全てを失った閖上地区の復興に向けて
名取市は宮城県南部、西側の丘陵地帯から東側の太平洋に向けて広大な仙台平野が広がっています。北を接する仙台市との境には名取川が流れ、その河口部に閖上港があります。また南には仙台空港があり、東北の空の玄関口となっています。この他、東北自動車道、仙台東部有料道路、国道4号線、東北新幹線、東北本線などが市域を縦貫、アクセスには非常に恵まれています。
東日本大震災では、津波が広大な平野部全体をのみ込み、900人を超す名取市民の命を奪いました。特に、海に近い閖上地区は人口の1割を超す約750人が犠牲となりました。
震災前の名取市の人口は約7万3000人でした。震災により、市の人口は一時、大きく減りましたが、仙台まで電車で13分という立地や、沿岸部から離れた地域での住宅開発などもあり、現在は約8万人で、震災前を上回っています。特に仙台駅と仙台空港を結ぶ仙台空港アクセス線が走る美田園地区は、震災後、仮設住宅が設置され、人口が増加。2012年2月には、閖上で商売をしていた店舗を中心に31の事業所が集まる仮設商店街「閖上さいかい市場」が美田園に誕生し、この地域は大きく変貌を遂げました。閖上は、平安時代から開けた土地で、安土桃山時代には100戸近い集落になっていました。その後、阿武隈川河口の荒浜(亘理)から名取川河口の閖上まで、仙台湾に沿って堀(木曳堀)が開削され、仙台城の造営や城下町の建設に必要な物資が、この堀を経由して運ばれました。そして、その結節点だった閖上は、大いに発展しました。
しかし、仙台と若林で大規模な城下町の建設が終わり、また北上川や七北田川の改修によって石巻や塩竈が、海運や物流の拠点になり、船運で栄えた閖上の地位は相対的に低下してしまいます。それでも、仙台藩直轄の港として漁業が発達。明治後半から大正にかけては、その漁業で景気が良くなり、閖上の人口が増え、1928(昭和3)年には町制を施行して、それまでの東多賀村から、最も栄えていた閖上浜の名前を取り、閖上町へと改称しました。
震災前の閖上の人口は約7100人でした。一方、仮設住宅が設置された美田園地区は、震災前は下増田地区に含まれており、当時の人口は下増田全体で約4800人でした。が、下増田地区でも、沿岸部で多くの尊い命が奪われ、家屋の流失や損壊も多数発生しました。そのため、現在の人口は閖上が約3000人、下増田が約1000人と大幅に減少する一方、美田園地区は約7000人と急増しています。
下増田地区は、1889(明治22)年の町村制施行により、名取郡下増田村となりました。その後、1955(昭和30)年に、同じ名取郡の閖上町や増田町、高舘、愛島、館腰の各村と合併し、名取町の一部となり、3年後の58年に市に昇格して名取市になりました。1964(昭和39)年には、下増田地区に仙台空港が開設され、東北の空の玄関口となりました。
更に、2007(平成19)年には、仙台駅と仙台空港を結ぶ「仙台空港アクセス鉄道」が開業。その沿線に、新興住宅地「なとりりんくうタウン」の美田園地区が誕生しました。
震災後、この美田園地区にオープンした「閖上さいかい市場」は、車だと仙台東部有料道路の名取ICから約12分、電車では仙台空港アクセス線美田園駅から歩いて10分ほどと、非常にアクセスが良く、市民だけではなく、県外の人たちが被災地支援ツアーを組み、連日バスで訪れました(※「閖上さいかい市場」は、2019年12月31日をもって閉鎖し、市場に入っていた店舗は、「ゆりあげ港朝市」を始め、それぞれ移転して営業をしています)。
この「閖上さいかい市場」に入っている店の一つ「ささ圭(佐々木圭亮社長)」さんを取材させてもらったことがあります。「ささ圭」は、1966(昭和41)年の創業以来、閖上で笹かまぼこなどを作り続けてきました。震災では、社屋と三つの工場、本店の全てを全壊流失、工場長ら3人の従業員を失いました。
「製造に関わる全ての施設を失ったことで、再建はとても無理だと判断し、廃業という苦渋の決断をせざるを得ませんでした。残った従業員55人にもそのことを告げましたが、相談に乗ってくれた社会保険労務士の方から『一時休業にして、何とか道を探ってみては?』と勧められ、もう一度再建に懸けてみようと思い直しました」(佐々木社長)
翌日、再び従業員を集めて前言を撤回。一つだけ無事だった名取駅前の店舗で、従業員と一緒に知恵を出し合い、生き残りを模索しました。その中で「製造ラインがないなら、店に工房を設けよう」と、50年前の手法で手焼きの笹かまぼこを作ることを決めました。
とはいえ、佐々木社長を含め、従業員には手焼きの経験がありませんでした。そこで創業者で会長を務める父圭司さん(当時91歳)と母あつさん(同85歳)が現場復帰。熟練の技を披露し、若い従業員にそれを伝授しました。
佐々木社長は、この笹かまぼこを「復興手わざ笹かまぼこ『希望』」と命名。最初は1日に1000本作るのがやっとでしたが、それが3000本、5000本と次第に増え、やがて名物商品になりました。2012年5月に当時の天皇、皇后両陛下が被災地を訪問された際にも、宮内庁を通じてこの「希望」をお買い求めになられています。更に、同年9月には閖上港から6kmほど内陸に入った社有地に新工場を建設、復興に向けて本格的に操業を開始しました。
「全国の皆様から寄せられた温かい励ましのエールとご支援に、どれだけ勇気付けられたか分かりません。それに応えるためにも、より一層の真心を込めて、笹かまぼこを作っていきます」と、佐々木社長は話していました。
さて、漁業で発達した閖上の港には、近海でとれた新鮮な魚介類が水揚げされます。特に、高級寿司店から「アカガイは閖上産だけを使う」と言われるほど、閖上の赤貝は有名です。その閖上では、30年以上前から、日曜・祝日に「ゆりあげ港朝市」が開かれていました。「よい品をより安く」をモットーに、新鮮な海の幸や地元の野菜などを売る店が軒の連ね、毎回1万人近い観光客が集まっていました。
しかし、東日本大震災では、津波で51店舗が全て流され、店主 4人が犠牲になりました。朝市が復活したのは、2013年5月4日のこと。実に2年2カ月ぶりで、この日、営業を再開したのは2棟14店舗。カナダ政府などの復興支援プロジェクトを始め、さまざまな援助により実現しました。更に、秋には3棟が加わり、グランドオープンを迎え、現在は44店舗とカナダから寄贈されたメイプル館が営業しています。
名取には、震災があった2011年から14年まで年に1回は行っていましたが、「ゆりあげ港朝市」が復活した翌月に訪問した際には、閖上地区を一望出来る日和山の下に東屋が作られ、仮設トイレも設置されていました。また、最初に行った時は、日和山の頂上にはひもろぎが設置されているだけでしたが、この時は閖上出身の宮大工の方によりお社が建てられていました。
日和山から海側を臨むと、正面では防潮堤の工事が行われていました。左手には仮設の魚市場が、元あった場所に建てられていました。そして、魚市場とは逆の右手には、やはり元の場所で、「ゆりあげ港朝市」が復活を果たしていたわけです。
ちなみに、日和山に社を建立した宮大工さんと、「ささ圭」の社長は同級生だそうです。
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