悲しい歴史を秘めた南の島の麻織物 - 宮古上布
「ゲッ、コンブだ!」 テスト撮影を終えたカメラマンのI氏から、悲痛な叫び声が上がりました。 「コンブ? なんじゃ、そりゃ」 I氏が呆然と見つめるポラロイドを覗くと、なるほどコンブです。 麻の織物を撮ったはずなのに、どうして? 宮古上布は、ロウをひいたような艶が特徴とは聞いていましたが、それにしても光沢がすごいのです。二人の悪戦苦闘が始まりました。 ◆ エメラルド色の海と紺碧の空。太陽の光はあふれんばかりにふり注ぎ、強烈な色彩を生み出します。影の色もまた強烈です。沖縄県 宮古島 の伝統工芸・宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。 宮古上布の正確な由来は不明です。が、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布(あやさびふ)を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。 綾とは宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。その後、稲石の技は島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。が、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。 1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女に労苦を強制しました。各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。 過酷な圧制は極めて精緻な上布を育みました。薄く透けているためセミの羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻(ちょま)の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。またロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。