がれきの町から踏み出した復興への歩み - 陸前高田編
郷好文さんという方のブログ(「鉛筆の持つ永遠の力」)で、陸前高田の伊東進さんの話が紹介されていました。そのブログが書かれたのは、2011年の3月24日。東日本大震災から13日が経った日の記事でした。その部分を引用させて頂きます。
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【生きていてほしい】
さて、中学生に鉛筆を贈る文具店の社長の話に戻る。まずこの市とは「陸前高田市」という。そう、今回の東北大地震で壊滅的な打撃を受けた岩手県の市だ。2011年3月24日現在、死者804名、不明1,700名。避難所で確認されているのは1万1,516名、合計すると1万4,020名だが、人口は2万数千名なので、被災の実態はまだ不明だ。
その文具店は伊東文具店という。岩手県陸前高田市高田町字馬場前46-2に「あった」。経営者は伊東進さんで、市内の中学生に鉛筆を贈ってきた人だ。ぼくは伊東社長を知っているわけじゃない。偶然、その贈る記事を地方紙で読んだだけだ。
2011年4月15日、鳴石地区にオープンした伊東文具店の仮設店舗。進さんの遺志を継いで、兄で会長の孝さんが店を再開した。その後、竹駒地区の仮設店舗に移転し、現在はかさ上げ地区にあるアバッセタカタ専門店街で営業中 |
だがどうされているのかと思って調べてみると、伊東さんの消息を訊ねるツィートを見つけた。地震発生後、お客さまを店外に誘導し、店員を帰宅させて、店の戸締まりをしているのは目撃された。その後、ご存じありませんか、という内容だ。
GoogleのPerson Finder/消息情報にその名前を入れると、「この人が亡くなっているという情報を寄せられています」と出ていた。案外生きているのかもしれない。生きていて欲しい。鉛筆の力、書く力、ことばの力の永遠を知る人だろうから。
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陸前高田でも、宮城県南三陸町、福島県飯舘村と共に、追跡取材をさせて頂きましたが、その中に、伊東さんと親しい方もいらっしゃいました。特に、水道工事業の熊谷又吉さんは、伊東さんと共に、ある会の次期役員を引き受けることになっていました。
がれきが撤去された高田地区(2012年2月) |
山を切り崩してかさ上げが始まった高田地区(2014年5月) |
皆さんの話によると、伊東さんは、経営する文具店の客を避難させ、店の戸締まりをした後、妻の富美代さんと共に避難しましたが、間に合わなかったのだそうです。郷さんのブログにあるように、伊東さんは、震災の2年前から、高校受験を控えた市内の中学3年生に鉛筆を贈っていました。試練に挑む生徒たちを激励しようと、鉛筆には、中学時代の恩師に教えられ、座右の銘にしてきた「努力は幸せの貯蓄なり」の言葉を刻印していました。震災の少し前にも、その年の中学3年生225人分を贈ったところだったようです。
その話をしてくださった方たちも、それぞれ大変な経験をされていました。
奇跡の一本松(2012年2月) |
奇跡の一本松(2013年3月) |
地震が起きた時、熊谷さんは社員4人と共に事務所にいました。立っていられないほどの激しい揺れ。周囲は液状化によって一瞬で沼のようになりました。長く続いた揺れが収まると、社員に指示して事務所にあった車両4台を高台へ移動。それが済むと事務員と共に車に乗り、指定避難場所の気仙小学校へ逃げました。
校庭には、下校前だった小学生たちがいて、避難の車が続々と集まっていました。途中、津波予想3mとの警報を聞きました。「よし、それなら堤防を越えるはずはない」と思ったそうです。校庭に着くと、一緒に避難した事務員が、山育ちなので津波を見たことがないと言うので、それでは様子を見てみようと、校庭の西側にある小高い山へ上りました。海の方へ目をやると、津波は堤防を越え、気仙大橋ものみ込まれて見えなくなっていました。
奇跡の一本松(2018年5月) |
その日は朝から冷え込みが厳しく、やがて吹雪になりました。暗闇が迫る中、避難させておいたダンプカーに、凍える子どもやお年寄りを乗せ、近くの民家やお寺、神社へと運びました。その夜は、子どもたちと一緒に神社で過ごしました。賞味期限の切れたコンビニのおにぎりを届けてくれた人がいて、子どもたちに食べさせました。翌朝は、近くの加工場から流された冷凍サンマを見つけ、それを焼きました。連絡を取る術もなく、頼りはラジオだけ。しかし、陸前高田に関する情報は全くありませんでした。昼になり、再び子どもたちをダンプカーに乗せ、水の引いた小学校へ送り届けました。
「自宅は無事でしたが、それから2~3日はろくに眠れず、食べ物がのどを通りませんでした。目を閉じると、校庭にいた人たちの姿が脳裏に浮かびそうでした。それでもあの時、小学校にいた子どもたちは一人も流されなかった。それが、せめてもの救いだと思っています」。そう熊谷さんは話していました。
建設業の金野秀さんの事務所と自宅は、高田松原の東側に位置する陸前高田市米崎町にありました。午後2時半、舗装工事の現場に出ていた人員が事務所に戻った直後に地震が起き、すぐ全員を避難させました。金野さんは5歳の時、チリ地震津波で自宅を流されています。父に背負われて逃げ、夢中で山を這い上がった記憶が強烈に残っていました。「大きな津波が来る。ひょっとしたら堤防を越えるかもしれない」。そう直感したそうです。
被災したキャピタルホテル1000(2011年5月) |
高台に移転して営業を再開したキャピタルホテル1000(2013年11月) |
高台にある避難場所の米崎町コミュニティー・センターで目にしたのは、予想をはるかに超えた巨大津波でした。高田松原の東端に松原第1球場がありました。その高さ23mの照明灯が、上部の照明部分をわずかに残して見えなくなりました。事務所と重機20台、自宅を全て失いましたが、家族と従業員は全員無事でした。
その後、追跡取材を続ける中で、被災直後は夢遊病者のようだったという熊谷さんも、重機20台以上を失った金野さんも、復旧作業に力を尽くそうと、土地を借りて仮設事務所を立ち上げました。熊谷さんは、市内8社の水道工事業者が災害復旧事業のために作った組織の団長を務めることになりました。休日返上で朝6時から夜7時まで働いても足りないほどの忙しさでした。金野さんは、県内の建設業協会支部から重機の提供を受けて、がれきの処理を行うことにしました。
震災前からの知人・米谷春夫さんが代表を務めるスーパー「マイヤ」は、公休中の従業員16人が犠牲となり、16店舗中6店舗と本社が被災しましたが、津波を免れた大船渡インター店はその日の夕方から店頭に商品を並べて営業を再開。日が暮れてからは従業員の車を集めヘッドライトで照らしながら販売を続けました |
震災から2週間余りで陸前高田鳴石地区に仮設店舗をオープン(2011年5月撮影) |
2011年8月には竹駒地区に大型店舗を開設(2011年11月撮影)現在はかさ上げされた高田地区に戻り営業 |
その一方、苦渋の決断をした人もいました。前年、創業50周年を迎えた自動車整備の高田自工を経営する長谷川利昭さんは、14人の全社員を集めて、3月末に解雇することを伝えました。人件費を全て、会社再建に充てるためでした。
「あの日はたまたま新車が2台入ってくる日で、車を下ろし一息ついた時に地震が起こりました。尋常じゃない揺れだったので、社員にはすぐ避難を指示したんですが、社員からは『車を高台へ移しましょう』という声が上がりました。
そこで納車前の新車やお客さんから預かっている車などを、社員総出で高台へ移し始めました。しかし、3回目の移送のため戻った時、津波が迫ってきたのが見えたため、これはもうだめだと高台へ逃げました。
高台からは、津波による土煙だけが見え、高田の街がその土煙にのまれていくのを呆然と見ていました。
大隅地区の山林を自分たちで切り開いて再開した高田自工(2011年6月) |
結局、移動出来た車は12~13台ほどで、展示車など30台ぐらいが津波で流され、自宅と事務所、工場、展示場など全てを失いました。自宅と会社があった地域には、約200世帯が住んでいたんですが、ここで180人の方が亡くなっています。避難所になっていた、すぐ近くの市民体育館を津波が直撃し、避難した約100人のうち助かったのは数人だけでした。体育館に家族が避難しているからと先に帰した社員の一人も、津波の犠牲になりました。
3月末に全社員をいったん解雇しましたが、絶対に再建してまた一緒に働こうと話しました。その後、山の斜面の雑木林を工場用地として借りるめどがつき、自力で切り開くことにしました。
解雇した元社員たちが駆け付けてくれ、みんなで山を開き整地しました。修理用の機材も全て津波にさらわれてしまいましたが、取引先の社長や知人らが助力してくれ、仮設の工場で何とか業務を再開させることが出来ました。
津波で何もかも失ったと思ったんですが、そうじゃなかったんです。支えてくれる友人、知人、そして社員たち。それに、何よりも大切な家族が残りました。そう考えると、石にかじりついてでも、絶対に会社と地域を立て直さなくてはという気持ちになりました」
高田自工の皆さんが切り開いた山は、高台の大隅地区ですが、そこから300mほどの所に、2012年6月、「高田大隅つどいの丘商店街」がオープンしました。
この商店街構想は震災の年の5月に、建設予定地の地権者から承諾を得てスタートしました。しかし、その場所が、段々畑と傾斜地に挟まれた谷になっていたため、埋め立てなどの整地に時間を要し、更に建屋の完成も遅れて1年1カ月がかかってしまいました。市民にとっては待ちに待ったオープンで、特に陸前高田では震災以来初めてとなる大型の仮設商店街とあって、オープニング・イベントには子どもからお年寄りまで、多くの市民が詰め掛けました。
商店街の北側に出来た「つどいの丘」は、陸前高田の未来を担う子どもたちが関わり、オープン後も子どもたちが集まれる場所というコンセプトの下、セーブ・ザ・チルドレンの「陸前高田市子どもまちづくりクラブ」が自分たちで企画・デザインしたそうです。
その後、他の被災地の仮設商店街同様、高田大隅つどいの丘商店街も2018年9月での閉鎖が決定。しかし、「カフェフードバーわいわい」の店主・太田明成さんは、加速度的に進む人口減少と高齢化、震災風化といった厳しい現実を、わくわくする未来へ変えたいと、仮設商店街の建屋の払い下げを受け、「たまご村」として再スタートをすることにしました。「たまご村」の名は、陸前高田市子どもまちづくりクラブの子どもたちが、「つどいの丘」に復興のシンボルとして完成させたミニ「あかりの木」が、たまごに似ていることから付けたそうです。
ちなみに、ミニ「あかりの木」は、子どもを対象とした建築や都市環境の教育活動を評価し、支援するために設立されたJIAゴールデンキューブ賞(日本建築家協会主催)2013/2014の組織部門・特別賞を受賞しています。その審査委員を務めた大村惠愛知教育大学教授のコメントが、同賞ウェブサイトに掲載されていました。
「震災からの復興のまちづくりを子どもたちとともに取り組むことは、震災で受けた心の傷を癒やすだけでなく、地域の大人たちと子どもたちが結びつき、まちを考え、まちづくりの主体者として、子どもも大人も育っていく取り組みである。(組織部門特別賞の陸前高田市子どもまちづくりクラブのプロジェクトは、)ミニ『あかりの木』を作り、商店街の広場に設置することによって、住民が集まりたくなるような広場を創出する。そこに参加する子どもたちの姿は、非常に魅力的である」
▼Pharrell Williams - Happy (Rikuzentakata, Japan)
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