築地界隈を歩いてみる - 銀座1〜4丁目(東銀座)編

歌舞伎座

江戸幕府の成立後、幕府は江戸の町の整備を行いました。1回目の天下普請では、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められ、1604(慶長9)年に日本橋から品川に至る東海道が整備されました。その後、12年に2回目の天下普請が行われ、駿府にあった銀座役所が移転してきたことから、その土地に銀座の名が付きました。

江戸の街路網は北東から南西に向かう東海道(中央通り)を軸に設計されましたが、関東大震災後に復興都市計画として、大規模な再整備が行われました。その目玉は、銀座を囲む大通りの整備でした。まず、中央通りの東側に、新たな南北軸として昭和通りが設けられました。また、中央通り、昭和通りと直交する大通りとして晴海通りが、銀座の西側には外堀通りが整備されました。

これらの街路のうち、中央通りと晴海通り沿いには現在、日本はもちろん世界的な高級店が軒を連ね、日本を代表する商店街になっています。そして「銀座」の名は一つのブランドになり、「○○銀座」を名乗る商店街が全国に登場。全国商店街振興組合連合会によると、その数は約350件に上るそうです。


ちなみに、商業地として日本一地価の高い場所は銀座4丁目にある山野楽器ですが、他に2位(5丁目)、3位(2丁目)、4位(7丁目)、8位(6丁目)、9位(4丁目)も銀座で、トップ10のうち6カ所を銀座が占めています。

銀座は現在、1丁目から8丁目まであり、北は八重洲、京橋、八丁堀、南は新橋と接しています。また、西は有楽町、丸の内、東が築地と新富になります。今日の舞台は関東大震災により整備された、昭和通りの東側と晴海通りの北側にある銀座1丁目から4丁目のエリアです。

昭和通りの東は、以前は木挽町と呼ばれる地域でした。しかし、1951(昭和26)年に三十間堀川の埋め立てが始まり、銀座と地続きとなることから銀座東と改名。その後、69年に銀座に編入され、昭和通りの東も銀座という地名になりました。ただ、中央通り沿いの華やかさに比べると、昭和通りの東はだいぶ落ち着いた雰囲気で、人通りもさほど多くありません。

麹屋三四郎
銀座1丁目にある「酒の駅」麹屋三四郎

そんな地域の起点は、「築地界隈を歩いてみる」のスタート地点でもあった、東京都中央区築地1丁目1番地1号の中央区役所にしましょう。中央区役所から銀座までは、首都高速都心環状線に架かる三吉橋を渡ればすぐです。距離にして80m弱。歩いても1分とかかりません。

三吉橋は、上から見ると 「Yの字」 になっている三つ又の橋です。以前は、ここを築地川が流れていました。その後、日本橋川から、京橋川と八丁堀の桜川の合流地点へ流れる楓川と、築地川を結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が、1930年に開削されました。その合流地点は、築地川がL字に折れる所だったことから、川が三叉のY字型になり、それに合わせて、連絡運河開通の前年29年に三叉の三吉橋が架けられたそうです。

麹屋三四郎
麹屋三四郎にて
これらの川は、今は埋め立てられ、首都高速都心環状線が通っています。楓川が、日本橋川から分流する地点は首都高の江戸橋JCT辺り、京橋川と桜川と合流する地点は同・京橋JCT辺りになります。

一方、築地川は明石町辺りで隅田川から分流し、現在の首都高新富町出口を通って、三吉橋の所で左に曲がり、首都高の本線に沿って流れ、浜離宮恩賜庭園の東側を通って再び隅田川に合流していました。この他、築地川には支流があり、首都高銀座出口辺りから東へ流れる東支川、聖路加国際病院の付近から築地本願寺の南を流れて東支川に合流する南支川があり、それも勝どき橋付近で隅田川に注いでいました。

この築地川を舞台にした、三島由紀夫の短編小説があります。その名も『橋づくし』で、1956(昭和31)年12月号の『文藝春秋』に掲載されました。花柳界の女性4人が、満月の夜に願掛けの「七つ橋渡り」をするという話です。そして、最初に渡る橋として登場したのが、三吉橋です。その部分を引用してみましょう。

「四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街灯のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。
程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している」

三吉橋は、三叉の橋なので、彼女たちは橋の二辺を渡ることで、橋を二つ渡ったこととし、3番目の築地橋に向かいます。築地橋は築地と新富を結ぶ橋で、今は平成通りとなり、橋の下は首都高の新富町出口になっています。4番目の橋は入船橋で、新富・入船と築地を結ぶ橋で、今は新大橋通りとなっています。築地川は、この先で南へ折れ、少し先で南支川に入っていきます。彼女たちの行程は、南支川へ続き、暁橋、堺橋と渡って、最後の橋は築地本願寺手前の備前橋となっていました。さて、彼女たちの願いはかなうのか・・・。

チョウシ屋
チョウシ屋のハムカツとコロッケパン
『橋づくし』は、その後、58年に三島自身の台本で舞踊劇が上演され、61年には新派で劇化上演されました。また、テレビドラマやラジオドラマにもなっており、多くの文芸評論家や作家から、短編の傑作として高い評価を受けています。

ところで、いまだ今回のコースのスタート地点をうろうろしているわけですが、もう一つだけ、三吉橋ネタがあります。ある時、BSテレビで小林旭の『銀座旋風児』をやっていました。何気なく見ていたところ、三吉橋が出て来たのです。映画は1959年9月20日に公開されたもので、築地川にはまだ水が流れていました。日活のサイトにその予告編が出ており、YouTubeでも公開されていたので、埋め込んでおきます。1分5秒過ぎに出てくる場面が、三吉橋です。

さて、いい加減、先に進みましょう。中央区役所から三吉橋を渡ると、右側に三吉橋の碑があり、左にはホールや結婚式場、レストランなどがある「銀座ブロッサム(中央会館)」という中央区の施設があります。ちょうど1丁目と2丁目の境で、右が銀座1丁目になります。

橋を渡って最初の道を右折し、50mほど行くと、「酒の駅」の看板があります。「麹屋三四郎酒舗」という店で、珍しい地酒が味わえます。店主の藤田さんは、スコットランドでウイスキー造り、フランスでワイン造り、アメリカではバーボン造りに関わり、北海道・余市のニッカウヰスキーでは約30年、竹鶴家の初代、2代目と共にウイスキー造りに取り組んだそうです。その後、ある和食店から日本酒のアドバイスを依頼されたことをきっかけに日本酒を探究するようになり、この店を開くことになったとのこと。

この店は、カメラマンの田中勝明さんが、たまたま前を通り掛かって気になったことから行くようになりました。いつも、ご主人の事務所がすぐ近くにある編集部のK嬢も一緒で、よく3人で、鰊の麹漬けやチーズの麹味噌漬けなどを肴に、藤田さんお薦めの純米酒や吟醸、大吟醸を堪能したものです。

歌舞伎座
オープン前日の歌舞伎座
麹屋三四郎の少し先には、京橋公園があります。ここは、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館と並び、幕末江戸三大道場の一つに数えられた、鏡新明智流・士学館があった所です。門弟には土佐藩士が多く、中央区役所の所にあった土佐藩中屋敷から武市半平太や岡田以蔵などが通っていました。ちなみに、坂本龍馬は北辰一刀流の千葉定吉道場に通っていました。千葉道場は、編集部の事務所が移転した八重洲2丁目のビルの目と鼻の先にある、三井ビル辺りにあったと言われています。

京橋公園の前には、ポンデュガールというワインバルがあり、利用したことがありますが、このビルにはかつて、関係していた雑誌の広告代理店が入っていて、時々、遊びに行っていました。また、公園脇のビルには、DTP以前に仕事を依頼していた版下屋さんの事務所がありましたが、ここのエレベーターは2人乗りの小さなもので、昔はエレベーターガールがいたという噂を聞き、その時に乗ってみたかった、と本気で思ったものです。

ほぼ、雑ネタになっているので、ついでですが、三吉橋の南には亀井橋という橋があり、そこが銀座2丁目の端に当たり、橋の反対側は築地警察になります。ここは、麹屋三四郎ではなく、竜崎三四郎シリーズで人気を博した城戸禮さんの小説『無鉄砲三四郎』ゆかりの橋です。このシリーズは、主人公の名が、みな竜崎三四郎ですが、設定が全て異なり、『無鉄砲三四郎』では、慶早大学で100万ドルバッテリーと言われたスポーツマンとして登場。バッテリーを組んだ伴大六と酔っぱらって亀井橋から築地川に飛び込み、築地警察に保護されるところから物語が始まっていました。

竜崎三四郎シリーズは、1878(明治11)年創業の出版社、春陽堂書店から出されたもので、この会社は昭和通りに面した銀座3丁目に本社があります。残念ながら、昭和通りの西側になり、今回の舞台からは外れますが、その隣の隣にあるおでん「田中」は、場所が外れていても入れたいお店だったので、竜崎三四郎シリーズにかこつけて、名前だけ入れておきます。

昭和通りを挟んで、おでん「田中」の反対側の3丁目には、1927(昭和2)年に創業した「チョウシ屋」というお店があります。ここは多くの人から愛される揚げ物屋さんで、名物はハムカツサンドとコロッケパン。ハムカツサンドは、ハムを2枚重ねてたっぷりのラードで揚げられたハムカツに、特製ソースをかけ、しっとりとした食パンに挟んだもので、病みつきになるおいしさ。また、コロッケパンは、ジャガイモの塊が入ったコロッケに、こちらも特製ソースをかけ、フカフカのコッペパンで挟んでいます。

チョウシ屋さんは、知る人ぞ知る銀座のB級グルメの王者で、いつも行列が出来ています。近くを通り掛かったら、ぜひ寄ってみてください。

チョウシ屋さんの先は、銀座4丁目。晴海通りに面して、歌舞伎座があります。1889(明治22)年に開場したもので、それまで最も大きな舞台だった新富座の間口8間を大幅に超える13間の間口を持ち、照明には当時最新技術だった電灯を採用するなど、近代劇場として誕生しました。その後、関東大震災や第二次世界大戦で焼失するなど、さまざまな困難がありましたが、それを乗り越え、2013(平成25)年には、第5期となる現在の劇場がオープンしました。

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