置。五城目町の有志が地元産のケヤキ材で造り、寄贈したものでした。献花台が置かれた旧役場では、当時の町長を始め職員40人が犠牲になりました。そのため慰霊の場となり、献花に訪れる人の姿が絶えませんでした。古い献花台は、折り畳み式の簡素な事務机で、町の人たちは、「訪れた人たちを、きちんとした献花台で迎えたい」と考えていたと言い、新調された献花台に涙を浮かべる住民もいたそうです。
その年8月30日、被災後、営業を休止していた浪板観光ホテルが、「三陸花ホテルはまぎく」の名で、営業を再開しました。ホテルは、上皇陛下が天皇時代の1997年に上皇后陛下と共に宿泊され、美智子さまが、海岸に咲いたハマギクを気に入られたことから、山﨑龍太郎社長が苗を皇室に献上したことがありました。震災から半年後の2011年秋、美智子さまの誕生日に宮内庁が公開した写真にハマギクの花が映っており、それを目にした山﨑さんの弟・千代川茂さんは、ホテルの再建を決意。ハマギクには「逆境に立ち向かう」という花言葉があることから、ホテル名に「はまぎく」の名を冠することにしました。
また、五城目町の有志が寄贈した献花台には、その後、大槌のNPO「和RING-PROJECT」が屋根を設置。前の献花台は雨ざらしで傷みが激しく「犠牲者に申し訳ない」という声も出ていたため、献花台の寄贈に立ち会った代表の池ノ谷伸吾さんが、申し出たものでした。
池ノ谷さんは、埼玉県越谷市の出身で、震災後、週末ごとに支援物資を積んで被災地に駆け付ける生活を続けていました。その中で、産業と雇用の創出が必要だと痛感。津波で流された住宅や家具の木材を使って、被災した人たちがキーホルダーを製作し、それを販売するアイデアを思いつきました。そして自らも大槌町への移住を決意。2011年7月から始めた「がれきのキーホルダー」は、仮設住宅などに住む40人以上の被災者が内職に携わり、全国で5万個以上を売り上げました。
その後、「和RING-PROJECT」は大槌町小鎚地区に「シェアファクトリー」を開所し、本格的に木工品の製作を開始。池ノ谷さんを始め、スタッフは木工未経験者でしたが、「木工の町」と呼ばれる五城目町の職人から技術を学んだり、大学機関と連携して製品作りに当たったりして、技術も製品の質も飛躍的に向上させました。私も、関係する雑誌で読者プレゼントに製品を使わせてもらったり、誌上開催した「炊き出しグランプリ」の上位入賞者へ贈る記念盾を作ってもらったりました。
「和RING-PROJECT」では、一時、大槌の町を見渡せる城山から、ライブカメラ映像を配信していたことがあります。城山は標高141m。四つの郭から構成された大槌城があったことから、城山の名で呼ばれます。
城山からは、大槌町の中心部や大槌湾が望めます。大槌湾にぽっかりと浮かぶ蓬莱島は、「ひょっこりひょうたん島」のモデルと言われる島で、島が見える場所には、震災復興モニュメント「3.11大槌希望の灯り」が建っています。「希望の灯り」は、阪神淡路大震災から5年後の2000年、47都道府県から寄せられた種火を一つにして、神戸市に点灯されたものです。この「灯り」が、2011年12月に岩手県陸前高田市、12年3月に福島県南相馬市に、そして大槌には震災から1年8カ月となった13年11月11日に分灯されました。
中心となって分灯を推進したのは、福井県・敦賀のSNさんで、SNさんたちは大槌への支援活動を継続的に実施しており、「3.11大槌希望の灯り」もその一環で計画を進めました。その中で、碇川豊大槌町長からも「町民の心の拠り所にしたい」と賛意を得ました。その上で「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」を管理するNPO法人(堀内正美代表)に依頼し、分灯が実現しました。
この城山の麓に、江戸後期の創業以来180年続いた「小川旅館」がありました。しかし、津波とその後の火災で建物は骨組みを残すだけとなりました。一時は廃業も考えたそうですが、震災翌年の12月3日、大槌町小鎚に場所を移し、「小川旅館 絆館」として営業を再開しました。新しい旅館は、女将・小川京子さんの夫で、建築士だった勝己さんが手掛けました。勝己さんは震災後、勤めていた建設会社を辞め、京子さんと二人三脚で旅館の再開を目指しました。
京子さんは、旅館の跡取りとして迎えられた養子だったそうで、必死で旅館の仕事を覚えるうちに、自然と「母のようなおかみさんになりたい」と思うようになりました。そんな中、震災前から病床にあった母ミヲさんが退院したら、「小川旅館」で迎えたい。京子さんは、そのために再開を急ぎ、その気持ちをくんだ勝己さんも、一緒になって再建に取り組みました。
ミヲさんは、仮設旅館のオープンを前に亡くなりましたが、京子さんは、亡き母や震災で助けてもらった人たちへの感謝を込め、新生「小川旅館」を「絆館」と名付けました。私は、2013年4月の取材で初めて利用させてもらい、それから何度かお世話になりました。というのも、京子さんは旅館再開までの一時、私も大槌で親しくさせてもらっている八幡幸子さんの「ファミリーショップやはた」で働いていたり、SNさんたちが建立に奔走した「希望の灯り」の維持管理のために販売されている瓦せんべいを旅館で扱ってくれたりしていたので、出来るだけこちらにお世話になろうと思ったためです。
で、最初に「絆館」に泊まった際、「ひょっこりしょうたん島」の前にある水産加工の協同組合「ど真ん中おおつち」を訪問しました。この組合は、震災後すぐに、「立ち上がれ!ど真ん中・おおつち」として発足した大槌町地場産品復興プロジェクトで、5月1日から「ど真ん中おおつち協同組合」となりました。ネットでサポーターの募集があり、私は11月にこのプロジェクトを知って、サポーターになりましたが、翌年3月31日の募集終了まで、4929人のサポーターが申し込んだそうです。
その後、2014年10月25日にも、「ど真ん中・おおつち」の事務局を訪問させてもらったのですが、その時、11月2日開催のF1グランプリ(Fish-1)のポスターが壁に貼られていたのに気づき、会場の築地市場はうちの事務所の近くだと話すと、「ちょうどいい! どうやって行ったらいいかさっきから検索していたところだ」と。そこで、分かりやすい経路と、ホテル、市場の位置などを教え、当日、私も応援に行きました。
ちなみに、大槌は、新巻鮭発祥の地と言われており、冬場のシーズンになると、「ど真ん中・おおつち」でも、新巻鮭を作ります。三陸でとれるシロサケは、味が良いことで知られ、産卵期が近づいて鼻が大きく曲がった特徴的な容貌から「南部鼻曲がり」と呼ばれます。かなりのインパクトがあるこの鮭を、10日ほど塩漬けにした後、流水に一昼夜さらしてから体を磨き、最後に北上山地を越えて吹き下ろす寒風にさらして干し上げます。
新巻鮭の誕生は、慶長から元和年間というから、江戸開府前後のことになります。大槌城主の大槌孫八郎政貞が、領内でとれた鮭を塩漬けにして江戸へ出荷。塩鮭は、人口が急増していた江戸で、「南部鼻曲がり鮭」の名で珍重され、大槌氏はこれで大きな利益を得たといいます。初物好きの江戸っ子は、初鰹などと共に初鮭にも飛びつきました。そんな人気の鮭を将軍に献上するため、鮭がとれる各地の藩では塩鮭を作り江戸へ贈るようになりました。やがて、この風習が庶民にも広まり、歳暮の贈り物「新巻鮭」が定着したそうです。
大槌には、「小川旅館 絆館」 や「三陸花ホテルはまぎく」など、宿泊施設も整っていますし、「ど真ん中・おおつち」を始め、おいしい三陸の海の幸が味わえます。新型コロナが落ち着いたら、ぜひともまた伺いたいと思っています。
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