「一陽来復」御守と早稲田の思い出

穴八幡宮

今年も、東京・早稲田の穴八幡宮で、「一陽来復」の御守を授かってきました。

例年なら、初日となる冬至の日に並ぶのですが、今年はコロナ禍の中、日にちを2日ずらして参拝しました。Twitterを見ていると、12月21日の初日に並んだ方も結構いたようですが、それでも例年のような混み具合ではなく、特に北参道からは、すんなりと頒布の窓口に到達出来た模様です。

私が東京メトロ早稲田駅に着いたのは、23日の12時18分でした。昼時なら、多少空いているのではと思ったのですが、同じくTwitter情報では、午前中とさほど変わらない参拝客だったようです。

冬至の日に参拝すると、時間によっては、表参道ではなく、左側の西参道から入り、境内に入るまでに結構時間がかかるのですが、今年は表参道の階段からすんなり境内に入れました。境内には、例年同様、行列を整理するためのロープが張られ、そこをぐるぐる歩くことになりましたが、いつもと違って全く立ち止まることがありませんでした。それぞれの窓口も、2、3人が並んでいるだけで、大して待つことなく御守を授かることが出来ました。

ただ、本殿への参拝はかなりの列が出来ており、ソーシャルディスタンスも取れているとは言い難い感じだったので、少し離れたところからお詣りさせてもらいました。早稲田駅で帰りの地下鉄に乗ったのは12時48分。わずか30分の早稲田滞在でした。

穴八幡宮

「一陽来復」の御守には2種類あり、一つは毎年決まった方角に向けて壁にお祭りするもの、もう一つは財布などに入れる懐中御守です。我が家では毎年、壁にお祭りする紙製の御守と、家族分の懐中御守を授かっています。

「一陽来復」という言葉は、「冬が終わって春(新年)が来ること」「悪いことが続いた後で幸運に向かうこと」などの意味があり、「冬至」そのものを表す言葉としても使われます。早稲田の穴八幡宮で「一陽来復」の御守を授与するようになったのは、江戸期の元禄年間(1688〜1704年)だそうです。

ただ、穴八幡宮の隣にあり、「金銀融通の御札『一陽来福』創始のお寺」をうたう、お隣の放生寺では、「江戸天保年間より當山に伝わる秘法を厳修し一部の信徒に授与したのが始まりです」と説明しています。天保年間は1831〜1845年で、元禄年間からは140年ほど後にずれていますし、一陽来「復」ではなく一陽来「福」とするなど、いまひとつ分からないところもあります。

一陽来復

放生寺は、神仏習合の時代である江戸時代の1641(寛永18)年に、穴八幡宮の別当寺として神社の隣に創建されました。その後、1868(明治元)年の神仏分離令によって、寺と神社に分かれました。

で、神仏習合時代に始まった「一陽来復」御守を授ける風習は、神仏分離後、穴八幡宮と放生寺の双方で行われるようになりました。酉の市で有名な浅草の鷲神社の隣にある長國寺も「酉の寺」として、酉の市を開いていますが、この長國寺も鷲神社の別当寺であったことから、神仏分離後、それぞれの社寺で酉の市を開いているという関係になります。

しかし、いつ「一陽来福」に変えてしまったんでしょう。本来の意味とは違ってしまいますし、国語辞典の中には「『来復』を当て字で『来福』とも書くが、本来は誤り」と手厳しいものもあり、なんともはや・・・という感じです。私は、放生寺にお詣りしたことはないのですが、両方で御守を授かった方のブログに、放生寺の御札の授与所には、一陽来福と一陽来復のお守りを、白い紙の上に上下に貼っている見本があり、そこでは穴八幡宮の「一陽来復」を上にしていたそうです。謙遜かもしれませんが、ちょっと象徴的かもと思ってしまいます。

一陽来復

さて、授かった御守ですが、これは冬至、大晦日、節分のいずれかの日の24時に、定められた方角に向かってお祭りします。冬至にお祭りしたい人は、どうしても冬至の日に行かないといけませんが、大晦日の人なら年内、節分の人は年が明けてからでもいいので、そこは皆さん、それぞれの事情に合わせて選択していると思います。

我が家は毎年、大晦日の恒例行事になっていて、除夜の鐘が鳴り始めるとソワソワし始め、カウントダウンと共に御守を所定の位置にお祭りしています。大晦日だと、カウントダウンがあるので、とても便利ですが、冬至と節分の方は、時計やスマホを片手に、24時を待っているのだろう、と推測しています。

なので、我が家では今夜、年越しそばを食べた後、まだ最後の大仕事が残っているわけです。

早稲田大学
ところで、穴八幡宮のある早稲田は、私と家内にとっては母校のある場所で、更に言うと、私の場合は高校も早稲田だったので、都合7年間、通った土地でもあります。高校時代からあった「メルシー」とか「キッチンオトボケ」など、学校周辺の店が今も残っているのを見ると、懐かしくなりますが、街が大きく様変わりしているのも確かです。

特に衝撃的だったのは、穴八幡宮と交差点を挟んで対角にあった「三朝庵」がコンビニになってしまったことです。早稲田大学創設者である大隈重信候の土地を借り、1906(明治39)年に開店した蕎麦屋で、「カツ丼発祥の店」としても知られていました。私も何度か入ったことはありますが、そうした老舗の三朝庵としての思い出ではなく、友人が看板にぶつかり、頭を何針か縫ったという事件の方が、鮮烈な記憶として残っています。

当時はまだビルですらなかったのですが、現場検証の結果、看板と歩道の位置関係から、「背伸びでもしなければぶつからんだろう!」と、仲間内で話し合ったのを覚えており、全くもって不思議な出来事でありました。

ちなみに出身高校は、1895(明治28)年、早稲田尋常中学校として創立。実は、大学より先に「早稲田」の名を冠していたためか(大学は1904年に「東京専門学校」から改称)、独立志向が強く、長らく大学の付属や系属となることを拒んでいました(1979年からは系属校)。私が早稲田大学高等学院ではなく、早稲田高校を選んだのも、早稲田以外の選択肢を残しておきたかったからで、実際、当初は上智大学に進む予定でした。

そのため、大学1年の時は、早稲田と上智、二つの大学に籍を置いていました。が、早稲田大学では、入学前に箱根観光会館で1泊2日のオリエンテーションがあり、そこで出会った学友と気が合い、しかもその一人が大学の近くに下宿していたため、そこによく出入りをするうち、上智からは足が遠のくようになりました。やがて、上智の学生証は、飲み代が足りなくなった時に、店に置いてくるカタに成り下がってしまいました。

ある時、友人の下宿で大学のサークル紹介の冊子を読んでいて、「夏の避暑地で楽しい実習を」というキャッチを見つけました。当時、それぞれが、いくつかのサークルを回っていましたが、これといったものが見つからなかったため、「夏休みに避暑地でバイト」するという邪な動機を抱いて、友人3人と共にそのサークルの部室を訪問してみました。

すると、部室には3人の女性部員がおり、しかも美人ぞろい。彼女たちは、2年生と3年生でしたが、優しく親切に、サークルのことを説明してくれました。これにヤニ下がった我々は、速攻で入部を表明したのですが、後から聞くと、これは幹事団の差し金だったらしく、我々はまんまと罠にはまってしまったというわけです。そして、このハニートラップのせいか、サークルの同期は男ばかり13人という結果になりました。

そのサークルの拠点は、大隈通りにあった「アリカ」という喫茶店と、「みどり」という雀荘でした。「アリカ」では、同期や先輩、後輩がバイトに入ったり、「みどり」からは卒業記念をもらったりして、両方ともかなり入り浸っていました。「みどり」は卒業後、早い段階でマンションに変わりましたが、「アリカ」はその後も営業を続けていて、卒業後25年のホームカミングデーでも訪問させてもらいました。ただ、風の便りで、2010年に閉店したと聞きました。

大隈通り

そんな中、大学入学後最初に語学のクラスでコンパをした、1919年創業の蕎麦屋「金城庵」は今も健在で、その裏路地のおでん屋「志乃ぶ」も、最近Twitterでアカウントを見つけました。「志乃ぶ」にも何度か行ったことがあったので、思わずTwitterをフォロー、するとインスタもやっていることが分かり、以来時々、店の様子を拝見するようになりました。

ただ、我々がよく行っていたのは、「志乃ぶ」の隣にあった「いこい」の方で、こちらは既に他の店に替わっているようでした。「いこい」は、10人ぐらいが座れる座敷になっていたと記憶しています。家庭教師のバイトぐらいしか小遣いのなかった学生にとって、「いこい」に比べると、「志乃ぶ」はちょっと高級な感じで、「いこい」がいっぱいの時に利用するという感じでした。

でも、このご時世でもがんばっている「志乃ぶ」には、コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ再訪してみたいと思っているところです。

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