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土佐の小京都・四万十市で惨敗を喫す

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愛媛、高知の取材巡礼も終盤、最後の目的地・四万十市に入りました。巡礼2日目は、大月町の柏島で取材した後、道の駅・大月で「ひがしやま」をゲット。国道321号で太平洋沿岸を走り、土佐清水では足摺岬などに立ち寄りながら、夕方に四万十市に着きました。 四万十の目的は、シラスウナギ漁です。もちろん、シラスウナギを捕るためではなく、シラスウナギ漁を撮るためです。以前の記事で徳島のシラスウナギ漁( 漆黒の川面に浮かぶ幻想的な光 - シラスウナギ漁 )を書きましたが、実は徳島は、この四万十のリベンジでした。そう・・・四万十では、シラスウナギ漁を撮影することが出来なかったのです。 ウナギの稚魚・シラスウナギは、冬から春にかけ、黒潮に乗って東アジア沿岸を回遊し川を上ります。日本では鹿児島や宮崎、徳島、高知、静岡などの川に遡上します。この時、シラスウナギは、潮に乗って遡上してくるため、大潮前後にはシラスウナギを追う漁師たちが、川に繰り出します。 シラスウナギ漁の最適期は、大潮時の干潮から満潮にかけて。また、明かりに集まってくる性質があることから、シラスウナギ漁は新月の夜、川面をライトで照らして行われるのが一般的です。冬の夜、ウナギが遡上する川の河口付近では、漆黒の川面に黄色や緑色の光が浮かび上がり、遠目からはまるでホタルが飛び交うように見えます。 で、その光景を撮るため、四万十川河口に宿を取り、夜中にいそいそと出掛けたのですが、1隻の船にも巡り会えず惨敗。この経験から、徳島では、漁師の方にお会いして、事前に漁が行われる場所や時間帯、気象条件などを伺いました。その際、シラスウナギは風のある日の方が多いと聞きました。 話を伺った方は、ベテラン漁師で、以前はシラスウナギ漁に出ていましたが、強い風が吹く冬の夜中に水しぶきを浴びながらの漁はきついため、最近はもっぱらマスコミ対応だと笑っていました。ただ、風が弱い日を狙って年に2、3度、川に出てみることもあるそうですが、「私が行くと、若い漁師から『今日は和田さんが来てるからだめだ』などと言われ、からかわれます」と、話していました。 四万十では、新月を選んで出掛けたのですが、そう言えば風がなく穏やかな天気でした。地元に住んでいれば、気象条件などを見て、さっと撮影に行けるのでしょうが、やはり一発勝負は難しいですね。 そうは言っても、このままではいわゆるボ

黒潮に育まれた四国最南端の町・土佐清水

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ここ3日間の記事は、同じ時に回った場所を連続で紹介しています。この時は、愛媛県の宇和島市と愛南町、高知県の大月町と四万十市の取材で、松山空港から四国入りして、高知空港から四国を離れるという旅程でした。初日は、宇和島市岩松と愛南町外泊で取材、宿を予約していた大月町まで、高速で約100km、下道で約100km、という感じの移動でした。 2日目は、大月町柏島を取材した後、次の取材地・四万十市まで移動しましたが、途中の土佐清水市と言えば、以前の記事( おいしい食べ物が多かった観光地ナンバー1 - 高知 )に登場した、高知の伝統食研究の第一人者、松﨑淳子高知女子大学名誉教授ご推奨の宗田節の産地です。更には足摺岬を始め、有名スポットがいくつかあるので、道すがら立ち寄ってみました。 柏島から足摺岬までは約60km、大月町の中心部からは国道321号の一本道です。土佐清水市との境にある、大月町の才角海岸からはほとんど太平洋に面した海沿いを走ることになります。 才角海岸から13kmほど走ると、土佐清水市の竜串海岸に出ます。ここには、海中展望塔の「足摺海底館」があります。全国に六つある海中展望塔の一つで、中四国では唯一の施設だそうです。「普段着のままで、自然の海を散歩出来る」をウリにしていて、建物に入ってらせん階段を降りると、海の中が覗ける丸い小窓が付いた部屋があります。外は自然の海ですが、よほど魚が多いのか、水族館と変わらぬほどさまざまな熱帯魚を間近に見ることが出来ます。 また、周辺には、土佐の海と黒潮の魚たちをテーマに、サメやマンタ、ウミガメなどを展示する足摺海洋館SATOUMIやグラスボートなどの施設があります。更に、竜串海岸には、約1700万年前に浅い海で生まれた地層が、潮風や波に洗われることによって出来た奇岩奇勝が続いており、その天然の岩の上を歩く遊歩道もあります。 竜串海岸から足摺岬までは25kmほどですが、その途中にも、いくつか見所があります。その一つは、以前、同じ編集部にいたK嬢が取材の際に訪れ、土佐清水に行ったらぜひ見てきてほしいと太鼓判をおしたアコウの木です。アコウはクワ科の樹木で、他の木に寄生して育ちます。樹上で芽を出すと、宿主の枝や幹をつたって気根を下ろし、やがて宿主を覆って枯死させます。 竜串海岸から20kmほどの松尾天満宮の裏手には、3本のアコウがあり、1本は

エメラルドグリーンの海が広がる絶景の柏島

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大月町は、高知県最西端、海岸部を中心に足摺宇和海国立公園に指定されている自然豊かな町です。以前の記事に書いた、キャラメルのような干し芋「 ひがしやま 」の産地です。特に、大月町龍ケ迫産の「ひがしやま」は絶品と評判で、私も「道の駅 ふれあいパーク・大月」で買い求め、それを実感しました。 その龍ケ迫は、豊後水道の南端にある宿毛湾に面した集落です。集落は、昨日の記事に書いた、愛南町の「石垣の里」のような石垣で囲まれた家があったり、石積みの段々畑があったりして、高知というより愛媛の南予のような風景が展開します。 というのも、龍ケ迫は、1876(明治9)年頃、愛南町の大浜から移住してきた人たちが住み着いた場所なのだそうです。愛南町大浜と大月町龍ケ迫は、宿毛湾を挟んで反対側にあり、陸路だと湾をぐるっと回るため30km強ありますが、海路だと約10kmと陸路の3分の1ほどになります。 「石垣の里」外泊は、隣の中泊から次男以下が移住して作られた集落でしたが、龍ケ迫も同じような理由で、大浜から分家移住してきたのでしょうか。現在、龍ケ迫天満宮の秋祭りなどで披露される「龍ケ迫の獅子舞」も、1892(明治25)年に、愛媛の行商人が集落の若者たちに伝えたのが始まりと言われており、移住元とのつながりは、かなり強かったのだろうと思われます。 さて、龍ケ迫のある大月町には、エメラルドグリーンの海が印象的な「柏島」があります。私も行ってみましたが、ここの海は本当に透きとおるように青く美しい色をしており、まさに絶景の島でした。 柏島は、宿毛湾の南に突き出た大月半島の先端にあり、柏島橋と新柏島大橋という二つの橋で、半島とつながっています。周囲4kmほどの島で、私が行った時、海の上をウミネコがわんさかわんさか飛んでいました。何事かと思って近づいてみると、どうやら魚の養殖をしているようです。後で調べると、これは「小割式生簀養殖」と呼ばれ、大きな円形の生簀では、クロマグロ(本マグロ)が泳いでいるそうです。その生簀に、イワシなどのエサがまかれる時間を狙って、おこぼれに預かろうとウミネコがやって来ていたのです。 実は大月町は、日本のマグロ養殖事業発祥の地だったのです。小割式生簀というのは、回遊魚であるクロマグロの生態に合わせた丸い生簀で、近畿大学水産研究所の原田輝雄教授により開発されました。和歌山県串本町大島にある

ANAの機内誌をきっかけに見つけた、石垣の集落

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以前、ANAの機内誌『翼の王国』で紹介された、愛媛県愛南町に興味を持ち、出張から帰った後、愛南町について検索したことがあります。記事は、「アイアイ先生の生物多様性紀行」。「アイアイ先生」とは、猿のアイアイで有名なマダガスカルの環境保護を長年続けている島泰三博士のことで、この記事には、地元の案内人がいました。そこで、その案内人に話を聞くのが手っ取り早いと、まずはその方を検索してみました。 記事では、「旅の水先案内人、自称"漁猟長"の山﨑晴久さん。この漁猟長、このあたりのあらゆる事情に精通しているから心強い」とあります。で、最初のヒットで、山﨑さんは、環境NPOあいネットワークの代表であることが分かりました。また、取材協力としてクレジットが入っていた南宇和ライオンズクラブの会員であることも判明。まずは、その辺から当たってみることにしました。 すると、記事の1年半ほど前、南宇和ライオンズクラブの事業として、島博士を招いて「どくとる・アイアイ環境教室」を開催したとのこと。本文の「この桟橋なら子どもも安全だから、釣り大会をやりますか? そのあと、料理教室も」というのは、この1年半前の事業で実施したものだったようです。 これには、小学3~6年生とその保護者約50人が参加。親子魚釣りと料理教室の後、島博士による子ども向けのワークショップが行われました。更に夕方からは、地域の方たちを対象とした講演会「生物多様性入門イン愛南」も実施され、参加された方たちからは、「愛南町には、何もないと思っていましたが、実は自然の宝庫だと気づきました」などの声が聞かました。また、島博士も、「御荘湾(みしょうわん)は国の宝です。いつかは、そのことを全国民が理解する時が来ると思います」と話されていたそうです。 島博士が、「国の宝」と称した御荘湾は、環境省の「日本の重要湿地500」に選定されており、確かに日本の海の宝物であることも理解しました。 その一方、取材協力の南宇和ライオンズクラブと、御荘という地名で、他のトピックも検索に引っかかりました。それは、御荘病院でした。 御荘病院は1962年に開院した精神科の病院で、74年には退院した精神障害者の社会復帰施設平山寮を開設しました。その後、米やサツマイモの栽培,養豚,闘牛の飼育,牡蠣の養殖,釣り筏の経営などのさまざまな作業を通じて、平山寮入

南伊予地方が伝えた奇想天外な笑話

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「鉄砲撃ちの茂八」 昔、昔、村に鉄砲撃ちの上手な茂八さん、という人がおった、とよ。 なにしろな、鉄砲撃ちの名人なもんでよ、とんでもねえことがおこるんだ、と。 ある日のことだ。鉄砲撃ちの茂八さんが、鉄砲持って、出かけたんだ、と。どうしたことかその日にかぎって、さっぱりえものが無かったんだ、と。しかたがないから、家へ帰ろうと、野原をとぼとぼ歩いていたら、空を雁が飛んでいた、と。 それで、茂八さんは「雁、雁、竿になあれ」と言ったんだ、と。そうしたら、今までカギになって飛んでいたのが、まっすぐになって飛んだ、と。それを見た茂八さんが、「雁、雁、カギになあれ」と言ったらの、カギになって飛んだんだ、と。 茂八さんは「ははあ、こりゃしめた。雁に命令して、一発でしとめてやろう」と思い、「雁よ、雁よ、竿になれ」と言って鉄砲かまえた。 ところがよ、雁も雁じゃ。撃たれちゃかなわんと、竿にならずに、カギになって飛びだしたんだ。だがの、さすがは茂八さんじゃ。雁の裏をかいて、鉄砲、カギのかっこうに曲げてな、ズドン。先頭から終わりまで、全部一発でしとめてしまったんだ、と。これ本当の話だ、と。  ◆ 愛媛県の昔話の中には、「トッポ話」という系列のものがあると言われています。この「トッポ」というのは、方言で、とんでもない、奇想天外な、という意味なのだそうで、とほうもない嘘で、人をアッと言わせるような話を「トッポ話」と言うのだそうです。主に愛媛県の南伊予地方に伝わり、高知県などでも笑い話として語り伝えられています。 「トッポ話」は地名とか人名をつけて「なになにトッポ話」という形で話されているのだそうで、「岩松トッポ話」とか「粂之丞のトッポ話」とかいう形で伝えられていますが、話の内容には同じものもあるようです。例えば、ここに出て来た鉄砲撃ちの話にしても、一発の弾でたくさんの獲物をしとめたとか、竹藪に弾を一発打ち込んだら、その弾が竹藪の中で跳ね返って、何と七日七晩も鳴り響いていたとか、ありそうもない話がさもあったというふうに、語られることが多いようです。とにかく、とてつもない出来事が実際にあったこと、事実だとして語られているのです。そこがまた面白さを誘ってもいるわけで「トッポ話」の特徴にもなっているようです。 愛媛県の「トッポ話」は北宇和郡の津島町から、南宇和郡にかけて多く語り伝えられていると言われていま

世界的な文化遺産ウォッチ・リストに認定された岩松の町並み

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ワールド・モニュメント財団(WMF)が認定する、存続が危ぶまれる歴史遺産「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」2020年版の中に、宇和島市にある岩松地区の町並みが入りました。WMFは、世界の歴史的建築物や文化遺産の保護に取り組む財団で、今回のリストには、2019年4月に大火災が発生したフランス・パリのノートルダム大聖堂、新たな空港建設計画で危機に瀕しているペルー南部、マチュピチュの近郊にあるウルバンバの谷、行政上の問題で適切に管理されていないチリ領イースター島の彫刻や岩絵などが含まれています。 「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」は、隔年で発表されており、2020年版は世界21カ国から25カ所が認定され、日本からも2カ所が入っています。その2カ所は、岩松地区と東京都北区滝野川の稲荷湯でした。稲荷湯は、昔ながらの銭湯で、映画『テルマエ・ロマエ』の撮影地としても知られますが、「銭湯の人気低下が、影響を与えている」としています。一方の岩松地区については、少し長くなりますが、報道発表を転載します。 「岩松歴史的町並みは、四国の西側で瀬戸内海の南西部に広がる宇和海のリアス式海岸地帯の湾口部にあたる岩松(愛媛県宇和島市津島町)に所在します。16世紀後半にできた農村集落から始まり17世紀(江戸時代)から酒、醤油などの醸造業を中心に、岩松川の川港を基盤にして栄えました。川沿いに形成された町並みで、往時の有力商家の屋敷構えは今でもその建築的特徴を良く残すなど、岩松の歴史を今日まで伝えており、海岸線が入りこんだ愛媛県南予地方でも、その規模は大きく、保存状態も良いとされています。最近では空家、空き地、改築などにより、その景観が失われることが危倶され、歴史的建物再活用による地域活性化を図りながら町並み保存を地域社会の総意として進める取り組みがされており、今回の『文化遺産ウォッチ』選定にあたっては、歴史的文化的建築的価値とともに、保存活動の計画性や長期にわたる行政も交えた地域社会の関わりの在り方などが評価されました。」 岩松は、この報道発表にあるように、藩政時代から、岩松川河口の港町として、山からは木炭、海からは鮮魚などが運ばれ、山と海の産物の交易により栄えてきました。戦後最初の新聞連載小説となった、獅子文六の『てんやわんや』は、終戦直後、文六が妻の実家がある、この岩松に疎開し

「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群

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「白いろうそく」の発明は、想像以上に画期的だったようです。18世紀初めに、ろうそく製造を営んでいた芳我弥三右衛門という人によって「伊予式箱晒し法」の技術が発明され、精製脱色技術が格段に向上しました。 青みがかった色が当たり前だったろうそくが、それまで見たこともないような乳白色に生まれ変わりました。この白いろうそくは、「晒ろう(白ろう)」と呼ばれ、電気のなかった時代には国内外で高級品として重宝されました。 県都・松山から北西へ約40km。四方を山で囲まれた盆地に、ひっそりと佇む内子町。江戸後期から明治にかけて、木ろうと和紙の生産で栄えた町です。 木ろうとは、ウルシ科の落葉高木ハゼの実をしぼって作るろうそくの原料です。江戸時代には頭髪を結う際のビンツケに用いられた他、近年では化粧品や色鉛筆などの原料としても利用されていました。 ハゼノキは、江戸時代に琉球王国から持ち込まれ、九州、中国、四国など西日本では、それまで木ろうの原料だったウルシからハゼに切り替わったようです。 伊予国の大洲藩で製ろうが始まったのは、安芸国(広島県)可部から、3人のろう職人を呼んでからで、藩内の内子でも、ろうがつくられるようになったと伝わります。内子の木ろう生産に、一大変革が訪れるのは、明治時代中期。維新後、激減していた木ろうの需要ですが、活路を海外に見いだしました。 引き金となったのは、「伊予式箱晒し法」です。芳我弥三右衛門は、ろうそくのしたたりが、水面に落ちて白くなったのにヒントを得て、研究の末にこの製法を発見したといいます。 彼が開発した技術は、精製脱色のみならず、晒ろうの量産も可能にしました。そのため、日本はもとよりヨーロッパを中心に、世界に向けて晒ろうを輸出することが出来るようになりました。 やや固く、融点の高い晒ろうの上品な灯火は、海外でも絶大な人気を誇り、内子の街は大いに繁栄しました。最盛期は、1900年代初頭(明治30年代後半)です。晒ろう生産は、愛媛県が全国1位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり、全国に名をはせました。 しかし、この栄華は短く、大正に入るとパラフィンの普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要が激減。内子町の晒ろう生産は、大正10年頃までにほぼ消滅してしまいました。 かつての四国遍路と金比羅旧街道のゆるやかな坂道に沿った約600mにわたる八日市

松山・大街道の大入亭からバー露口へ

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松山城は、加藤嘉明が築いた城です。城が完成したのは1603(慶長8)年で、この時、勝山という地名を松山に改めています。城下町は、標高132mの城山(勝山)のふもとに建設し、ほぼ方形の町割りとしました。 その後、松山藩は蒲生氏を経て、1635(寛永12)年から松平氏が藩主となり、明治まで続きました。その間、1784(天明4)年元旦に、天守が落雷で焼失。現在の天守は、1854(安政元)年に再建されたものです。 第2次世界大戦終戦間近の1945(昭和20)年7月26日、その松山市に128機ものB29が襲来、市街地に焼夷弾の雨を降らせます。この爆撃で、松山では半数以上の家屋が焼失、松山市は一面の焼け野原となり、城下町時代の町並みは姿を消しました。 その中で、唯一戦災を免れた歴史遺産が、松山城です。そして松山城は今も、松山のシンボルとなっており、復興した松山市も、やはり城を中心につくられています。 愛媛県庁や松山市役所を始めとした官公庁や金融機関などが集まる松山市の中心地は、城山の南側に集中。かつて、上中級家臣団の武家屋敷があった「外側」と呼ばれる地域で、現在の一番町から三番町にかけての番町エリアになります。松山一の商店街「大街道商店街」は、この番町エリアを東西に分けるセンターにあり、北はロープウェー商店街、南は銀天街につながっています。 私も、松山には結構行っていて、コロナ禍前の2010年代には、覚えているだけで6回行きました。2011年の時は、前のブログに書いた 鳴門 、 東かがわ 、 美馬 を回ってから松山入り。2013年の時は、松山を拠点に、 新居浜 と 内子 、砥部へ行っています。この2回は松山に泊まっていますが、2014年に 宇和島 、 愛南 、 大月 、 足摺 、 四万十 、 中土佐 と回って高知から帰ってきた時は、松山は空港でレンタカーを借りただけでした。実はそんなケースも何度かあり、松山を四国のゲートウェイとして利用することもありました。そう言えば、松山の取材後、高速艇で呉に渡ったこともあり、松山は陸海空、全てにおいて交通の便がいいと実感しています。 そんな松山の大街道で、偶然見つけたのが、「大入亭」です。松山市内を走る路面電車・伊予鉄道「大街道」駅を降りると、目の前が大街道商店街で、大入亭は、そのアーケードに入ってすぐ左のビルの中にあります。立地はいいので

新居浜ヘリテージツーリズム

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新居浜市は、四国の瀬戸内海側のほぼ中央にあります。四国はその名の通り、昔から四つの国(令制国)があり、愛媛県は伊予国と呼ばれています。伊予国は江戸時代、8藩に分かれており、新居浜は西条藩の領地でした。西条藩は当初、一柳家が治めていましたが、1670(寛文10)年、徳川御三家の紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男松平頼純が3万石で入封し、紀州徳川家の支藩と位置づけられていました。 西条藩には、一柳家時代から、大坂屋久左衛門が経営する立川銅山がありました。1690(元禄3)年、立川銅山で働いていた切上り長兵衛という鉱夫が、立川銅山に隣接する別子山で有望な鉱脈を発見。別子は西条藩ではなく、天領だったことから、長兵衛は、以前働いていた備中国吹屋(岡山県高梁市成羽町吹屋)の吉岡銅山を経営する泉屋(住友)の支配人に報告します。 泉屋は、西条藩や大坂屋に気づかれぬよう、迂回ルートから別子を探索。鉱脈を確認してから、幕府へ採掘を出願しました。実はそれ以前にも別子で採掘を願い出ていた者が複数おり、中には試掘まで行っていた者もいましたが、幕府は泉屋へ許可を出します。その泉屋も最初の嘆願は、運上銀が少ないと却下され、勘定所からは、運上銀を増額して再願するよう促され、これに応じた泉屋に認可が出ました。 そして、1691(元禄4)年、別子銅山が開坑。以来、1973(昭和48)年まで、別子銅山は282年間にわたって約70万トンの銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与しました。また、住友家は、この銅山によって大きく飛躍、日本を代表する巨大財閥となる礎を築きました。 銅山開坑から300年が経った1991年、新居浜市主導の第三セクター「マイントピア別子」が、別子銅山の採鉱本部跡に新居浜市初の観光テーマパークをオープンさせます。ただ、まだ産業遺産が大きな注目を集める前のだったので、入場者はぼちぼちという感じだったようです。潮目が変わるのは、21世紀に入ってからです。 大きかったのは、2007年に石見銀山が、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録されたことでしょう。鉱山遺跡としては、アジアで初めての登録でした。その前年には、石見銀山のある島根県の大田市で、新潟県佐渡市(金山)、大田市(銀山)、新居浜市(銅山)の3市長が集まって「金銀銅サミット」を開催。世界遺産登録を目指して連携することを確認していました。刺激を受け