築地界隈を歩いてみる - 新富・入船編

中華そば萬金
「萬金」の中ラーメン・イカのせ

今日は、築地と八丁堀に挟まれた、新富と入船が中心となります。新富は、東京メトロ有楽町線新富町駅が真下にある、首都高速都心環状線の新富町出口を挟んで、築地1丁目、2丁目の向かいになります。こちらが南側で、北隣は八丁堀です。また、西は首都高速都心環状線の本線を挟んで銀座1丁目、東は新大橋通りを挟んで入船と接しています。東隣の入船は、南が築地3丁目と明石町、北が八丁堀で、東は湊と接しています。

築地も含め、この辺りは江戸時代、武家屋敷が置かれていました。しかし、明治維新によって大きく様変わりします。1869(明治2)年、隅田川河口の築地鉄砲洲(今の湊、明石町)に、外国人居留地が設けられたのです。

豊原国周「開化 三十六會席」1878(明治11)年
貿易のために門戸を開いた横浜や長崎、函館と違い、築地には、公使館や領事館が置かれました。また、宣教師や医師により教会や病院(現在の聖路加国際病院)も建てられました。更に、青山学院や立教学院、明治学院、女子学院、女子聖学院などキリスト教系の学校を中心に、慶應義塾や雙葉学園など数多くの学校が、ここを発祥の地としており、築地居留地は文教都市としての役目も果たしていました。

この他にも、西洋の技術を取り入れた靴や印刷などの工場も誕生。特に、多くの外国人が居住することになって、靴の需要が高まったため、1870(明治3)年、入船に日本最初の靴工場が出来ました。同地には、「靴業発祥の地」の碑が建てられており、この工場が創業を開始した3月15日は、「靴の記念日」になっています。また、入船や湊辺りは、中央区内随一の印刷関係の町工場が集中するエリアで、新大橋通りを挟んだ新富には、日本印刷会館もあります。

月岡芳年「会席別品競べ」1878(明治11)年
新富は、外国人居留者を目当てに造られた新島原遊廓が元になっています。新島原というのは、京都の島原遊郭にちなんで名付けられました。新しい遊郭には、千住宿から13軒、内藤新宿から5軒、春日部宿(埼玉)から4軒、品川宿と板橋宿からそれぞれ3軒が移ってきたそうで、だいぶ大きな遊郭だったことが推察されます。しかし、期待したような集客が得られず、1871(明治4)年に取り払いを命じられ、遊廓は新吉原、根津に移転し、新島原は新富町1丁目から7丁目へと改変され、町家が軒を連ねました。新富の名前は、もともとあった隣の大富町に対し、新しい町なので新富町にしたと言われますが、大富町の一部を編入したことから、新島原と大富の一文字ずつを取って新富町にしたという説もあるようです。

翌72年には、守田座(75年に新富座に改称)が移って来て、新富町は歌舞伎のメッカとなり、新富町に残った料亭や置屋が息を吹き返し、花街として発展するようになりました。新富座は、関東大震災で焼失し、その後、再建されることはありませんでしたが、その頃からの料亭も、新富には残っています。

躍金楼

1873(明治6)年創業の「躍金楼」(てっきんろう)で、店の名前は、中国湖南省の名勝・岳陽楼について記した北宋の文人・范仲淹の『岳陽楼記』の中の漢詩から、山岡鉄舟が名付けたそうです。築地の事務所にいた頃、よくここを利用させてもらいましたが、頃合いを見て、女将があいさつに来られ、店名の由来を説明してくれました。それによると、「洞庭湖のほとりから見える風景と、店から眺めた築地の海の風景がよく似ており、『金の波が躍る(浮光耀金)』という一節から、波のきらめきと活きがいい魚のきらめきを掛け、『活きのいい料理』を出す店であれ、との願いを込めた」命名であったとのことです。

躍金楼

躍金楼は、そんな150年近い歴史を持つ料理屋さんで、「粋な黒塀♪」じゃないですが、黒塗りの塀で囲まれた外観は、だいぶ敷居が高い感じがします。でも、昼時にはスタンド割烹で、気軽にランチを楽しむことが出来ます。※5月からは、新型コロナの感染対策として、贅沢7点盛天丼(秘伝のたれ付き)など、ランチのテイクアウトも始めたようです。

新富にはもう1軒、「松し満」という老舗の料亭がありました。こちらは、新島原遊郭よりも古い、江戸時代の創業で、200年からの歴史を誇ります。が、2005年に建物が取り壊され、跡地には高層マンションが建ちました。「松し満」自体は、すぐ向かいのビルに移転し、割烹料理屋として営業。看板や玄関の作りは、やや入りにくい感じですが、週替わりを始め1000円で昼定食を提供しています。

新富にはこの他、創業1963(昭和38)年の洋食店「煉瓦亭」やグルメバーガー専門店「ブラザーズ」、またワインバーや沖縄料理、焼肉など、さまざまな店があります。私が津金ワインを飲むことが出来た「鈴萄」も、新富にあったのですが、残念ながら今は閉店してしまいました。

正金アパート

残念と言えば、新大橋通り沿いに、1931(昭和6)年竣工の「正金(しょうきん)アパート」という建物があったのですが、2015年に解体。今は、「正金アパートメント入船」と、名前こそ前のままですが、ブルーを基調としたおしゃれなマンションに生まれ変わっています。同潤会アパートと同時期の建物で、同じような趣を持っていただけに、新富からその姿が消えたことは寂しい気がします。

新大橋通りを挟んで新富の東にある入船は、外国人居留地が設けられた時に、入船町1丁目から9丁目までが出来ました。町名は、八丁堀にあった桜川から築地川まで約400mの運河・入船川に由来します。入船川は当初、新島原遊郭の堀として開削されました。その後、遊郭が廃止され、1882(明治15)年に拡幅されて入船川となりました。しかし、関東大震災後の帝都復興土地区画整理事業によって、新大橋を建設するために1924(大正13)年に埋め立てられました。


また入船町も、1871(明治4)年に6丁目から9丁目が居留地に編入されたり、その後、埋め立てなどにより6丁目、7丁目が新たに出来たり、居留地が入船町の7丁目(旧6・7丁目)と8丁目(旧8・9丁目)なったりしました。が、1899(明治32)年に居留地が撤廃されたことに伴い、7・8丁目は明石町へ編入され、入船町は1~6丁目になりました(現在は入船1~3丁目)。

中ラーメン イカのせ

入船にも、担々麺がおいしい「支那麺 はしご」や、日本酒マニアが集う居酒屋「左光」などがありますが、個人的には、既に閉店してしまった、中華そば「萬金」のことが、忘れられません。

萬金のポークソテー

築地に勤め始めてから約35年、いったいどれくらい通ったか・・・。週一はオーバーかもしれませんが、1000回近くは「萬金」で、昼食を取ったのではないかと思います。で、そのほとんどが、ポークソテーか「中イカ」でした。

「萬金閉店のお知らせ」
「中イカ」というのは、中華そばの中盛にイカフライをのせるもので、メニューにあるわけではなく、客が勝手にアレンジしてオーダーします。若い時は大盛にイカをのせていたこともありますが、年と共に量が減り、最後の方は普通の中華そばにイカで十分でした。ただ、やはり昔懐かしい、ここのラーメンの味が好きで、大体は中ラーメンにイカをのせてもらっていました。

中には、「カレーそばの麺少なめに玉子焼きのせて(若奥さんに『目玉焼きですね』と突っ込まれつつ)、半ライス。それにビールね」と、創造力豊かなオーダーをする常連さんもおり、なかなか楽しいランチタイムでした。しかし、そんな萬金も、2018年の12月27日をもって閉店。それを知らせる貼り紙で、大正時代に萬金軒として開業してから100年余にわたり、入船で営業していたことを知りました。

「萬金閉店」
私が通い始めた時は、中華そば担当のお父さんと、ポークソテーやしょうが焼き担当のお母さん、揚げ物やカレー、ご飯を担当していた息子さんの3人で厨房を回し、ホールと洗い場に女性のお手伝いさんがいました。ただ、事務所が八重洲に移転した頃から、休みの日が目立つようになり、開いている日も、最後の方は息子さん夫婦で切り盛りし、息子さんが中華そばもポークソテーも揚げ物も、一人でこなしているような日もありました。そのため、いつまで続けられるか心配していましたが、多くのファンに惜しまれつつ、とうとう閉店の日を迎えました。

その日の私のGoogleカレンダーには、今も「萬金閉店」の予定が、薄い色で残っています。*写真がほぼ萬金で、何か萬金トリビュートみたいになってしまいました。。。

コメント

  1. 「萬金」も もうないんですね。寂しいですよね。確か、ここは神戸のT先輩も一緒に行った記憶があります。

    外国人居留地があったんですね。神戸の外国人居留地はいまはオシャレな店が立ち並ぶ観光地になっていますが、築地・入船あたりはまったくそんな気配がないのは、関東大震災で消失したためでしょうか?

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    1. やはり関東大震災は、大きかったんでしょうね。まだ生まれていなかったので、知りませんが・・・。

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  2. 35年間通い詰めた馴染みのお店があるという事に驚きを感じつつ、味、居心地も良かったんですよね。このコロナ禍でますます庶民的めし屋が少なくならない事を祈りたいと思います。

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    1. そんな大げさなものでもなく、昼食は、だいたいお気に入りの店をローテーションで回っていました。トップ2が魚竹と萬金で、その他「築地界隈を歩いてみる」で紹介した店を中心に食べに行っていただけで・・。

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