ブルーインパルスのホーム・東松島の福祉避難所
「天災は忘れた頃に来る」
この有名な警句は、地球物理学者で随筆家でもあった夏目漱石の一番弟子・寺田寅彦が言ったとされ、災害が起きたり、防災を語ったりする時によく使われます。そして、実際に大きな災害が起こると、その度に「備えあれば憂いなし」と、防災意識が高まります。しかし、時が経つにつれ「喉元過ぎれば熱さを忘れる」式に危機意識が薄れ、また忘れた頃に天災が起こることになります。
そんな中、過去の教訓を、きちんと災害時に生かすことが出来た事例も多々あります。東松島市社会福祉協議会も、その一つです。
東松島市は、松島町と石巻市に挟まれた太平洋沿岸にあり、東日本大震災では津波で市全体の6割が浸水し、全世帯の7割を超える家屋が全・半壊、一部損壊を含めると実に97%の家屋が被災しました。震災で亡くなった市民は1132人、行方不明者23人で、一時は人口の半数に当たる2万人が避難生活を送りました。海岸近くに航空自衛隊松島基地がありましたが、戦闘機や救難ヘリコプターなど28機と共に基地全体が水没しました。
その東松島市の社会福祉協議会会長として、福祉避難所や災害ボランティアセンターの開設・運営に当たった佐々木章さんを取材したことがあります。
東日本大震災があった3月11日、東松島市社会福祉協議会は、年度末ということで、事務所が置かれている東松島市老人福祉センターの和室を借り、午後から次年度の活動計画、収支予算の最終確認のための幹部会議を開催していました。そして運命の午後2時46分。
「突然畳が激しく左右に揺れ、テーブルの脚が畳を何度もたたきました。部屋全体が悲鳴を上げ、数十秒間立ち上がることすら出来ませんでした。
社協事務所に戻ってみると、机はあらぬ方向に向きを変え、机上の電話器、書類、文具等は床に散乱していました。職員は私の指示を待つまでもなく、福祉避難所の開設に向けて動いていました」
福祉避難所とは、災害対策基本法に定義された「高齢者、障害者、乳幼児その他の特に配慮を要する」被災者のために設置されるもので、東松島市の場合は社協事務所に併設する老人福祉センターに開設しました。開設が決まると、職員総出で玄関前にテントを張り、非常用発電機を起動。更に集会室へベッドや寝具、ストーブ等を搬入しました。水道は地震で止まったままなので、ありったけのバケツに駐車場の雪をかき集め、水不足に備えました。佐々木さんは社協会長として「非常事態宣言」を行い、通常業務は執行停止し、災害対応に全力投入することにしました。
東松島市は2003年に、震度6弱以上が1日のうちに3回を数える連続地震の震源地となりました。その際、社協で福祉避難所を開設・運営した経験があったため、ほとんどの職員が、福祉避難所の開設が最優先の任務との共通認識を持っていました。そのおかげで、準備作業はスムーズに進みました。まさに、過去の教訓が生かされた時でした。
ただ、東日本大震災は、あまりにも規模が大きく、被害状況が全く把握出来ず、「要配慮者」が何人来るのか、見当がつかなかったそうです。
「地震から2時間後、ずぶ濡れで最初の被災者が運び込まれてきました。それからは、救急車で、パトカーで、消防車でと次々と続きました。大部分の人は津波で全身が濡れ、折からの寒波で低体温症になっていました。被災者が運び込まれる都度、ヘルパーは総がかりで衣服をハサミで切り割き、雪を溶かした湯をペットボトルに入れて体を温め、全身マッサージを施しました。こうして死を免れた人が何人いたことか」(佐々木さん)
東松島市の災害ボランティアセンターは3月19日に、社協に隣接する保健相談センターの2階に開設しました。地震発生から1週間以上経過してからの設置でしたが、当初はボランティアの募集よりも、自衛隊や警察、消防などによる人命救助や捜索活動、また道路の復旧を優先させたためでした。また、社協職員の大半は福祉避難所の運営に追われていた上、災害の規模が大きすぎ、何から手を付けていいのか分からなかったというのも事実でした。そのため、災害ボランティアセンターは、復旧作業が進み始め、全国社会福祉協議会が主体となった社協のネットワークにより、高知県社協からの応援職員が配置されてからの開設とならざるを得なかったのです。
しかも政府が、緊急小口資金を被災世帯にも適用する特例措置を講じたことから、その窓口となる社協の業務が拡大。そちらにも人員を割いた結果、災害ボランティアセンターの運営スタッフは3、4人という人員不足状態となり、県外ボランティアの受け入れを一時中断する場面もありました。そのため、県内外から派遣された社協職員や自治体職員にも、最初から運営に携わってもらい、更にはNPO法人や長期で活動する個人ボランティアにもスタッフに加わってもらって、難局を乗り切りました。
ただ、運営スタッフは、外部スタッフや被災者の手前、休むことを口にすることが出来ず、疲労はどんどん蓄積されました。災害ボランティアセンターの無休体制が解消されたのは、震災から4カ月近く経った7月4日になってからのことだったそうです。こうした経験から、佐々木さんは、災害ボランティアセンターの運営スタッフに、活動経験のある個人ボランティアやNPOに加わってもらったり、普段から地元で活動をしている奉仕団体などと協力体制を確立したりすることが必要だと話していました。
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ところで、東松島市にある航空自衛隊松島基地は、日本唯一の展示飛行部隊「ブルーインパルス」のホームとして知られています。東日本大震災があった3月11日は、翌日に予定されていた九州新幹線全線開通記念の展示飛行をするため、ブルーインパルスは福岡県の芦屋基地にいました。そのため被災を免れましたが、九州新幹線全線開通記念の行事は全て中止。ブルーインパルスのパイロットらクルーの30余人は、芦屋基地に機体を残し、輸送機やバスを乗り継いで松島基地に帰隊。震災発生から3日後のことだったそうです。
松島基地は重機も流されていたため、人力で復旧作業に当たり、震災発生から3日で滑走路を整備、救援物資の輸送拠点として活動しました。また、松島基地の隊員たちも家族が被災していましたが、物資輸送、行方不明者の捜索、流失物の回収・撤去、炊き出し支援など、出来ることはなんでもやったそうです。
震災から5カ月後の8月20日、東松島市で復興祈願の「ありがとう!東松島元気フェスタ」が開かれました。これに、ブルーインパルスも参加。救難機以外の航空機を見ていなかった市民に、勇気を与えました。松島基地に所属しながら奇跡的に被災を免れ、力強く空を舞い飛ぶブルーインパルスは、復興の象徴となりました。
松島基地の復旧が進み、ブルーインパルスが帰還したのは、2013年3月30日のことで、その年6月1日には、福島市で開催された「東北六魂祭」で展示飛行を実施、震災からの復興に弾みをつけました。
▼Pharrell Williams - Happy (Higashimatsushima, Japan)
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