江戸から平成へ - 八丁堀今昔物語

八丁堀にある京華スクエア

八丁堀というと、私なんざすぐに「八丁堀同心」とか「八丁堀のだんな」などのフレーズを思い浮かべてしまいます。

が、江戸時代の初めに埋め立てられた頃の八丁堀は、寺町でした。もともと、八丁堀というのは、江戸城への物資搬入や防衛上の観点から掘削された堀の長さが「八町」あったことから名付けられた「八町堀」が起源となっています。で、堀のある埋め立て地に、多くの寺が建てられたということのようです。

八丁堀の説明看板(中央区教育委員会)

その後、三代将軍家光の時代に城下の拡張計画が行われ、ほとんどの寺が郊外に移転。そこに江戸町奉行の配下となる与力や同心の組屋敷が建てられました。

奉行所は、北町奉行所が今の東京駅日本橋口辺り、南町奉行所が有楽町駅の南東側にありました。八丁堀から北町奉行所へは八重洲通り、南町奉行所へは鍛冶橋通りを通って、それぞれ徒歩15分ほどでしょうか。

与力は南北奉行所に25人ずつ、同心は100人ずついました。ちなみに、与力は奉行の補佐役で、いわば管理職。同心は、与力の配下にあり、庶務や見回りなど、いわゆる警察官としての仕事を担っていました。役宅はそれぞれ八丁堀に組屋敷が与えられ、与力は300坪程度、同心は100坪程度だったようです。

八丁堀の与力・同心組屋敷跡の説明看板(中央区教育委員会)

同心のうち、市中の巡回や犯罪の捜査、逮捕などを担当していたのは、定町廻り(じょうまちまわり)同心で、彼らはポケットマネーで目明し(岡っ引)を雇い、担当地区の治安維持に当たっていました。私が八丁堀で連想したのも、彼ら定町廻りです。

私が、初めて八丁堀に足を踏み入れたのは、大学1年のことでした。脚をけがして、歩けない友人を、彼の自宅があった八丁堀まで肩を貸して送ってあげたのが最初でした。

 ◆

春と秋に行われる母校とライバル校の野球の試合は、大学をあげて盛り上がり、これがあるから母校には五月病がない、と言われるほどで、リーグ戦の優勝に両校とも一切関係なくても熱狂出来る一大イベントでした。

ちなみに、私の在学中は、松本匡史(読売)、吉沢俊幸(阪急→南海)、八木茂(阪急→阪神)、山倉和博(読売)、岡田彰布(阪神)を始め、そうそうたる選手がそろっていたのですが、H大学に江川卓というトンデモない投手がおり、母校もライバル校も優勝とはずっと無縁でした。優勝した大学は、神宮からキャンパスまで優勝パレードをし、応援の学生たちも提灯を持って公道を練り歩きます。私が提灯行列を経験したのはたった一度、4年の秋、最後のシーズンでした。

京華スクエア校庭
ただ、ライバル校との一戦は、これらとは全く関係なく、また勝敗にも関係なく、母校は新宿、ライバル校は銀座に繰り出して騒ぐのが恒例になっていました。当時、新宿コマ劇場前に噴水があり、コンパが終わった学生が集まり、噴水に飛び込んだり、周囲で校歌を歌ったり、今思うと眉をひそめるような行為が繰り広げられていました。ただ、普通に歌舞伎町に遊びに来ていた人たちからも「おめでとう」と声を掛けられるなど、時代が許容していた部分もあったようです。

で、1年生の我々も、噴水に落とされ、びしょ濡れになりながら騒いでいました。と、件の友人が「いてえ! いてえ!」と叫び出したのです。見ると、脚から血が出ています。どうやら酔っぱらいが噴水に投げ入れた瓶が割れ、濡れた靴を脱いだところを再度噴水に落とされた時、割れたガラスで脚の指を切ったようです。もう一人、先輩の友人も脚を切っていました。

酔いも醒めた我々は、二人をすぐ近くにある大久保病院に連れて行きました。二人ともかなり傷が深く、処置が必要とのことで、病院の中へ消えて行きました。外へ出た我々は、騒ぎを聞いて駆け付けてきた巡査に連れられ、大久保病院前の歌舞伎町交番で事情聴取を受け、説教を食らって帰されました。

その夜は、大学近くにあった友人の下宿に泊めてもらったのですが、夜中に、そのドアをノックする者がいました。開けてみると、脚を切った友人でした。4年生の先輩から治療費と足代をもらったものの、二人で折半したら、タクシー代が高田馬場で足りなくなり、そこから約2kmをケンケンで来たというのです。気の毒ですが、笑ってしまいました。

そんな彼を、朝になってから八丁堀の自宅へ送っていってあげたわけです。その後も、彼の家に泊まりに行ったり、何度か八丁堀に行っていますが、大学を出て就職した先が、築地の事務所だったため、一つ手前の八丁堀はより一層、身近な存在になりました。

更に、事務所が築地から八重洲に移転した後も、しばらくは八丁堀で下車し、鍛冶橋通りを歩いて八重洲まで通っていました。まさに、江戸の与力や同心が、南町奉行所に通ったであろう行程です。

京華スクエア校庭に残る二宮金次郎
その途中というか、八丁堀駅からすぐの場所に、母校のエクステンションセンターが入る建物があります。オープンカレッジとして公開講座が行われ、生涯学習が推進されています。まくらが長すぎましたが、何を隠そう、この建物こそが、今回のテーマである「京華スクエア」です。

ここ数回、廃校を取り上げてきましたが、この京華スクエアも、旧京華小学校の再活用施設なのです。

京華小学校は、1901(明治34)年に創立されましたが、23年に発生した関東大震災で全焼してしまいました。関東大震災では、東京市にあった小学校195校のうち、無傷だったのは2校だけで、ほとんどが倒壊、もしくは焼失していました。

その後、東京市は復興事業の一環として、復興小学校117校を建設。不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用したり、災害時の避難所としても使えるよう52校では公園を併設したりしました。

このうち京華小学校は、29年に幼稚園も併設して建てられました。その後、60年代から90年代にかけて大都市圏でドーナツ化現象が起こり、東京では都心3区(千代田区・中央区・港区)の人口が減少。京華小学校は、中央区の人口減に伴い、93(平成5)年に、鉄砲洲小学校と共に中央小学校に統合され、閉校となりました。

閉校当初、跡地利用に当たって、建物を取り壊す話も出ていましたが、区の財政負担を軽くし、地域活性化を図るため複合施設として利用することになりました。そして現在、中央区立ハイテクセンター、京華コミュニティルーム、中央区シルバー人材センター、中央交通事故相談所、W大学エクステンションセンター八丁堀校が入っています。

なお、中央区にはこの当時建てられた復興小学校が、旧京華小学校だけではなく、いくつか残っています。そのうち、新入生の標準服にアルマーニを採用して話題となった銀座の泰明小学校と常盤小学校の2校は、東京都の歴史的建造物に選定されると共に、経済産業省近代化産業遺産にも認定されており、歴史的な建造物として高く評価されています。

コメント

  1. 八丁堀、江戸北町奉行所と言えば遠山 景元、あのお決まりの名セリフ 通称「遠山の金さん」しか思い浮かびません。岡っ引き、下っ引き、と言えば銭形平次に八五郎も連想してしまい、岡っ引きの起源まで知ることができ面白かったですね。

    筆者は、青春時代から中年期までの長きに亘りこの地に縁があり活躍されていたのですね。
    生き字引という事になりますね。

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  2. 北町奉行が金さん、南町奉行が大岡越前ですかね。。。ちなみに金さん、後で南町奉行もやったらしいですね。
    築地、新富町界隈は個人の店がいっぱいあって良かったんですけどねえ。それに比べると、八重洲はつまらないですわ。

    返信削除

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