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筑波山西麓の町で出会ったブランドこだますいか「紅の誘惑」

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筑西市は、茨城県西部、その名の通り筑波山西麓にあります。我が家からは約50km、カメラマンの田中さんの自宅からは70km弱で、田中さんは一部常磐自動車道を利用しますが、それぞれ車で1時間程度の所になります。そこで、筑西での取材に当たり、我々は、市の南寄りにある「アグリショップ夢関城」集合とし、各自、自家用車で現地へ向かいました。 筑西市は2005年に、下館市・関城町・明野町・協和町の1市3町が合併して誕生しました。市の中心・下館地区は、真岡木綿や結城紬などを扱う商業の町として発展し、「関東の大阪」と呼ばれました。また、集合場所にした関城地区は、日本で最も古い梨の産地の一つで、アグリショップ夢関城は、梨、すいか、ぶどうなど、この辺りでとれるフルーツの直売所になっています。 取材に行ったのは4月で、ちょうど梨の白い花が咲いていました。梨の生産者にとっては、「花合わせ」と呼ばれる梨の授粉作業に大忙しという時期でした。 ただ、メインの取材はフルーツではなく、桐下駄づくりや、商都として栄えた下館の町などが中心でした。 茨城県郷土工芸品に指定されている桐乃華工房は、アグリショップ夢関城から約3kmの所にあります。1951年に現在地に工房を開き、今では関東で唯一、原木の製材から製造まで一貫して行っている桐下駄工房になります。下駄には天板に歯を接着した「天一」と、一枚物の「真物」、丸太から縦に切り出し、下駄の表を合わせた形で加工する、「合目」という最高級の桐下駄があります。桐乃華工房は、原木からの一貫作業をしているため、「合目」も作っており、それらの話や工程を詳しく取材させて頂きました。 一方、水戸線、常総線、真岡線の3路線のターミナル駅となっている下館駅を中心とした下館は、江戸期から明治、大正にかけて活躍した下館商人の本拠地でした。現在でも、当時の面影を伝える蔵が100軒以上現存しており、かつて「関東の大阪」と呼ばれた繁栄ぶりを物語っています。 で、この下館に、「下館ラーメン」というご当地ラーメンがあります。 商都として栄えた下館では、商家は食事もままならいほど忙しく、出前文化が発達。特に時間が経ってもおいしさを損ないにくい中細ちぢれの少加水麺を使ったラーメンが中心になりました。また戦後間もない頃、豚肉より安価だった鶏肉をチャーシューに使ったものが、今に受け継がれています。 掲載

漆黒の川面に浮かぶ幻想的な光 - シラスウナギ漁

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  ふるさと納税のサイトを見ると、人気の返礼品に、和牛やカニ、高級フルーツなどと並んで、ウナギの蒲焼きが出て来ます。そんな、みんな大好き食材のウナギですが、今では天然ものに出会う機会などめったになく、実に99%が養殖ウナギとなっています。 ウナギの養殖で有名なのは、静岡県の浜名湖ですが、都道府県別の生産量を見ると、静岡県は第4位。1位鹿児島県、2位愛知県、3位宮崎県の順になっています。ちなみに、市町村別に見ると、第1位は愛知県西尾市で、同市一色町産ウナギが、愛知県全体の80%を占めています。これに次いで多いのが、鹿児島県の志布志市で、こちらは県全体の約5割を生産しています。 ウナギの稚魚・シラスウナギは、冬から春にかけ、黒潮に乗って東アジア沿岸を回遊し川を上ります。日本では鹿児島や宮崎、徳島、高知、静岡などの川に遡上します。この時、シラスウナギは、潮に乗って遡上してくるため、大潮前後にはシラスウナギを追う漁師たちが、川に繰り出します。 シラスウナギ漁の最適期は、大潮時の干潮から満潮にかけて。また、明かりに集まってくる性質があることから、シラスウナギ漁は新月の夜、川面をライトで照らして行われるのが一般的です。冬の夜、ウナギが遡上する川の河口付近では、漆黒の川面に黄色や緑色の光が浮かび上がり、遠目からはまるでホタルが飛び交うように見えます。 完全に人工的な光なんですが、何とも言えず幻想的な光景のため、夜中にも関わらず、多くのカメラマンがシラスウナギ漁の写真を撮りに訪れます。 私が、最初にシラスウナギ漁の撮影に挑戦したのは、2014年の1月31日から2月1日の新月の夜でした。その時は、高知県四万十市の四万十川で撮影に臨んだんですが、時間帯の問題だったのか、気象条件の問題だったのか、あるいは場所が見当違いだったのか、1隻の船にも巡り会えませんでした。 そして、満を持して臨んだのが、2017年2月26日〜27日の新月でした。これは、雑誌の企画で、カメラマンの田中さんも同行しての取材だったので、3年前の行き当たりばったりとは違い、ちゃんとその道のプロにレクチャーを受けてから撮影に入りました。場所は徳島市の吉野川。取材に協力してくださったのは、吉野川河口にある徳島市第一漁業協同組合の和田純一専務理事でした。 和田さんも、以前はシラスウナギ漁に出ていましたが、シラスウナギは風のある

フォトジェニックな沼田の風景 - 吹割の滝、玉原湿原、上発知のしだれ桜

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  前のブログで、「 はじめての親子孫3世代旅行 」について書きました。目的地は群馬県沼田市で、老神温泉に泊まり、上発知の果樹園でりんご狩りなどをして楽しみました。 その沼田市へは以前にも、仕事で何度か行っています。最初に行ったのは、1999年のことで、「天狗の寺」として知られる迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ)や、沼田まつりで女衆が担ぐ「天狗神輿」などを取材しました。 なぜに天狗なのかは、後述するとして、実は、孫がりんご狩りをした果樹園「香里園」(かおりえん)は、迦葉山のふもとの「天狗の里フルーツ団地」にあります。で、弥勒寺や香里園がある上発知には、その名も「上発知のしだれ桜」と呼ばれる美しい一本桜があり、この桜を撮影するため、沼田を訪れたこともあります。それが2013年のことで、今回の家族旅行はそれ以来の沼田行きでした。 残雪の武尊を背景に枝を広げる上発知のしだれ桜 上発知のしだれ桜は、木の下にお地蔵さんがあることから、「地蔵桜」とも呼ばれています。桜の木は、小さな丘の上にあり、さまざまな角度から撮影出来るため、開花時期には多くのアマチュア・カメラマンでにぎわいます。 沼田市教育委員会が設置した案内板によれば、樹高17m、幹周り3.7mとのこと。開花時期は例年だと、4月中旬から下旬にかけてで、ここに掲載した写真を撮影したのは4月22日でした。 ちなみに、沼田ICから香里園までは約8km。実は、その少し手前には「発知のヒガンザクラ」と呼ばれる一本桜もあります。ただ、こちらは開花時期が、上発知のしだれ桜より、5~10日ほど早いようで、一緒に撮影するというわけにはいきません。 で、香里園から上発知のしだれ桜までは約2km、沼田ICからなら約10kmということになります。 そして、上発知のしだれ桜から北上すると、4kmほどで迦葉山弥勒寺に着きます。弥勒寺は、標高1321mの迦葉山南腹にある曹洞宗の古刹です。寺には、顔の丈5.5m、鼻の高さ2.7mという、日本一の大天狗面が安置されています。この寺は天狗信仰の寺として知られ、他にも大小さまざまな天狗面が奉納されています。 弥勒寺はもともとは853(仁寿3)年、慈覚大師円仁の創建と伝えられ、天台宗に属していました。しかし、1456(康正2)年、天巽慶順禅師が入山して再興、この時、曹洞宗に改められました。 伝説では、禅師入山

はじめての親子孫3世代旅行で老神温泉へ

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  吟松亭あわしま特別室「尾瀬」からの眺望 11月23〜24日、群馬県沼田市の老神温泉へ行ってきました。親子孫そろっての旅行は初めてのことで、今年3月に生まれた長男の第2子から、今年4月にリタイアした私まで、総勢10人での旅となりました。 当初、栃木県の大田原を目的地として計画していたのですが、温泉露天風呂付客室で、食事は部屋食もしくは完全個室という条件を設定していたため、そもそも宿が限定されていました。しかも、10人の予定が合わないといけないので、日程調整にも苦労し、最終的に、行き先は老神温泉に変更することとなりました。 吟松亭あわしま特別室「尾瀬」の露天風呂 老神温泉を選んだのは、「吟松亭あわしま」という宿に、温泉付特別室が3部屋あり、更に食事は2食とも完全個室となっていたからです。特別室の3室は本館の最上階にあり、この階には3部屋しかないとのこと。部屋は、「尾瀬」「武尊」「皇海」の3部屋で、「尾瀬」と「武尊」が露天風呂、「皇海」は窓から景色が眺められる展望風呂付きの部屋でした。広さは、「尾瀬」と「皇海」が和室2部屋にツインのベッドルーム、「武尊」が和室とツインのベッドルームとなっていました。 予約サイトで見た時は、「尾瀬」のみ予約可能になっており、8カ月と1歳4カ月、そして2人の4歳児は寝相が悪いため、布団を敷くとして、12.5畳と6畳で大人4人、乳幼児4人はさすがに厳しいと思い、最適な部屋を宿に直接照会することにしました。すると、予約サイトに出ていない部屋でも、空きがあるとのことで、少し時間をおいてアクセスしてくれれば、「皇海」も出てきます、との答えでした。 その回答通り、しばらくして予約サイトにアクセスしてみたところ、展望風呂付の「皇海」が予約可能で出て来たため、「尾瀬」と合わせて2部屋を確保。4歳児二人は食事と布団付き、1歳4カ月と8カ月の孫は布団のみで、予約が成立しました。 吟松亭あわしま特別室「尾瀬」の露天風呂 4歳児の孫は二人とも女の子で、このところディズニー・プリンセスにはまっているため、沼田市の隣・高山村のロックハート城でプリンセス体験をすることにし、あとはりんご狩りぐらいで、極力、ホテルの部屋で過ごすことにしました。 当日、11月23日は、3連休最終日だったので、少し道路状況を心配していたのですが、コロナ禍以降、NEXCOは渋滞情報を出さなく

小布施取材で出会ったもの、出会えなかったもの

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  小布施と言うと、普通は栗なんですが、私の場合、以前のブログ「 日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して 」に書いた、小布施ワイナリーのある町としても認識していました。「ウスケボーイズ」は、岡本英史さん(ボー・ペイサージュ/山梨県須玉町)、城戸亜紀人さん(Kidoワイナリー/長野県塩尻市)、曽我彰彦さん(小布施ワイナリー/長野県小布施町)の3人で、ボー・ペイサージュの津金ワイン、Kidoワイナリーの城戸ワインは飲む機会があったのですが、小布施ワイナリーのドメイヌソガだけは、出会いがありませんでした。 しかし、2016年秋、取材で小布施に行く機会があり、せっかくなので小布施ワイナリーにもお邪魔しようか迷ったものです。しかし、小布施の町はとてもコンパクトで、取材は徒歩で行っていたため、駅から約1.5kmの小布施ワイナリーを訪問すると、試飲時間や往復の時間などを考えると、取材に支障を来すことになりそうで、諦めました。 さて、その時の取材対象は、王道の栗と北斎、そしてオープンガーデンでした。 小布施の栗は超有名ですし、義母、義姉と旅行をしてきた家内からも話を聞いていたので、情報はばっちりでした。しかも、神戸の友人・Dさんが、小布施のTwitterアカウント「おぶせくりちゃん」のツイートにいいねをしたり、リツイートをしていたので、Twitterからの情報も得ていました。ちなみに、「おぶせくりちゃん」については、私もついつい出来心でフォローしてしまい、時々、タイムラインに「何々クリ〜♪」というツイートがあふれかえる事態に陥ったりしていました。 で、栗に関しては、小布施で最初の栗菓子である栗落雁を創製し、200年以上の歴史がある桜井甘精堂さんの協力で取材を進めました。桜井さんによると、「現代は菓子店には生きにくい時代なんです。競争相手はコンビニスイーツで、大手の会社が開発しただけあって確かにおいしい。そんな中、小布施は栗に特化したことで、分かりやすい町づくりに結び付いたんじゃないかと思います」とのこと。 小布施町は、半径2kmの円にほとんどの集落が入る小さな町で、その中に栗菓子の名店が軒を連ね、側には栗農園もあって、小布施の町全体が栗のテーマパークのようになっています。更に主な栗菓子店は全て自前の美術館や博物館を持っていて、それもまた小布施巡りの楽しみの一つになっているようで

エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉

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  嬉野と言えば、日本三大美肌の湯と言われる嬉野温泉で有名ですが、他にも500年以上前から栽培されている嬉野茶や400年の伝統を持つ肥前吉田焼など、長い歴史に培われた産業でも知られます。また、塩田川と長崎街道という水陸二本の動脈に挟まれた河港都市・塩田津は、居蔵造りの町家が軒を連ね、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 建設中の九州新幹線長崎ルートに「嬉野温泉駅」(仮称)の設置が予定されていますが、現在は市内に鉄道駅がなく、嬉野へ行くには車を利用することになります。私は2度ほど、取材に行っていますが、2回とも長崎空港からレンタカーを借りて、嬉野に入りました。嬉野市は佐賀県ですが、佐賀空港からは約50km、長崎空港からは約30kmと、断然、長崎空港の方が近いからです。 箱庭のように整った嬉野の茶園 で、長崎空港からだと、すぐに大村ICで長崎自動車道に乗れ、嬉野ICまで行けるため、かなり楽な行程になります。ただ、全て下道を走っても時間的には数分しか違わないので、景色を楽しみながら海岸線を通る下道ルートの方がいいかもしれません。ちなみに、途中の千綿駅は、海が見える駅として知られ、昭和の面影を残す木造駅舎ということもあって、鉄道ファンならずとも立ち寄りたくなる場所です。 さて、嬉野茶の500年や肥前吉田焼の400年と、長い歴史があることは先述しましたが、嬉野温泉には、神功皇后にまつわる伝説があり、それが嬉野の地名の由来になったと言われています。その伝説とはこうです。 水玉模様が代名詞の肥前吉田焼 その昔、神功皇后が戦いの帰りにこの地に立ち寄られました。その折、疲れた羽根を川に浸していた白鶴が、元気に飛び立つ様子をご覧になりました。皇后が試しに、戦いで傷ついた兵士を川に入れてみたところ、たちまち兵士の傷が癒えたと言います。そして、川の中を探ってみると、白鶴がいた場所には温泉が沸いていたのです。そこで皇后は「あな、うれしいの」と言われたとのことで、その後、この地を「嬉野」と呼ぶようになったということです。 神功皇后と言えば、『日本書紀』では170~269年の人となっているので、その歴史は嬉野茶や肥前吉田焼どころの騒ぎではありません。まあ、あくまでも伝説ですが・・・。 ちなみに、長崎出島の医者として来日したドイツ人のシーボルトが、1826(文政9)年の江戸への旅を中

人を幸せにする食堂 - 桐生のはっちゃんショップ

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  少し前のブログ(「 北関東の歴史町・足利市 」)の最後で、「快く赤れんが工場の撮影を受け入れてくださった上、工場内をくまなく案内してくれた『トチセン(栃木整染)』さんのおかげで、北関東の近代遺産への関心が高まり、翌年の桐生取材につながりました」と書きましたが、その桐生取材のこぼれ話です。 桐生は、「西の西陣、東の桐生」と称される織物の町で、約1300年の歴史を持つ桐生織は、昭和初期まで日本の基幹産業として栄えました。そして桐生には、明治から昭和の半ばにかけて建てられた織物工場が、今も数多く残っています。それらの多くは、ノコギリ屋根の建物で、市内には約220棟が残存しています。 ノコギリ屋根工場は19世紀、産業革命の時代にイギリスの紡績工場で採用されたのが最初だと言われます。ノコギリ屋根では北側に天窓が設けられ、そこから差す柔らかな光が、一日中安定した明るさをもたらし、糸や織物の色を見るのを助けていました。また屋根が高いため織機の騒音を抑える効果もあり、まさに織物工場のための形状と言える建物でした。 最盛期、桐生には約350棟のノコギリ屋根工場があったそうですが、電力事情の改善や安価な照明器具の導入、また途上国の追い上げなどにより、日本の織物産業全体が衰退。織都と言われた桐生でも、ノコギリ屋根工場は次々と姿を消しました。 しかし、90年代に入って、そんなノコギリ屋根工場に光を当てる動きが活発化。桐生市による近代化遺産調査で、市内に残存するノコギリ屋根工場が脚光を浴びるようになりました。更には、ノコギリ屋根工場を商業施設やアトリエなどへ再生活用する動きも広がってきました。 取材では、それらのうち、旧金谷レース工業の工場を再生した「ベーカリーカフェ」や、和菓子店「青柳」、「美容室アッシュ」など、10軒以上のノコギリ屋根工場を回りました。中には、有機栽培のブドウから作ったワインを直輸入する「かない屋」さんのワイン貯蔵庫として利用されているノコギリ屋根工場もありました。これは、珍しい大谷石造りの建物で、温度管理に適していることから、貯蔵庫として活用することにしたそうです。 ところで、桐生は長男のお嫁さんの実家があり、長男夫婦の子ども2人は、桐生の実家に近い病院で生まれました。1人目は、私ども夫婦にとっての初孫で、初宮参りは関東五大天神の桐生天満宮で執り行いました。1600

苦節13年、豊かな森と日向灘の荒波が育てる高鍋の天然かき

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  高鍋のかきは、うまいらしい! その情報が、私の頭にすり込まれたのは、2003年のことです。その年の10月、高鍋のお隣、川南町で取材がありました。 川南町は宮崎県のほぼ中央、日向灘に面した町で、青森県十和田市、福島県矢吹町と並んで日本三大開拓地に数えられています。入植の歴史は藩政時代からと言われますが、当時はまだ小規模なものでした。昭和初期でも、川南の人口は3000人ほど。それが戦後、一気にふくらむことになります。 太平洋戦争に突入した1941年、南方戦線での奇襲作戦に備えて空挺落下傘部隊が川南に創設されました。「空の神兵」と称えられた将兵たちの降下訓練が連日行われ、川南は軍都の様相を呈しました。 そして戦後、彼ら落下傘部隊の多くが、そのまま川南に残ると共に、川南で大規模な国営開墾事業が始まり、海外からの引き揚げ者が続々と入植して来るようになりました。人口は何と2万4000人に上りました。戦前の8倍です。これらの入植者は全都道府県に及ぶことから、川南は「日本の合衆国」と呼ばれるようになったそうです。 で、そんな川南での取材を終え、空港へ戻る際、取材をしていた場所からは、川南駅より一つ先の高鍋駅の方が近いから、と地元の方が、車で高鍋まで送ってくれることになりました。車中、高鍋は、天然かきで有名だと教えられました。飛行機の搭乗まで時間があったら、絶対に食べて行った方がいいとも。 とにかく、高鍋の天然かきは、濃厚な味わいとぷりぷりの食感で、そんじょそこらのかきとは全く違うとのこと。そこまで言われると、既に頭の中は、かき尽くし・・・。 で、駅に着く前から、目を皿のようにして、かきが食べられそうな店をチェック。しかし、努力のかいなく、駅まで、これぞという店は見つかりませんでした。 そこで、海は改札口の反対側にあることから、海の方へ歩いてみることにしました。で、ついに1軒、磯料理の店を発見。やった!と思ったのもつかの間、時間的に営業をしておらず、夜の営業では帰りの飛行機に間に合わないことが判明しました。 仕方なく駅へ戻り、列車の時間まで、駅前にあった「カルダン」というレトロな純喫茶で時間をつぶし、いつか必ず高鍋のかきを食べに戻って来るぞ、「I'll be back!」と誓ったものです。 そうして苦節13年、とうとう高鍋でかきを食べる時がやって来ました。そう、思い切りそ

豪雪地帯・妙高の冬の風物詩「かんずりの雪さらし」を求めて

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  新潟県妙高市を取材で訪れたのは、2016年2月でした。この地方の冬の風物詩「かんずりの雪さらし」に合わせて、この時期を選びました。 かんずりは、新潟を代表する辛み調味料で、我が家の近くだと、カルディが取り扱っています。これは昔、妙高市新井地区の農家が、唐辛子をすりつぶし、それに塩を混ぜて鍋やうどんの薬味にしていたものです。新井の人たちは、農閑期の寒い時期に造ることから、「寒造里」と言っていたようです。 しかし戦後は、いろいろな調味料が手軽に入手出来るようになり、寒造里を造る家が少なくなりました。そんな風潮を憂い、伝統の味を残したいと、寒造里の商品化に取り組んだのが、㈲かんずりの初代社長でした。現在の社長は、父であるそんな初代社長の泣き落としにあい、かんずり一筋の人生を歩むことになったと述懐されていました。 かんずりには通常の3倍はある専用の大きな唐辛子を使います。これを夏から秋にかけ収穫し、良質なものだけを選別して天然の海水塩で塩漬けにします。年が明け1月の大寒の頃からは雪の上にまき、3日間ほど「雪さらし」をします。これにより雪が塩分を吸い取り、唐辛子のアクが抜けると共に、甘みを増しマイルドな味になるそうです。 雪から掘り起こされたかんずりは、細かく粉砕され、麹、柚子、天然塩と混ぜ合わせ、定期的に手返しをしながら3年間熟成させます。この間に唐辛子の辛味と麹のうま味、柚子の酸味と渋味、塩の風味が程良くブレンドされ、深い味が生み出されます。 正直なところ、我が家では常備していませんが、以前いろいろとお世話になった年上の友人・髙木次雄さんは、かんずりを重宝されていました。農家の方から借りた野田市郊外の古民家「風庵」で、囲炉裏を囲んで会食する時も、必ずかんずりが調味料として登場しました。栃尾のあぶらげをさっと焼いて、かんずり醤油をつけて食べたり、鍋の時もだしにかんずりを溶いて食べたり、なかなか自己主張の強い脇役ぶりを見せてくれました。 妙高では、鮎正宗酒造も取材させてもらいました。鮎正宗酒造は明治8年創業で、かやぶき屋根の建物の下からは、酒の原料となる柔らかな水が、こんこんと湧き出ていました。この辺りは豪雪地帯・妙高の中でも特に雪が多く、それらが伏流水となって湧き上がっているのです。この湧き水を口に含むと、まろやかな甘さを感じます。典型的な軟水で、鮎正宗酒造はそれを仕込