新「恋の峠物語」。多くの人々の命を救った恋の峠
鵜住居の根浜海岸にある津波記憶石 |
2019年4月にオープンした「うのすまい・トモス/鵜の郷交流館」に出店する野村商店と、釜石港に面した陸中海岸グランドホテルの副社長を務める野村周司さんは、東日本大震災の津波でご両親を失い、ホテルも2階まで浸水。また、鵜住居などで経営していた4店舗が流されました。
野村さんと初めてお会いしたのは、震災から1カ月後の4月10日でした。支援物資を搬入した時のことで、野村さんは、ご自分も被災しているにもかかわらず、率先してその受け入れをされるなど、釜石のために活動をされていました。その野村さんから伺った「恋の峠」の話です。
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釜石市北部に位置する鵜住居地区の、海岸線から約800m、鵜住居川沿いの低地、海抜3mの場所に、釜石東中学校と鵜住居小学校が並び、川を挟んで鵜住居保育園がありました。2011年3月11日の東日本大震災のあの日、0歳の園児を含む三つの園校の児童・生徒が最後に逃げ登った峠、それが「恋の峠」です。
あの大地震がなければ、ただ地方の田舎で静かに語り継がれていたであろう「恋の峠物語」。物語は平安、鎌倉時代にさかのぼります。時の英雄・源義経が、兄・頼朝の追跡を逃れ、途中で落ち合った静御前と共に恋を語り合いながら越えたという、まさに「歴史ラブヒストリア」です。岩手県の三陸地方には今も、義経が平泉に影武者を残して各地を巡ったという伝説地がたくさん残っています。
更には江戸時代後期、当時盛んだった鉄鉱石の採掘と製鉄。それを山から運ぶ人夫と、その鉄を船に積み込む港の近くに住む浜娘との、かなわぬ「恋の物語」は、今でも語り継がれています。
その峠に逃げ登った子どもたち。恋の峠は「釜石の奇跡」の舞台となりました。
釜石東中学校 |
峠は校舎から約2km離れています。地震発生後、彼らはまず、当時指定されていた学校近くの山際にある避難場所へ向かいます。しかしそこに着くと、裏手にある山の側面が崩れかかっていました。そこで子どもたちは自らの判断で、更に恋の峠まで駆け登ったのです。子どもたちが後にした直後、その避難場所は津波にのまれました。
海の近くに建つこれらの学校では、普段から「津波てんでんこ」(大きな揺れを感じた時は津波が来るから、各自てんでんばらばらに一刻も早く高台に逃げて、自分の命を守る)を標語に、訓練が行われていました。それが、大きな被害を受けた地域にありながら、恋の峠に避難した子どもは全員が助かり、釜石市内全体でも、小中学生約3000人の生存率が99.8%という「奇跡」につながったのです。
鵜住居小学校 |
一方、残念なことに親が学校に迎えに来て一緒に帰ったり、病欠で休んでいた子どもたちが命を落としました。
奇跡を生んだ子どもたちとは逆に、住宅地に住む大人の多くは、震災1年前に完成したばかりの鵜住居地区防災センター(鉄筋コンクリート造り2階建て)へ逃げ込みました。ここは津波に襲われた場合の正式な避難場所ではありませんでしたが、住宅地から行きやすい場所にあること、そしてその名称が「防災センター」であったために、多くの人々が集まってきてしまったのかもしれません。
鵜住居・根浜海岸 |
これが、「釜石の悲劇」を生みました。300人~500人近くの人々がセンターに逃げ込んだと思われます。波が引いた後、建物内から救出された生存者はわずかでした。津波はセンター2階の天井付近まで達していました。
この奇跡と悲劇を生んだ鵜住居地区は、大槌湾と両石湾に面しており、釜石市内で最も大きな被害を受けた地域でした。
その後も停電、道路の寸断などで多くの命が失われていきました。
私自身、大津波の荒れ狂う波にのまれていった両親の悲鳴が、今でも鮮明に残っています。
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