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7月, 2020の投稿を表示しています

悲しい歴史を秘めた南の島の麻織物 - 宮古上布

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「ゲッ、コンブだ!」 テスト撮影を終えたカメラマンのI氏から、悲痛な叫び声が上がりました。 「コンブ? なんじゃ、そりゃ」 I氏が呆然と見つめるポラロイドを覗くと、なるほどコンブです。 麻の織物を撮ったはずなのに、どうして? 宮古上布は、ロウをひいたような艶が特徴とは聞いていましたが、それにしても光沢がすごいのです。二人の悪戦苦闘が始まりました。  ◆ エメラルド色の海と紺碧の空。太陽の光はあふれんばかりにふり注ぎ、強烈な色彩を生み出します。影の色もまた強烈です。沖縄県 宮古島 の伝統工芸・宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。 宮古上布の正確な由来は不明です。が、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布(あやさびふ)を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。 綾とは宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。その後、稲石の技は島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。が、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。 1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女に労苦を強制しました。各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。 過酷な圧制は極めて精緻な上布を育みました。薄く透けているためセミの羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻(ちょま)の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。またロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。

最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠

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埼玉と長野の県境をなす奥秩父・ 十文字峠 。標高は1962m。中央分水嶺でもあり、埼玉側は荒川、長野側は千曲川の源流となっています。5月下旬から6月にかけて、峠は数万本とも言われるアズマシャクナゲで覆われます。 何度も甲武信岳やこの十文字峠を訪れているカメラマンのTさんに誘われ、やはり山好きのカメラマンUさんと共に、アズマシャクナゲを求めて十文字峠へ行くことになりました。私の名前の頭文字がSなので、STUの3人組ということになります(関係ないけど)。 十文字峠へ向かう道は、埼玉県の旧大滝村(現・秩父市大滝)と長野県川上村の二つの起点があります。川上村からは更に、三国峠から尾根づたいに十文字峠へ向かう道と、千曲川の源流部となる毛木平から登る道があります。Tさんが選んだのは、このうち 毛木平 からのルートでした。途中、急坂はあるものの2時間程度で登ることが出来ます。機材を背負っての登りでしたが、比較的楽な山行でした。 出発点の毛木平には、60台近くの車が停められる毛木平駐車場があります。アズマシャクナゲが見頃の6月初旬には、この付近でベニバナイチヤクソウの大群落も見られます。まずはこの可憐な花を楽しんでから出発するといいでしょう。 毛木平からしばらくは、カラマツ林の平坦な道が続きます。沢づたいに緩やかな登りを歩いて行くと、左手に 五里観音 と呼ばれる観音像が見えてきます。十文字峠道は古くから、秩父と信州を結ぶ最短コースとして利用されてきました。そのため旅人の安全の道標として、一里ごとに里程観音が置かれています。ここから八丁坂と呼ばれる急坂までは、さほどきつい登りはありません。沢沿いの道にはさまざまな山野草が見られるので、これらを楽しみながら歩けます。 沢から離れ、ジグザグの登りに入ると、八丁坂が始まります。胸突き八丁の言葉通りの急坂で、ここが正念場。この八丁坂を息をきらせて登りつめた尾根は八丁頭と呼ばれ、十文字峠まではもう一息です。 十文字峠は秩父と信州を結ぶ峠道と、三国山と甲武信岳を結ぶ尾根づたいの道が文字通り十文字に交わります。峠の周辺はコメツガ、シラビソ、トウヒなどの針葉樹林に囲まれています。最も奥秩父らしい深い森林美を持った峠です。アズマシャクナゲが咲き競う6月初旬には、多くの登山客でにぎわいます。

奥能登の厳しい自然が生んだ温もりの風景 - 間垣の里

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小さな田が重なり海岸まで続く、輪島の 白米千枚田 古い話になってしまいますが、1983年の暮れ、能登半島の輪島市を訪問しました。私にとっては、初めての奥能登です。当時は羽田から小松空港へ飛び、バスで小松か金沢に移動して、そこから列車(まだ国鉄でした)で輪島に入りました。 カメラマンのTさんが一緒で、列車は空いていたので、向かい合わせの2人掛け座席に一人ずつ座りました。Tさんは乗り物酔いをするため、いつものように進行方向に向かって座り、私はバックで進む形になりました。しばらくして、若い男性が我々の席に来て、席が空いているか尋ねました。「ええ、空いてますよ」と答えましたが、我々はかなり怪訝な表情になっていたと思います。 岩場に開いた丸い穴から水が流れ落ちる 桶滝 なんせ、空いているも何も、列車は空席ばかり。なぜ、わざわざ相席に? するとTさんの隣に座るなり、彼はいろいろと話しかけてきます。どうやら話し相手がほしかったようです。初めは世間話だったのですが、我々の目的地が輪島だと知ると、自分の身の上話を始めました。 彼は輪島塗の家に生まれ、漆器職人さんに囲まれて育ったそうです。生漆が肌につくと、かぶれることはよく知られていますが、徐々に漆への耐性が出来てきます。彼の実家では、その経験値を応用して、新しい職人さんが入ってくると、早く耐性を獲得させるため生漆をなめさせていました。彼は、漆に囲まれた、そうした生活が嫌で、家を飛び出したとのこと。その後は、かなり強烈な流転の人生を送り、今は大阪の金持ちの男性に囲われていると話しました。 その頃には、彼はほとんど私に向かって話していました。が、話がだんだんと深刻になってきたため、前の座席のTさんにも加わってもらおうとしましたが、Tさんは目をつぶったまま微動だにしません。どうやら、寝たふりを決め込んだようです。「ズルっ!」と思ったものの、仕方なくそのまま一人で聞き役を続けました。その結果、列車が輪島に着くまで、彼の話をたっぷりと聞かされることになりました。  ◆ そんな波乱の輪島入りだったわけですが、取材自体は非常に順調で、地元ミニコミ誌の取材にも同行させてもらいました。 ミニコミ誌の取材先は、西保海岸 上大沢 (かみおおざわ=輪島の人は略して「かめぞ

周山街道沿いに林立する北山杉の美林

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大学2年の夏休み、第2外国語でとっていたスペイン語の単位ほしさに、教授が企画した琵琶湖のキャンプに友人と3人で参加しました。教授が授業を持っていた各大学の学生を集めた合同キャンプで、我々は「これに参加すれば『優』は確実だ」との下心を秘めての参加でした。 愛知出身の友人は、実家から直接行くというので、もう一人の友人と私は、行きは東名、帰りは中央道と、車で寄り道をしながら行くことにしました。直前になって先輩の一人が、徳島の実家へ帰る途中、京都の親類の家に寄って行きたいから乗せていけ、と言ってきたため、ついでにその先輩も乗せ、京都経由で行くことになりました。 あちこちで遊んでいたため、京都に着いたのは2日目の夕方でした。勧められるまま、先輩の親類宅で晩ご飯をご馳走になり、夜もだいぶ遅くなってから、琵琶湖のキャンプ場へ向かうことになりました。 ナビなどない時代なので、道を教えてもらうと、「簡単だよ。大原を抜けて行くといい。ただ、三千院の少し先で右に曲がらなくてはいけないんやけど、そこを間違うと日本海まで行っちゃうから気をつけるんだよ」と。 なに、大したことなかろう、と走り始めたのですが、当時の大原辺りは真っ暗闇です。お化けでも出そうな雰囲気で、ヘッドライトに浮かび上がった白い洗濯物に、二人して悲鳴をあげる始末。それでも、ガソリンの残りが乏しかったこともあり、分岐点を見逃すまいと、必死で運転をしました。 結局、無事にキャンプ場にたどり着きましたが、この時走った大原の先の分岐点(「途中」という地名だったと思います)までの道が、京と若狭を結ぶ若狭街道(国道367号)でした。 東西に長い若狭からは、古来、いくつもの道が畿内に向かって延びていました。昔、若狭の行商たちが、若狭湾でとれた鯖に一塩し、一昼夜かけて都へ運搬。京に着く頃に、ちょうどいい塩加減になり、都で珍重されたということで、これらの道は総称して鯖街道とも呼ばれます。 そんな京と若狭を結ぶ道の一つに周山街道があります。ほぼ現在の国道162号に沿っており、途中には、見事な杉の美林が見られます。磨き丸太で知られる北山杉です。川端康成は『古都』の中で、その辺りをこう書いています。 「清滝川の岸に、急な山が迫ってくる。やがて美しい杉林がながめられる。じつに真直

人の営みにより作られた美しい風景 - 山古志

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もうだいぶ前の話ですが、雑誌の企画を練るため、よく図書館に通っていました。今ならインターネットで、さまざまな資料が居ながらにして検索出来ますが、その頃はそうはいきません。しかも、目当てのものが一発で見つかるわけではなく、0類「総記」の事典や郷土資料に始まり、2類「歴史」の地理・地誌・紀行、6類「産業」や7類「芸術・美術」など、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、それはもう大変でした。 そんな中、ふと手に取った、ある写真集で心ひかれる1枚の写真に巡り会いました。それは、朝霧がかかる谷あいに、オレンジ色の斜光が差し込む幻想的な風景でした。撮影場所を見ると、「新潟県山古志村」とありました。 以来、山古志村は特別な存在となりました。いつか行ってみたい。そう思っていましたが、機会はなかなか訪れませんでした。ところが、ある企画がきっかけで、思いがけず山古志村に行けることになりました。 当時、関係していた雑誌で写真の誌上コンテストがあり、プロの写真家二人と毎月選考に臨んでいました。回を重ねるうち、アマチュアとはいえ、非常に優れた写真を撮る人たちが何人も登場してきました。 そこで編集部では、それらの方を案内人に、このブログのタイトルに使っている「旅先案内」という企画を立てました。そのうちの一人で、新潟県の加茂市に住む方が、山古志村を「旅先」に選んだのです。 その方は当時、二科会写真部の新潟副支部長を務めており、撮影のため何度も山古志に足を運んでいたらしく、村のあちこちまで知り尽くしていました。写真は先方がこれまで撮りだめたものの中からセレクトして使わせて頂くことになっていたので、取材は裏取りを中心にし、撮影は念頭にありませんでした。そんな心掛けだったからか、ピンポイントで 撮影スポット に案内して頂きましたが、当日は若干天気が崩れ、残念ながら霧を見ることは出来ませんでした。 取材が終わって別れ際、その方が、10月10日の体育の日あたりがベスト、と教えてくれました。 翌年10月10日、今度は満を持して山古志村を再訪しました。その年は知人を誘い、川口町のキャンパス川口という所で生まれて初めてのキャンプも経験。また、堀之内町のヤナ場でアユを食べ、山古志村の闘牛も見ました。ある意味、とても思い出に残る撮影行となりました

原始的な大自然を満喫する旅 - 釧路湿原

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シラルトロ湖 釧路湿原は南北約36km、東西約25km、面積約1万8290haで、日本の全湿原面積の6割を占めています。湿原には特別天然記念物のタンチョウや、氷河期の遺存種であるキタサンショウウオ、日本最大の淡水魚で幻の魚と呼ばれるイトウなどが生息し、貴重な野生生物の宝庫となっています。 1980年には湿原の中心部7863haが水鳥の保護を目的としたラムサール条約の登録湿地となり、また87年には国立公園の指定を受けています(国立公園の面積は2万8788ha:環境省)。今や道東指折りの定番観光地の一つで、年間を通して約50万人の観光客が訪れます。 湿原の8割はヨシ、スゲ草原とハンノキに代表される低層湿原で、その景観は、さながらアフリカのサバンナを思わせます。また、平均3~10mという標高にもかかわらず、一部に高山植物が美しい高層湿原や、低層湿原が高層湿原に移行する途中のヌマガヤ湿原なども見られ、まるで湿原のサンプルのような珍しい構成となっています。 この湿原を滋養するのが釧路川で、屈斜路湖に源を発し、湿原に入ると東西からの支流を次々に集め、湿原の東縁に沿って蛇行しながら南流します。湿原を眺望するには、釧路町の 細岡展望台 からがお薦め。雄阿寒岳と雌阿寒岳を背景に釧路湿原の中を釧路川が蛇行している有名な風景を楽しむことが出来る釧路湿原随一の絶景ポイントです。 夕焼けの達古武湖 特に湿原越しに夕日が落ちていく様は極めつけ。秋には、黄金色に染まったヨシの穂が夕日を浴びてきらきらと輝き、蛇行する川が朱に染まって美しい姿を見せます。 細岡大観望とも呼ばれる展望台は、釧網本線・釧路湿原駅から約250mとアクセス抜群。釧路駅から釧路湿原駅まで約30分、また車でも約24km、35分程度で展望台へ着くことが出来るので、手始めにこの絶景ポイントを見ておく方がいいと思います。 釧路湿原駅の次の駅は細岡。駅を降りると目の前に釧路川の本流があります。ここは達古武湖との接点で、湿原の中での釣りの名所となっています。釣り師憧れのイトウを始め、アメマス、カラフトマスなど、春から秋まで竿に豪快な手応えを与えてくれるそうです。また冬には結氷し、ワカサギ釣りでにぎわいます。 取材に行った当時、達古武湖の岸辺に1軒の家があり、

繊細さと雄大さを併せ持つ上高地の風景

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上高地を流れる梓川沿いの小さな岩壁に、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンのレリーフが埋め込まれています。毎年6月、ここでウェストン祭が開かれ、多くの人が集まり、花を献じ、山の歌を合唱します(※今年は新型コロナ感染拡大の影響で開催が中止されました)。 ウェストンは1889(明治22)年の初来日以来、3回、延べ13年間にわたって日本に滞在しました。1891年に上高地から槍ケ岳に登ったのを始め、日本の山岳の開拓的登山を試み、1905年には彼の勧めで日本山岳会が設立されました。彼に刺激を受け、日本の登山者も山を目指して上高地を訪れるようになります。そして上高地は絶好の登山基地として注目を集め、日本の近代登山発祥の地と言われるようになりました。 それ以前の上高地は秘境と言ってもよい土地でした。が、歴史は意外に古いようです。梓川の川岸に川の名のもととなった弓の良材アズサの木が、カラマツと高さを競うように林立しています。古文書には大宝年間(701~703)に信濃の国から梓弓が朝廷に献上されたとあり、既にこの頃、杣人たちが峠を越え、梓川をたどって上高地に入っていたことがうかがえます。 江戸時代になると、松本藩の御用林となり人夫が入山しました。彼らは梓川のかなり上流まで入り、槍ケ岳のふもとのニノ俣谷まで梓川沿いに樵小屋が14軒あったと言われます。上高地周辺には八右衛門沢、善六沢、又白沢などの地名がありますが、これらは当時の杣人の名にちなんでいます。ただ、それでもニノ俣の先は依然として未踏の地となっていました。 「世に人の恐るる嶺の槍のほもやがて登らん我に初めて」 1823(文政6)年、修業のため飛騨の笠ケ岳に登った播隆上人は、山項から、鋭く天を突いている槍ケ岳の姿を眺め、こう歌に詠みました。3年後、その通り登頂を果たしますが、知られる限りでは、これが槍ケ岳への初登頂とされています。播隆上人はその後も5回にわたり槍ケ岳へ登り、頂上に祠を建て仏像を安置したり、岩小屋に籠って修行もしました。また、誰もが安全に登れるようにと登山道に鎖をつけ、槍ケ岳に信仰登山をする人も徐々に増えていきました。 更に明治になると、イギリスの登山家たちが上高地を基地として山に登るようになりました。1878年には、ウィリアム・ゴーランドによって「日本

瀬となり淵となって流れる奥入瀬の渓流美

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奥入瀬川は十和田湖の水が流れ出るただ一本の川。太平洋に注ぐまで、全長67kmをゆるやかに流れます。詩人であり、紀行文家であった大町桂月が、「住まば日の本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」とうたった奥入瀬は、そのうち十和田湖東岸の子ノロから、蔦川と合流する焼山までの渓流14kmを指します。 桂月が十和田を訪れるきっかけは、当時在籍していた雑誌『太陽』に掲載する紀行文のためでした。桂月は明治41年8月に十和田を訪れ、十和田湖と奥入瀬をくまなく歩き、その魅力を『太陽』に発表しました。 『太陽』は明治28(1895)年に創刊された日本初の総合雑誌で、当時のオピニオンリーダーとしての役割を担っていました。そこに発表された紀行文「奥羽一周記」は、十和田、奥入瀬を広く世に知らせるきっかけとなりました。 各地を旅した桂月ですが、十和田湖奥入瀬と蔦温泉をことのほか愛し、その後も度々訪問。ついには本籍を移して定住してしまいます。そして自然と酒を愛でながら歌作にいそしみ、大正14年、この地で57年の生涯を閉じました。 その桂月が、奥入瀬を描いた文の中に、次のような一文があります。 「・・・この渓流は、他には見難き風致を有す。湖口より蔦川を入るまで凡そ三里、島多し。みな木を帯ぷ。巖の水中に立てるものも多し。それもみな木を帯ぶ。これ奥入瀬渓流の特色也。・・・」 奥入瀬は、湖によって洪水が自然に調節され、流量が安定しています。更に渓流とはいえ、70mにつき1mというゆるやかな勾配の中を流れています。そのため、川の中の小さな岩や倒木にも、苔や灌木が生えています。清らかな水に加え、こうした岩を覆う深緑色の苔やその上の灌木が、奥入瀬を更に美しく見せているのです。 十和田湖樹海のうっそうとした木々と渓流、岩、滝が次々と織りなす風景は、庭園の趣さえ感じさせます。5月の新緑と10月中旬の紅葉期が特に美しく、多くの観光客を引きつけ、魅了します。 奥入瀬観光は、車の中からでも容易に景色が楽しめます。が、やはり歩いて探勝するのが一番。渓流浴いには遊歩道が整備されており、車でポイントだけを見て回ったのでは気がつかない、さまざまな自然の表情に巡り合えます。 ただ、全部歩くと約5時間の行程となるので、途中の 石ケ戸

日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島

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この間、日本最北端の地・宗谷岬のことを、稚内の記事で書きましたが、私、最東端と最西端にも行ったことがあります。 国土地理院は、日本の最東端を東京都の南鳥島、最西端を沖縄県与那国島、最南端・東京都沖ノ鳥島、最北端は北海道択捉島と発表しています。ただ、宗谷岬の時に書いた通り、択捉島は現在、ロシアが実効支配しており、自由に往来は出来ません。また、南鳥島と沖ノ鳥島は無人島で、通常の交通機関で行ける島ではありません。そのため、最西端の与那国島以外は、一般的には最東端が北海道根室市の納沙布岬、最南端が沖縄県の波照間島、最北端が宗谷岬ということになっています。 このうち、東西の納沙布岬と与那国島は、だいぶ前のことですが、それぞれ取材で訪問しています。 与那国島に行ったのは、今から34年も前の1986年でした。日本トランスオーシャン航空がまだ南西航空と言っていた時代で、飛行機はDHC-6という19席の超小型プロペラ機でした。当時は、石垣島との間を1日4往復していました。取材は与那国島に住む方の追跡取材だったのですが、与那国での取材ではなく、朝一番の飛行機で与那国を出て、石垣で1時間程度の会議をこなした後、与那国島へトンボ帰りするというパワフルな行動を取材するためでした。そのため、前日に与那国入りすることに。 石垣島から与那国島までのフライトは30分ほどでした。石垣の空港を飛び立った機は竹富島、小浜島、西表島の上空を通過し、与那国島へ向けて順調に飛行。窓から下を覗くと、島や海が間近に見えました。 座席前のポケットに目をやると、団扇が差し込まれています。乗客はこの団扇を仰いで涼を取るという、南国情緒あふれるシステムなんでしょうか。そこで私は、団扇を取り出し、優雅に仰ぎ始めました(実はその団扇、この間、片付けをしていたら出て来ました)。 与那国空港にはほぼ定刻通りに到着。取材対象の方が出迎えてくださり、その後、車で島を一通り案内してくれました。与那国島は面積28.5平方km、周囲27.5kmの小さな島ですが、車窓から見る限り、とてもそうは思えず、本州にはない大陸的な風景が展開していました。 与那国島は那覇から約520km、石垣島から約127kmの離島です。が、台湾までは約111kmで、与那国島の最西端からは年に数回、台湾

悠久の時が流れる洋上アルプス - 屋久島

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紀元杉 屋久島取材に同行してもらったのは、九州在住のカメラマンF氏。元国税局という変わり種の写真家で、私よりだいぶ年上の大先輩です。とても真面目な方で、電話で屋久島の撮影依頼をした時、 縄文杉 は標高1300mにあり、往復10時間以上かかると脅したら、当日までにそれ相応の装備をそろえて来られました。別に縄文杉に行くとは言ってなかったんですが・・・。 そう。私、縄文杉には行ったことがありません。 言うまでもなく縄文杉は屋久島のシンボル的存在。今は木を守るため、展望デッキからしか眺めることは出来ませんが、やはりその存在感は圧倒的で、縄文杉のツアーは人気を集めています。逆に最近は「縄文杉への日帰り登山は行っておりません」をうたい文句にするエコ・ツアーもありますが、これも縄文杉の人気ぶりを裏打ちしているかのようです。 私の場合は、そういう理由で縄文杉に行かなかったわけではありません。では、縄文杉を取材せず、何を取材したのかというと、やはり屋久杉なのです。実際は、屋久杉工芸をメインにしたのですが、素材の屋久杉も撮らなくては話になりません。とはいえ、日程的に縄文杉までは行けません。そこで目を付けたのが、 ヤクスギランド でした。「ここで済ませよう」。不遜にも、そう考えたのです。 「ヤクスギランド」という響きが、なぜかテーマパークを連想させ、「どうせ大したことはないだろうが、屋久杉の感じぐらいは撮れるだろう」、そんな考えで足を踏み入れました。 屋久杉の土埋木 ところがどっこい、大したものだったのです。お手軽に「済ませよう」どころの話ではありません。樹齢数千年の屋久杉や、藩政時代の切り株、そこから伸びた小杉など、屋久島の原生林が、ちゃんとそろっていました。しかも総面積約270ha、歩道の総延長9kmという広さ。ヤクスギランド恐るべし! でございました。 ヤクスギランドには、30分、50分、80分、150分、210分の5コースがあり、日程や体力と相談しながら、自分のペースで周遊出来ます。ただし80分コース以上は登山道を歩くため、登山靴などそれなりの装備が必要になります。 ちなみに我々は、80分コースを選択したので、カメラマン氏の装備も無駄にはなりませんでした。このコースでは、仏陀杉、双子杉などが見られますが