悠久の時が流れる洋上アルプス - 屋久島
紀元杉 |
屋久島取材に同行してもらったのは、九州在住のカメラマンF氏。元国税局という変わり種の写真家で、私よりだいぶ年上の大先輩です。とても真面目な方で、電話で屋久島の撮影依頼をした時、縄文杉は標高1300mにあり、往復10時間以上かかると脅したら、当日までにそれ相応の装備をそろえて来られました。別に縄文杉に行くとは言ってなかったんですが・・・。
そう。私、縄文杉には行ったことがありません。
言うまでもなく縄文杉は屋久島のシンボル的存在。今は木を守るため、展望デッキからしか眺めることは出来ませんが、やはりその存在感は圧倒的で、縄文杉のツアーは人気を集めています。逆に最近は「縄文杉への日帰り登山は行っておりません」をうたい文句にするエコ・ツアーもありますが、これも縄文杉の人気ぶりを裏打ちしているかのようです。
私の場合は、そういう理由で縄文杉に行かなかったわけではありません。では、縄文杉を取材せず、何を取材したのかというと、やはり屋久杉なのです。実際は、屋久杉工芸をメインにしたのですが、素材の屋久杉も撮らなくては話になりません。とはいえ、日程的に縄文杉までは行けません。そこで目を付けたのが、ヤクスギランドでした。「ここで済ませよう」。不遜にも、そう考えたのです。
「ヤクスギランド」という響きが、なぜかテーマパークを連想させ、「どうせ大したことはないだろうが、屋久杉の感じぐらいは撮れるだろう」、そんな考えで足を踏み入れました。
屋久杉の土埋木 |
ところがどっこい、大したものだったのです。お手軽に「済ませよう」どころの話ではありません。樹齢数千年の屋久杉や、藩政時代の切り株、そこから伸びた小杉など、屋久島の原生林が、ちゃんとそろっていました。しかも総面積約270ha、歩道の総延長9kmという広さ。ヤクスギランド恐るべし! でございました。
ヤクスギランドには、30分、50分、80分、150分、210分の5コースがあり、日程や体力と相談しながら、自分のペースで周遊出来ます。ただし80分コース以上は登山道を歩くため、登山靴などそれなりの装備が必要になります。
ちなみに我々は、80分コースを選択したので、カメラマン氏の装備も無駄にはなりませんでした。このコースでは、仏陀杉、双子杉などが見られますが、これぞ屋久杉という巨木と出会うには、深い森に入る150分コースをお薦めします。
ヤクザル |
このヤクスギランドから約6kmの林道沿いにある紀元杉は推定樹齢3000年。樹高19.5m、胸高周囲8.1mで、車窓から見られる屋久杉としては最大、最長寿の木です。そのため、観光バスのルートにもなっているようです。そんなお手軽さからか、いまひとつありがたみに欠けるような気がしますが、ヤマグルマやヒノキなど着生樹が多いのが特徴で、屋久杉特有のごつごつとした幹の感じがよく分かります。
ところで、屋久島を取材した際、我々は郷土史家の山本秀雄さんに、いろいろなお話を聞かせて頂きました。その時に伺った話を、かいつまんで記しておきます。
屋久杉が歴史上に登場するのは天正14(1586)年。京都・方広寺の大仏殿造営のため屋久杉200本を伐採したという記録が残っています。これは豊臣秀吉の命によるもので、縄文杉に行く途中にある巨大な切り株・ウィルソン株(根回り32m)も、この時に伐られています。ちなみにウィルソン株は大正3(1814)年、アメリカの植物学者ウィルソン博士が発見したことから、その名があります。
かつては年に2、3回、土埋木の競りが行われていたが、現在は競り自体が禁止となっている |
屋久杉の制度的伐採が始まったのはその後、寛永19(1642)年のことと言われます。屋久聖人と呼ばれた泊如竹(とまりじょちく)が、島津藩主に献策したものでした。
泊如竹は屋久島の安房(あんぼう)に生まれました。幼くして法華宗の僧侶となり、京都・本能寺などで修行。その後、鹿児島で南浦文之(なんぽぶんし)に師事して儒学を修め、日章という僧名を如竹と改め、藤堂高虎や薩摩藩主、琉球王朝の侍読を務めました。
千尋の滝 |
島に帰ったのは寛永17年。貧しい島の暮らしを見て、灌瀧用水路の掘削などさまざまな事業を行い、島の救世主と仰がれます。そして寛永19年、屋久杉の伐採に手をつけたわけです。『日本史辞典』(角川書店)を見ると、この年、日本は大飢饉に見舞われ、大名に農民の救済が命じられています。
その頃、島では山の杉を伐ると祟りがあるといって恐れ、杉を伐る者はいませんでした。が、如竹はこの杉を伐って島民の困窮を救うことが、王道を行うものだと考えたのです。もちろん、京都で暮らした経験から、如竹は建材としての屋久杉の価値を知っていたのでしょう。
そこで如竹はある日、山に登って17日の間、山の神に祈りました。下山した如竹は島民を集め、山の神から杉を伐ってもよいとお告げがあった、と話しました。こうして屋久杉の伐採が始まり、その経営は島津藩によって管理され、藩の財政と共に島民の生活を潤しました。
この頃に伐られた屋久杉の根株の上や傍らで、今、屋久杉の子・小杉が成長しています。300年前にうっそうとした屋久杉の森が伐り開かれ、明るくなった森の中で芽生え始めたものです。今から1000年、2000年と経つと、これらの小杉が立派な屋久杉になるのでしょう。
屋久島では、人間の時の観念では図り知ることの出来ない大自然の生命の営みが、ゆっくりと、しかし、たくましく行われています。
屋久杉の壺 |
※取材した屋久杉細工は、屋久島の他、鹿児島市内にも工房があります。江戸時代に伐採されながら、搬出されずに放置された土埋木(どまいぼく)を使った工芸で、屋久島のものは壼に特徴があります。島の地味が貧しいせいもあって、屋久杉は極めて生長が遅く、年輪幅が極度に狭くなって、非常に美しい木目を見せます。また腐朽して内部が空洞化しているものも多く、屋久島で造られる壼は、屋久杉の持つこうした自然の美しさや面白さを生かして制作されます。
■観光一口メモ
屋久島は島全体が世界遺産だけあって観光情報は豊富。多くのツアーが設定されているので自分に合った旅を計画するといいと思います。例えば大川の滝、千尋の滝、トローキの滝や、白谷雲水峡など、水をテーマに旅しても面白いのではないでしょうか。
屋久島観光協会:http://yakukan.jp/
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