町全体が一つのチームとなった女川町
2015年3月21日、震災後不通になっていた浦宿〜女川間がつながり、JR石巻線が全面開通しました。4年ぶりに女川駅が再開したこの日は「まちびらき」と銘打たれ、町は復興の新たな一歩を踏み出しました。
新しい駅は、以前よりも200mほど内陸に移動し、7~9mかさ上げした土地に建てられました。震災前は旧駅の隣にあり、町民の憩いの場だった温泉施設ゆぽっぽが駅と合体した複合施設です。
設計を担当したのは、建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した建築家坂茂氏。ウミネコが羽を広げた姿をイメージした屋根は、組んだ木板と透過性の膜で形成されています。外壁や内装には主に宮城県産のスギ材が用いられ、2階にある浴室と休憩室は木の風合いが優しく、ゆったりくつろげる空間になっています。浴室の壁面を飾るのは、日本画家の千住博氏が原画を手掛けたタイル画です。
駅舎3階の展望デッキからは街を見渡すことが出来ます。駅から海へ向かってまっすぐにプロムナード「シーパルピア女川」が伸び、両側にはテナント型の商店街、その周りに水産業体験施設や物産センターなどが建ち並びます。
商店街には、宮城の素材を使った手作り石けんの「三陸石鹸工房KURIYA」や、ダンボールを使って小さなおもちゃから家具類まで、さまざまなものを作る「Konpo’s Factory」などの楽しいショップや、まぐろ船主直営の「まぐろ屋 明神丸」、女川産さんま焼定食が食べられる「きらら女川」といった食事処なども入っています。
「三陸石鹸工房KURIYA」は、三陸沿岸の海や山の恵みを素材にした手作り石けん専門店で、まるでスイーツのような可愛い見た目もあって、注目が集まっています。代表の厨(くりや)勝義さんは、東日本大震災後、南三陸町にボランティアとして入り、そのまま移住。2015年に雇用創出のため、南三陸石けん工房を立ち上げました。経験ゼロからのスタートだったそうですが、試作を重ね、その年に完成したシーパルピア女川へ出店することになりました。
「Konpo’s Factory」は、石巻市にある今野梱包のショールームです。同社の3代目社長・今野英樹さんは、ダンボールに将来性を見いだし、数人の社員と共に、夜な夜なダンボール製の家具や造形物を試作。 東日本大震災では、自宅が全壊し、会社も被災。会社再建に取り組む中で、若い人たちが地元を離れていくのを目にして、若い人たちに「夢」を形にして示そうと、小さい頃から憧れだったランボルギーニをダンボールで作ることを決意。こうして「ダンボルギーニ・プロジェクト」が始動しました。2015年に発表された「ダンボルギーニ」は、予想以上の反響を巻き起こしました。その後、高校の同級生だった女川町の須田善明町長から、同年オープンの「シーパルピア女川」への出店を打診され快諾。「ダンボルギーニ」は復興の象徴、女川の「キラーコンテンツ」となり、更なる注目を集めるようになっています。
町内にあった家屋の8割が津波の被害にあった女川では、駅周辺の市街地エリアに限らず、町内の至る所で復興の工事が行われました。中でも、いち早く工事が進んだのが、魚市場や加工場、冷蔵設備など、基幹産業である水産関係の公共施設や企業の復興でした。港に建つひときわ大きな建物は、カタールフレンド基金の助成を受けて建設された冷凍冷蔵施設「マスカー」(カタールの伝統的な漁法から命名)で、震災の翌年に4カ月の短期間で完成し、水産の町の復興のシンボルになりました。
そんな女川だけに、「シーパルピア女川」にも、水産加工品や海産物を扱うお店も入っています。また、女川港に水揚げされた新鮮な魚介類や、女川名物のサンマを提供する店もあって、「買う」「食べる」という面からも外せないエリアです。
その中の「まぐろ屋 明神丸」は、マグロ船主の直営店なので、新鮮で良質な天然マグロをお手頃価格で食べられます。私は、季節限定の「うにトロ丼(2500円)」を頂きましたが、地元産のウニの甘みと大とろのうま味が一度に味わえる贅沢丼です。
一方、「女川産さんま焼定食(780円)」を食べた「きらら女川」は、特定非営利活動法人きらら女川の実店舗です。きらら女川は、2010年12月に女川町初の就労支援事業所として開所。ニーズが多かったことから、新拠点への引っ越しを始めた日に東日本大震災に遭遇しました。以前からの事業所も、引っ越し先も全て流出。事業所再建の目途が立たず 、利用者は2年余り、在宅生活を余儀なくされたそうです。その後、2013年7月になって、ようやく新しい工房が完成。更に2015年、「シーパルピア女川」に出店し、主力商品である「かりんとう」や調理パン、あげまんじゅうなどを販売。また、店内で食事も取れるようにしています。
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女川町の復興計画は、町民の命を守る「減災」の考え方を基本に、豊かな港町女川の再生を目指すことを基本理念に掲げてきました。行政と民間が一体となって計画を作り上げた町中心部の復興整備は、東日本大震災と同レベルの津波でも浸水しない居住地エリアと、低地をかさ上げして商業、業務用途に用いる市街地エリア、漁港施設とメモリアル公園のエリアの三つに分けることで、千年に一度の津波にも負けない町を作ることを目指しました。
こうした女川の復興を牽引してきた須田善明町長に、震災からのことを振り返って頂いたことがあります。
「震災当日は宮城県議会で私が所属する委員会の最終日で、午後1時15分ぐらいに採決が終わり、統一地方選挙が近いこともあり、すぐ地元に戻る日程でした。
地震が起きたのは車で内陸部を走行中の時でした。緊急地震速報が携帯電話から鳴り、車を停めると、体感的には2分ぐらいだったでしょうか、とんでもない揺れが襲ってきました。女川に暮らす者として津波のことは直感的に頭に浮かびます。しかし、カーナビのテレビが伝える津波警報の波高は最初が1m、間を置かずに3m、6m、10mと次々に修正され、画面に映し出される津波襲来を受けた各地の映像に、何が起こっているのか、にわかには理解出来ませんでした。それでもとにかく戻ろうと、海側は避け、遡上した津波があふれ出る北上川の脇から山側の細道を通り女川を目指しました。
女川魚市場買受人協同組合が主催した「おながわ秋刀魚収獲祭 in 日比谷」 |
以降、地元県議として震災対応に追われる中、改選時期に当たっていた女川町長選挙に出馬するようさまざまな方から要請を頂きました。が、私自身は安住宣孝町長(当時)が全力で復興に臨む姿を間近で見ており、その強いリーダーシップに敬服していましたので、要請を固辞していました。ただ一方で、女川に生き、この地に骨を埋める者として、自らの生き方がどうあるべきかも考えていました。
地方では、還暦世代が地域社会を背負うことが多く、女川もそうです。当時私は39歳で、今まで通りなら20年後に地域を託される世代になります。そこを考えた時、将来背負う責任であるなら、この復興の一歩目から我々世代がその責任を担うべきではないか。更には次代を担う子どもたちに、涙を流しながらでも顔を上げ前を向いて進む、彼らの親世代である女川の大人の姿を示していきたい、と考えるようになったのです。
震災の年の11月に町長に就任し、復興の舵取り役を務めることになりました。女川町は小さいが故に地域の連帯が強い町です。その強みを生かし、復興まちづくりの事業立案プロセスにも多くの町民に参加して頂きました。関わる全員が一つのチームになるイメージです。小さな町でもここまで出来る、ということを証明していきたい。
ただ、私たちがこうして前に進めるのも、世界中の皆さんが国境を超え、世代を超えて支えてくださったおかげです。そのことがもたらした多くの交わりによって化学反応が起き、前向きな空気感が醸成され、新たな行動が起き続けてきました。皆さんとの交わりが私たちの今を築いてくれたのです。だからこそ、ありがとうという感謝の気持ちだけでなく、女川は地方社会の未来へ向けてこのように生まれ変わりました、という姿を現実に示すことで、皆さんからの支援に応えていくことが大切だと考えています」
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