衝撃のトンテキ - 山田ヒロキチ商店(和歌山県岩出市)
和歌山県岩出市に、山田ヒロキチ商店というお店があります。
山田ヒロキチさんがやっているお店かと思いきや、山田洋充(ひろみつ)さんのお店なんです。
山田さんは以前、歯科技工士をしていたそうです。ただ、20代後半になって、自分の人生を生きたいように生きようと決意。父子家庭で小さい頃から自炊をしていたこともあって、料理が好きだった記憶がよみがえり、料理人になることにしたのです。
そう、山田ヒロキチ商店は、洋食屋さんなのです。で、看板メニューは、写真の「特製たっぷりキャベツとガーリックの濃厚トンテキ」。ご覧頂いて分かるように、ガーリックがたっぷりのった、インパクト抜群のトンテキです。
そもそも、2012年の開店当初は、ごく普通のトンテキだったそうです。ただ、ランチタイムの限定メニューだったところ、まかないで食べたスタッフが絶賛し、レギュラーメニューに転換。その際、見た目にインパクトを持たせてようと、ガーリックスライスとキャベツの千切りを今のような山盛りにしたとのこと。
すると、そのインパクトに、お客さんがスマホで写真を撮ってSNSにアップ。ネットで拡散することで、遠方からわざわざ食べに来る人が急増。それがまた評判になり、ついには、車で来店する客のために、専用駐車場のある現在の場所へ移転することになったとか。
もっとも、山田ヒロキチ商店は、ただのウケ狙いの店ではなく、6年間、和歌山市の老舗洋食店を始め、和、洋、中などさまざまな料理の修行をして独立しただけあって、料理はもちろん接客もしっかりしています。山田さん自身、「洋食店の親方からは、レシピでなく舌と感覚で覚えるように言われ、洋食の味の命とも言えるドビソース(デミグラスソース)の作り方を教わりました。また、店の回し方や接客の楽しさも学びました」と話しています。
ちなみに、山田ヒロキチの「ヒロキチ」は、山田さんのあだ名で、修業時代、周囲から「ヒロキチ」と呼ばれていたことから、そのまま店名にしたそうです。
岩出で取材したのは、もちろん特製トンテキではなく、根来塗でした。根来塗は鎌倉時代から室町時代にかけ、根来寺の僧侶らが、仏具や什器として作っていた漆器です。で、根来寺は、覚鑁上人(かくばんしょうにん/興教大師)によって開創された新義真言宗の総本山で、室町時代末期には450もの坊舎に僧侶など5000人以上が起居していたと言われ、根来塗は、それらの僧侶たちが使う什器として作られていました。
この根来寺には、自衛武装した僧兵集団がおり、それらの僧兵を根来衆とか根来忍者と呼びます。その中に、種子島で鉄砲を手に入れ、構造を研究の上、根来の鍛冶師に量産させた津田一族がいました。そして、根来衆は傭兵として戦国大名に重宝され、傭兵集団して日本各地を転々とすることになります。
中でも、織田信長によく雇われ良好な関係だったと言います。しかし、信長亡き後、その権力を継承した秀吉とは敵対。小牧・長久手の戦いでは雑賀衆と手を結び、大坂城を攻撃しました。そのため、後に秀吉の紀州征伐で滅ぼされてしまいます。そして根来寺も全山焼失。江戸時代に入り、紀州徳川家により一部が復興されましたが、この秀吉の紀州攻めで多くのものが失われました。
この時、根来塗の工人も四散してしまい、以降、途絶えたままになっていた根来塗が復活したのは2000(平成12)年のことでした。で、現代によみがえった、この根来塗を取材させてもらったのです。
ところで、根来衆と手を組み、大坂城攻めに参戦した雑賀衆は、紀伊国北西部の「雑賀荘」「十ケ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」という五つの土地(現在の和歌山市と海南市の一部)を本拠としていました。彼らをまとめた頭株は、雑賀荘の土橋氏や、十ケ郷の雑賀鈴木氏で、中でも有名なのが雑賀孫一です。
雑賀孫一は津田一族の鉄砲技術を学び、鉄砲をより生かすためにゲリラ戦術を編み出しました。で、実はこの雑賀孫一は、本名・鈴木孫一と言い、熊野本宮出身の穂積姓鈴木氏がルーツとなります。つまり、雑賀鈴木氏も、我が家の三河鈴木氏も、和歌山県海南市にある藤白神社の神官を代々務めた藤白鈴木氏の分家ということになり、まあ、だいぶ遠いのですが、ご先祖様には忍者につながる人もいたということになります。
取材記事→「秀吉の紀州攻めから400有余年。よみがえる根来の伝統 - 岩出」
神出鬼没の鈴木さんのDNAには忍者魂が宿っていたんですね(笑)
返信削除岩出と言えばネギが頭に浮かぶんですが、名産かな?行ったことはありませんが、JR大回り乗車の時に通ったことがあります。ノンビリとした町ですね。
トンテキが食べたくなりました。
伊賀、甲賀、雑賀、根来と、忍者の里は紀伊半島に多いですが、スケバン刑事の風間3姉妹は、関東の風魔忍者みたいですね。
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