西日本豪雨の被災地・真備を訪ねて


前回のブログで書いた八戸取材を終えた私は、東京駅で東北新幹線から東海道新幹線に乗り換え、そのまま岡山へ入りました。移動時間約7時間、岡山のホテルにチェックインしたのは23時近くで、さすがに疲れました。

翌日は朝から、西日本豪雨で大きな被害を受けた倉敷市真備の取材でした。

2018年7月、広島、岡山、愛媛の3県を始め、西日本各地は未曾有の豪雨災害に見舞われました。気象庁は7月6日夕方に長崎、福岡、佐賀の3県に、続いて同日深夜までに広島、岡山、鳥取、京都、兵庫、翌7日には岐阜、更に8日に高知、愛媛と、実に11府県に大雨特別警報を発表。「これまでに経験したことのないような大雨」「重大な危険が差し迫った異常事態」「重大な災害が既に発生していてもおかしくない状態」と、繰り返し警戒を呼び掛けました。

しかも西日本豪雨では、大雨による増水や浸水ばかりではなく、山の斜面崩壊による土石流や、河川の堤防決壊による洪水、貯水の限界に達したダムからの放流量の増加による下流域の氾濫など、あらゆるタイプの災害が広範囲で多発。消防庁の集計で死者263人、行方不明者8人という大惨事となり、平成最悪の水害と言われました。

真備町は7日朝までに小田川と支流の末政川の堤防が決壊し広範囲で冠水。国土地理院の推定によると、浸水の深さは広い範囲において3~4m、最大5mに達したといいます。浸水面積は真備町の約4分の1とされますが、中心街の有井地区や官公庁が集まる箭田(やた)地区など、住宅や事業所が集中する地域が水に浸かっており、世帯数で見ると半数以上の4600戸が被災。市町村単位では最も多い51人の方が亡くなられました。

真備には、豪雨災害から1週間の7月14日に一度訪問しており、今回が2回目でした。前回は、岡山から車で入りましたが、途中、復旧・復興関係の車で大渋滞を起こし、それを横目に高梁川に架かる橋を歩いて渡るボランティアを見ていたので、このルートを使ってみることにしました。まず岡山から清音駅へ向かい、ここで自転車を借りることにしました。

事前に、駅前の自転車屋さんに予約を入れていたのですが、清音駅の改札を出ると、たくさんの自転車が置いてあり、無料で貸し出しをしていました。ただ、私は予約をしていた手前、とりあえず自転車屋さんへ向かいました。

ところが、その自転車屋さんのおばあさんがまたいい方で、駅前に無料の自転車があったでしょ。もし、そちらがいっぱいだったら、戻って来ればいいし、まずはあちらを当たってみた方がいいですよ、と。で、ご好意に甘えて、駅へ戻り、無事自転車を借りて、おばあさんにもご挨拶した上で、真備へ向かいました。


総社市から高梁川を渡って真備町に入るには、川辺橋を通ります。川辺橋は、元は木橋だったらしく、それを昭和8年に架け替えたものです。鋼材を巧みに組み上げたトラス橋と呼ばれる形式で、長さは約450m。現在は、自動車の大型化や交通量の増加に対応して自動車用の新橋が少し北側に架けられ、そちらが国道486号となります。昭和8年に造られた方は、歩行者・自転車用の橋として利用されており、私はこの橋をゆっくりと渡りました。

真備側に入ってからは、486号には戻らず、左の坂道を下ってみました。その先は川辺地区で、旧山陽道は、清音から川辺宿を経て、真備、そして矢掛宿へと至る道だったので、古くはこちらがメインストリートだったようです。で、少し走ると井原線にぶつかるので、その高架線に沿って走り、川辺宿駅を過ぎて更に先に進むと、国道486号に合流します。この辺りが真備の中心地で、486号の北側を並行して走る県道278号宍粟真備線も、中心街を通る道路で、西日本豪雨で何度もテレビに映し出された、まび記念病院は宍粟真備線沿いにあり、ボランティアセンターなども、この道路沿いに設けられていました。


そのため、2018年の取材の拠点は、宍粟真備線沿いの中心地でした。その翌年、もう一度、真備を訪れた際には、井原線が取材対象の一つだったため、国道を主に走りました。

2019年に取材したのは、井原鉄道井原線の橋脚に、地元・真備(まきび)中学校美術部の生徒が絵を描くプロジェクトでした。倉敷真備(まび)ライオンズクラブが2005年から取り組んでいる事業で、2018年は同中の創立50周年を記念した絵を制作する予定でしたが、西日本豪雨で学校が被災したため中止となりました。そして翌19年の夏、「井原線橋脚に絵を描こう」が再始動。始まりの会で部員たちは「卒業して一緒に描けなかった先輩の分までがんばって仕上げたい」と意気込みを見せました。

絵柄は、卒業した先輩たちがデザインしたもので、「気球に乗っている吉備真備(きびのまきび)と桃太郎が、猿やキジ、犬と一緒に、真備中の50周年とその未来を見守っているような絵」です。先輩たちの思いを引き継いだ部員たちは、その日から交代で現場に足を運び、丁寧に壁画を描きました。

「井原線橋脚に絵を描こう」の事業は05年のスタートですが、その前段として、倉敷市と合併する前の真備町によって03年に壁画制作が実施されたことがありました。この時は、倉敷芸術科大学の学生が、井原鉄道川辺宿駅の橋脚に横溝正史の探偵小説に登場する金田一耕助の影絵を描きました。そして真備町が倉敷市と合併した05年、ライオンズクラブがその事業を継承。井原鉄道と交渉の上、青少年育成にも役立てようと、吉備真備駅に近い真備中学校と川辺宿駅に近い真備東中学校に声を掛け、橋脚をキャンバスに、地域をPRする大きな絵画を描いてもらうことになりました。

真備は、奈良時代の学者で遣唐使として中国に渡り、後に右大臣にまでなった吉備真備の古里で、町名もそれに由来します。また、第二次世界大戦末期に父親の出身地である真備に疎開し、そこで本格推理小説『本陣殺人事件』を執筆。後にシリーズとなる金田一耕助を登場させ、真備を始め岡山を舞台に活躍させた横溝正史ゆかりの地でもあります。こうしたことから、生徒たちはこれまで、壁画の題材として吉備真備や金田一耕助、また特産であるタケノコなどを選んで絵を描いています。

横溝正史疎開宅
横溝正史疎開宅

ところで、『本陣殺人事件』では、川―村・高―川・清―駅など、村や川、駅の名前の漢字が伏字になっています。その部分を引用してみると、「・・・倉敷で伯備線にのりかえそして清―駅でおりると、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来たし、耕助も同じ経路を辿ってやって来たのだが、その耕助が、高―川を渡って川―村の街道へさしかかったときである」。これ、まさに私が2018年8月に通ったルートで、清―駅は清音駅、高―川は高梁川、川―村は旧川辺宿の川辺村(現・倉敷市真備町川辺)ということになります。

濃茶のばあさん
濃茶のばあさん

また、現存している、横溝正史疎開宅の近くには、『八つ墓村』に登場する濃茶の尼誕生のきっかけとなった祠があります。これは、江戸時代、藩の家老夫人が旅路で病に苦しんだ際、茶店の老婆の親切で、その地の神社に祈願し、平癒したので、帰国後、夫人は祠を建て、そのご神体を勧請したと伝えられ、土地の人はその祠を「濃茶のばあさん」として祭り、供え物が絶えなかったと言われているそうです。濃茶の尼は、この話をヒントに作り出したキャラクターとのことです。


コメント

  1. 「きびのまきび」なんて何十年ぶりに思い出す名前でしょう!
    奈良時代、真備町から奈良までどうやって移動していたんでしょうね。太古のロマンに夢が膨らみます。

    あの水害支援で二度行きましたが、その後どうなっているでしょうね。

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  2. 昨年行った時には、中学校はまだ全然手つかずでした。
    今年に入ってからは、新型コロナの影響を受けているでしょうから、飲食店を始め、辛いでしょうね。

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    1. 真備の図書館が再開したということで、岡山LCに協力していただき児童書を中心に本を寄贈させていただき、その後も何冊かをお送りしました。蔵書のほとんどがやはり泥水で汚損してほとんど残っていなかったそうです。わずかに残っていた蔵書は偶然水害の日に貸し出されていて難を逃れたという話でした。

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    2. そうでしたね。この件を含め何件か、K嬢に引き継いでいるんですが、新型コロナで取材自体が難しかったのでしょうね。北海道胆振東部地震は、次号あたりに掲載されると聞いたので、こちらもそろそろでしょうか。分かったら、教えてください。

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    3. 次号には胆振東部地震の記事が出ますが、西日本豪雨の話は聞いてないですね。K嬢に聞いておきます。

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