奥能登の厳しい自然が生んだ温もりの風景 - 間垣の里
小さな田が重なり海岸まで続く、輪島の白米千枚田 |
古い話になってしまいますが、1983年の暮れ、能登半島の輪島市を訪問しました。私にとっては、初めての奥能登です。当時は羽田から小松空港へ飛び、バスで小松か金沢に移動して、そこから列車(まだ国鉄でした)で輪島に入りました。
カメラマンのTさんが一緒で、列車は空いていたので、向かい合わせの2人掛け座席に一人ずつ座りました。Tさんは乗り物酔いをするため、いつものように進行方向に向かって座り、私はバックで進む形になりました。しばらくして、若い男性が我々の席に来て、席が空いているか尋ねました。「ええ、空いてますよ」と答えましたが、我々はかなり怪訝な表情になっていたと思います。
岩場に開いた丸い穴から水が流れ落ちる桶滝 |
なんせ、空いているも何も、列車は空席ばかり。なぜ、わざわざ相席に?
するとTさんの隣に座るなり、彼はいろいろと話しかけてきます。どうやら話し相手がほしかったようです。初めは世間話だったのですが、我々の目的地が輪島だと知ると、自分の身の上話を始めました。
彼は輪島塗の家に生まれ、漆器職人さんに囲まれて育ったそうです。生漆が肌につくと、かぶれることはよく知られていますが、徐々に漆への耐性が出来てきます。彼の実家では、その経験値を応用して、新しい職人さんが入ってくると、早く耐性を獲得させるため生漆をなめさせていました。彼は、漆に囲まれた、そうした生活が嫌で、家を飛び出したとのこと。その後は、かなり強烈な流転の人生を送り、今は大阪の金持ちの男性に囲われていると話しました。
その頃には、彼はほとんど私に向かって話していました。が、話がだんだんと深刻になってきたため、前の座席のTさんにも加わってもらおうとしましたが、Tさんは目をつぶったまま微動だにしません。どうやら、寝たふりを決め込んだようです。「ズルっ!」と思ったものの、仕方なくそのまま一人で聞き役を続けました。その結果、列車が輪島に着くまで、彼の話をたっぷりと聞かされることになりました。
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そんな波乱の輪島入りだったわけですが、取材自体は非常に順調で、地元ミニコミ誌の取材にも同行させてもらいました。
ミニコミ誌の取材先は、西保海岸上大沢(かみおおざわ=輪島の人は略して「かめぞう」と呼んでいました)の婦人会「荒磯グループ」でした。上大沢は輪島市の中心から海岸沿いに車で30分ほど行った所にあります。海と山に挟まれた小さな集落で、この辺り特有の強風のため、集落全体が「間垣(まがき)」という竹を組んだ垣根で覆われています。
間垣というのは、奥能登の日本海沿いの集落に設置されている竹垣のことです。竹垣と言っても、5mほどの高さがあり、敷地全体、あるいは集落全体をすっぽりと覆っています。その景観はかなりのインパクトがあり、初めて目にした人には強烈な印象を与えるはずです。私もそうでした。
ただ、その時は、間垣の里で取材するミニコミ誌の人たちを取材するという、ややこしいシチュエーションだったため、間垣の里自体を深く突っ込むことは出来ませんでした。ミニコミ誌の取材はもちろん大事だけど、間垣の里のことももっと知りたいわあ、と気持ちはズボンのおなら、そう右と左に泣き別れ状態でした。
そんなこともあって、間垣の里と列車の青年は、輪島という土地と共に、私に非常に大きな余韻を残したのでした。
2回目に輪島を訪問した時には、既に輪島駅は廃止され、「ふらっと訪夢」という道の駅になっていました。そのため私は、能登空港でレンタカーを借りて、輪島へ向かいました。空港から輪島までは約20分。羽田から能登空港まではほぼ1時間だったので、前回とは比べものにならないぐらいアクセスが良くなっていました。
輪島では、蒔絵の第一人者や江戸後期創業の造り酒屋の方にインタビューしたり、前回の取材でもお世話になった龍清窯の窯元・北濱珠龍さんにお会いして話を伺ったりしました。北濱さんは、以前は東京でデザイナーをされていたようで、実はこの時、ある雑誌の企画について相談に乗って頂き、とてもいいアドバイスをもらい、その後の誌面作りに生かしました。
そしてその日は、間垣の里・大沢地区にある田中屋旅館さんにお世話になりました。間垣越しに日本海の夕日が望め、新鮮な魚介類や能登特産イシル鍋、石焼岩海苔など、心尽くしの料理が自慢の宿です。私は、夕食時にプラス一品で、鯛の姿盛りを頼んでいたのですが、残念ながらその日は鯛がとれなかったそうです。女将さんが、申し訳なさそうに「アジしかないんですけど、いいですか?」と断って、食卓に出してくれたのが、めちゃくちゃ大きなアジの姿盛りでした。しかも、これがものすごく甘い刺身で、私は我を忘れて食べました。今、思えば、写真を撮っておくべきでした・・・。
もちろん、せっかく間垣の里に泊まったのですから、間垣についてご主人や女将さんからいろいろと教えてもらったのは言うまでもありません。
大沢、上大沢の家々では毎年11月になると、冬の到来に備え、間垣を補修します。間垣には2~3年生のニガタケを使います。ニガタケとは、5月頃に出るタケノコが苦いので、その名があるようです。この竹を山から切り出し、既にある間垣の裏側に入れて補強していきます。幅15mほどの間垣を補修するのに、およそ200本の竹が必要だといいいます。
かつて、これらのササはまだ青々としていて、冬を前にした輪島の風物詩となっていました。が、いつしか、ササが枯れて落ちるとごみになると言って、わざわざ山で枯らしてから使うようになったそうです。ご主人は「情緒が失われてきた」と、少し残念そうに話しておられました。
また、高齢化が進んだことで、竹を板に替えたり、ブロックにする家も増えてきていると聞きました。ただ、頑丈ならいいというものでもなく、竹なら、しなって風をやわらかく吸収してくれますが、板やブロックはまともに風を吹き上げ、屋根瓦を飛ばしてしまうことすらあるのだと教えてくれました。
そんな間垣の里の冬を、女将さんは「虎落笛(もがりぶえ)が聞こえるんですよ」と表現していました。虎落笛とは冬の強い風が、竹垣や柵などを通り抜ける時、ヒューという笛のような音をさせることを言う冬の季語だそうです。女将さん自身も、風の強いある冬の日、宿泊客の一人から、この季語を教えてもらったと話していました。
間垣が奏でる虎落笛とは、いったいどんな音なのでしょう。きっと、冬の奥能登を代表するような、厳しくも温もりのある音を出すに違いないと、私は勝手に想像しています。
能登は私にとっても思い出の場所のひとつです。
返信削除大学生の頃、先輩たち5人で電車を乗り継ぎ能登まで旅をしました。
帰ろうと思ったその日に台風が接近、結局帰れなくなって確か穴水で宿を探して翌日無事に帰りました。
間垣はうっすらとした記憶しかありませんが、千枚田や塩田の記憶は鮮明です。
でも何を食べたか覚えていない・・・😢
珠洲の駅前にあったおばあちゃんが一人で切り盛りしている喫茶店に入り、当時はアイスコーヒーやアイスオーレなんてオシャレな言い回しはなく、神戸ではレーコとかレーミーコーなんて若者は言っていたので、その通りに言うと、おばあちゃんは「うちでは、そげぇなもんはできねぇ」(かなり脚色してます)と言われたもんですから、面白がって「じゃあ、氷を入れた冷たいコーヒー」と言ったら、「それならできますよ」って。
我々は大笑いしたけど、後から考えると悪いことをしたなぁと思いました。
45年経ってもまだ覚えてるのは自責の念かも。
そもそも、行った場所さえ、普段は全く思い出しませんが、こうしてブログを書き始めると、意外と昔のことを覚えているものだと我ながら関心します。年を取ると、昔のことは覚えているけど、昨日のことを忘れてるってことになるのかもしれませんが・・・。
削除能登半島までは近いのですが、未だ輪島までは行った事はなくせいぜい能登島水族館を行ったり来たり、今年は是が非でも肌で輪島を体感したいと思います。
返信削除ぜひぜひ。北濱さんの所は、陶芸体験もあるみたいですよ。
削除陶芸は一度もやったことありません。いいですね今年の夏はここで決まりですね。
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