代々の住職が受け継ぐ一休さんの納豆 - 京田辺市
京田辺市の西に、平安京を定める際、都の中心軸の南の起点にされたという甘南備山(かんなびやま)があります。その麓にある酬恩庵は、とんちで有名な一休宗純が再興し、晩年を過ごしたことから、通称一休寺と呼ばれます。
一休禅師は、寺の周辺の人々に、納豆づくりと仕込みに必要なむしろの織り方を教えたと伝えられます。奈良時代に日本へ伝来した納豆は、一度途絶えた後、鎌倉時代に宋から禅僧が持ち帰り、寺などで作られるようになりました。その伝統を受け継ぐのが、一休寺納豆や京都・大徳寺の大徳寺納豆、静岡県浜松・大福寺の浜納豆で、一休寺では代々の住職が、納豆の製法を受け継いできました。
私は2013年に酬恩庵にお邪魔し、田邊宗一住職から、一休寺納豆のことを伺う機会を得ました。その時の住職のお話を、かいつまんで書き起こしておきます。
その前に、田邊住職のことを簡単にご紹介すると、田邊住職は、1949年、京都府京田辺市の生まれ。72年、花園大学文学部仏教史学科卒業。愛知県名古屋市の徳源寺専門道場で修行の後、77年に父の跡を継ぎ酬恩庵一休寺の住職となりました。著書に『一休寺』(京の古寺から)があります。
以下、田邊住職のお話を書き起こしたものです。
◆
当寺はもともと妙勝寺といって、鎌倉時代に大應国師が開山したのが始まりです。その後、兵火により荒廃していたところ、大應国師を慕う一休禅師が、それを憂えて再興し、師恩に報いるという意味で、「酬恩庵」と命名されました。一休禅師63歳の時で、88歳で亡くなるまで25年間、酬恩庵に住まわれ、81歳で大徳寺住職となられた時もここから通われました。
その一休禅師が、寺と、寺のある薪村に製法を伝えたのが、一休寺納豆です。
納豆と言っても、皆さんが普段食されているものとはだいぶ異なります。一般に納豆と言われるのは、大豆を納豆菌で発酵させたものを指しますが、一休寺納豆は麹菌を使って発酵させた後、乾燥・熟成させます。中国料理に使う豆鼓に似ており、粘り気もありません。
製法そのものは、奈良時代に一度、中国から伝来したと考えられています。それがいつの間にか途絶え、鎌倉時代に再び中国から禅僧が持ち帰り、その製法を基に一休さんが作ったのが始まりとされています。以来約550年、歴代の住職がそれを受け継いできました。
仕込みは毎年、土用の太陽が照りつける7月の末頃に始めます。蒸した大豆に、はったい粉と麹を混ぜ、蔵で2日間発酵させます。その後、大きな木桶に塩湯を作り、大豆を入れて約1年天日干しをします。その間、毎日何回もかき混ぜます。4月ぐらいにほぼ出来上がりますが、そこから更に1年、2年と寝かせて熟成させます。
仕上がりは黒褐色で、味噌を何倍にも凝縮したような香りがし、塩辛いけれども深く香ばしい味になります。そのままご飯に乗せて食べたり、お茶漬けにしたり、酒のつまみとして召し上がる方もいらっしゃいます。京都には落雁に入れて、甘みと辛みを調和させた和菓子もあります。塩分控えめと言われる現代では敬遠される方もいらっしゃるかもしれませんが、一休さんから代々伝わる味ですから、このまま守っていくつもりです。
ところでぜんざいも、一休さんにまつわる食べ物と言われています。大徳寺の住職から餅の入った小豆汁をごちそうになり「善哉此汁」とおっしゃったことから「善哉」になったというのです。そこで当寺では1月最終日曜日を「一休善哉の日」とし、一年一善 — 今年1年、自分がどんないい行いをするか絵馬に書いて奉納してもらい、ぜんざいをふるまっています。
◆
酬恩庵方丈庭園 |
後日、当時一緒に仕事をしていた女性編集者が、京田辺市で一休寺と玉露の取材をし、記事にしているので、そちらもぜひ読んでみてください。
「数百年変わらぬ製法で作り継がれてきた一休寺納豆」
コメント
コメントを投稿