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筑前の小京都・秋月を歩く

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秋月城 大手門だった黒門 以前、まだ高校生だった長女のリクエストで、映画『ラストサムライ』のDVDを買ってあげたことがあります。なぜ、欲しがったのか分かりませんし、実は買ってから長女が見た気配もありませんでした。私自身は特に興味はなかったのですが、せっかく買ったのだからと、時間のある時に再生してみました。それは、明治初頭の日本を舞台にした映画でした。 その頃、明治新政府に強い不満を持っていた士族の反乱が相次ぎました。まず、1876(明治9)年10月24日に熊本県で「神風連の乱」が起きます。するとそれに呼応して、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こります。そして、翌77年には熊本、宮崎、大分、鹿児島各県において、西郷隆盛を盟主に士族反乱としては最大規模かつ国内最後の内戦となった西南戦争が起こりました。映画は、このあたりを題材に展開されていました。 秋月城裏手の長屋門 秋月の乱の舞台・秋月は、朝倉市の郊外、古処山の山懐に抱かれた小さな城下町です。鎌倉時代に原田種雄(たねかつ)が、幕府から秋月荘を賜り、秋月氏と称して古処山に山城を築いたのが始まりです。その後、福岡黒田藩の支藩となり、幕末まで秋月黒田藩の城下町として栄えました。 秋月の乱では、秋月の士族約250人が、反政府の挙兵をしました。しかし、間もなく鎮圧され、士族たちは仕事を求めて秋月を去って行きました。また、商人たちも秋月の店をたたんで他所に移り、「秋月千軒のにぎわい」と言われた城下町秋月は、1900年代の初めには戸数、人口共に半減。城跡や武家屋敷の石垣だけが、往時を物語る、山間の静かな城下町に変わりました。 目鏡橋  ◆ 秋月の取材には、印刷会社の担当者・酒井さんが同行してくれました。と言うのも、彼の生まれ故郷の近くだったため、実家の車で案内役を買って出てくれたのです。 秋月は、朝倉の中心街から北へ約7km。四方を筑紫山系に囲まれた小さな盆地で、その中央を東から西へ野鳥川が流れています。町並みに入る直前には、この野鳥川に架かる石造りのアーチ橋が見えてきます。 この橋は1810(文化7)年、秋月藩が長崎警護を務めていた縁で、長崎の眼鏡橋と同じ石工を招いて架橋されました。当時は「長崎橋」

自然豊かな伊賀の隠れ里 - 名張

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荷担滝 「伊賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者です。私の場合、子どもの頃から、伊賀イコール忍者と連想していたように思います。『少年サンデー』に連載されていた「伊賀の影丸」辺りが、そういうすり込みの元になったのかもしれません。 ただ、取材を計画した名張が、忍者の里だとは思っていませんでした。伊賀忍者の名前があまりにも強く、忍者と言えば、お隣の伊賀しか頭になかったのです。 そのため、取材に同行して頂いた方たちから、百地三太夫の屋敷があるけど寄りますか、と聞かれても、とっさに返答出来ませんでした。ところがどっこい、伊賀忍者の祖とも言われる百地三太夫(百地丹波)は名張の人で、現在も子孫の方が住んでいるというのです。 百地三太夫と言えば、伊賀忍出身のアウトロー石川五右衛門や、講談や立川文庫の世界では真田十勇士の一人霧隠才蔵の師ということになっています。ちなみに、水戸黄門に出ていた風車の弥七も伊賀・名張の忍者で、元義賊という設定だったようです。 現在、プロゲーマーとして活動する百地祐輔さんも、百地一族の末裔とされています。実家のある愛媛県西予市の祖母の墓には、三太夫と同じ「七曜星に二枚矢羽根」の紋が刻まれているそうです。 百地三太夫屋敷 そんな忍者たちが修行をしたと言われているのが、 赤目四十八滝 です。四十八というのは、数が多いという意味らしく、相撲の四十八手と同じことのようです。特に有名なのが「赤目五瀑」と呼ばれる五つの滝で、中でも「荷担滝」が、赤目四十八滝の最高峰と呼ばれています。 ところで名張は『日本書紀』には「夜半に及びて隠の郡に到り……」と書かれ、「隠」の文字が使われています。古語の「隠(なばり)」に由来するもので、名張が山間の底に隠れて目立たないことから、そう呼ばれたのではないか、と言われています。 日の当たらない谷間の渓谷は、そんな隠れ里の雰囲気を保ち、今にも岩陰や木立の陰から、カムイや影丸が、飛び出してきそうな錯覚を覚えます(ハットリくんでは、いけません)。 伊賀忍者の携帯食だった「かたやき」 実は名張へ取材に行った当時、大学時代の友人が地銀の名張支店におり、夜、一緒に飲みました。ある時、その彼から携帯にメールが入りました。  友:「お元気で

北前船が行き交った最北の城下町 - 松前

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松前城 松前町は北海道最南端。道内唯一、また日本最北の城下町として知られます。 松前までは、函館空港から約100km。レンタカーでずっと下道を走るため、2時間半ほどかかります。そんな中、途中でかなりゆっくり走る軽トラに追い付きました。しかし、追い越し禁止区域が続いていたため、軽トラに合わせて走行。30分ほどその状態が続き、取材先との約束の時間に間に合うか、やきもきし始めた頃、やっとその車が曲がってくれました。ところが、ホットしたのもつかの間、少し走ったところで、同じ型の軽トラに追い付きました。デジャブ? 松前取材は、そんな波乱のスタートとなりました。  ◆ 松前藩の初代藩主は蠣崎慶広(かきざきよしひろ)。豊臣秀吉から蝦夷地島主の朱印状と志摩守任官を得、将軍となった徳川家康からも蝦夷地の支配権を認める黒印状を得ました。そしてこれを機に、居城地の地名松前(アイヌ語の「マツオマナイ(半島)」)に姓を改め、藩を形成しました。 しかし、当時の北海道は米がとれません。そのため、大名知行権は石高による領内支配権ではなく、蝦夷地交易の独占権でした。当然、藩士にも米を与えることは出来ません。そこで、松前藩では知恵を絞り、米の代わりにニシンを主体にした海産物を与えることにして、ニシンの漁場を「場所」と称し、米の石高に換算して支給しました。 と言っても、藩士に場所の管理が出来るはずもなく、場所請負人として、近江商人が登場します。近江商人たちは漁場経営に当たる他、アイヌとの交易も行いました。こうして得た松前の海産物や、アイヌの珍しい品物を京都や大坂に運んで売りさばき、米・味噌・醤油・呉服・漁具などを松前に運びました。この動きはやがて、近江商人の雇われ船頭を務めていた北陸の船頭たちが、北前船の船主に成長して加速することとなります。 イカ釣り船 松前藩は領内の交易港として、松前・江差・箱館に限定し、各湊に沖の口番所(役所)を置きました。蝦夷地に往来する船は必ずこの三つの湊のいずれかを経由しなければならず、各番所では交易船から税金を徴収。これにより、当初の藩財政の不安定さも解消しました。 また、文化面でも京の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃、松前に運ばれたと言われています。逆にアイ

愛媛県南部の初盆行事 - 卯之町で出会った盆提灯

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盆灯籠(卯之町の光教寺にて) 今日は送り火ですね。と言っても、私も家内も東京生まれ、東京育ちなので、以前は7月にお盆をしていました。 ただ、迎え火、送り火のやり方は変わりません。迎え火は13日の夕方、送り火は16日の夕方に、玄関前で焙烙(ほうろく)と呼ばれる素焼きの平皿におがらをのせて燃やします。以前は、きゅうりとなすに割り箸を刺して、馬と牛を作っていましたが、最近はそこまではやっていません。 で、これがスタンダードだと思っていたのですが、実際は地域によって、だいぶ異なるようです。そもそも、今住んでいる埼玉県の東部でも、皆が皆、玄関前での迎え火、送り火というわけではないみたいで・・・。 卯之町の伝統的な美しい町並み だいぶ前のことですが、お盆に家内の実家がある茨城県の古河市へ行き、その帰りに、庄和町(現在は春日部市)の辺りを車で走行している時、提灯に火をともして歩いている人たちを見ました。最初は何だか分からず、不思議に思ったのですが、すぐにお盆と結び付き、ご先祖様を自宅からお墓へ送って行くのかなと想像しました。 その後、数年が経った8月13日に、市内を車で走っている時、火の入っていない提灯を持って、お寺に入っていく人たちを見掛けました。ははあ、ご先祖様を迎えに行くんだなと思い、前に見たご先祖様の送迎が、庄和町特有のものではなく、少なくとも埼玉県東部では、一般的に行われているのを知りました。郷に入っては郷に従えと言いますが、我が家の菩提寺は水戸なので、今も変わらず、玄関前での迎え火、送り火を続けています。 ところで、2年前の8月後半に、愛媛県西予市を取材で訪問した際、卯之町にある光教寺で、白い灯籠のようなものが並んでいる光景に出会いました。お盆の時期は過ぎていますが、お盆にまつわる風習なのではと思い、調べてみると、やはり盆灯籠であることが分かりました。 西予市も含めた愛媛県南部では、初盆行事として、盆灯籠を飾ります。初盆を迎えた家は、8月1日の灯し始め(とぼしはじめ)までに灯籠を飾って灯りをともし、夕方に自宅の庭先や玄関先で迎え火をたいて、先祖の霊を迎え入れるそうです。 1日に先祖の霊を迎えるのは、愛媛だけの風習ではなく、もともと「釜蓋朔日」(かまぶたついたち)と言って、陰暦の7月1日は地獄

私のルーツ旅その二 - 新城編

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四谷の千枚田 昨日のブログ( 私のルーツ旅その一 )に書きましたが、我が家の遠い祖先は、江戸時代に、2代将軍徳川秀忠の命により水戸家付家老として、水戸へ赴任しました。 水戸にやって来たのは、1618(元和4)年のことで、家老に任命されたのは鈴木重好でした。重好は、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場した井伊谷三人衆の一人、鈴木重時の子どもで、重時が1569(永禄12)年に戦死後、11歳で家督を継ぎました。その後、重好は井伊直政(重好とは従兄弟)に付けられ、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは、一番槍の手柄を挙げたそうです。 ご先祖が築いた柿本城の跡 1590(天正18)年、徳川家康の関東入りに伴い徳川四天王の筆頭・井伊直政は上野国(現在の群馬県、栃木県)の箕輪城主となり、重好は祖父の鈴木重勝(井伊直政の曽祖父)と子の重辰と共に箕輪城に入りました。そして、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは、重好は先方として井伊直政の戦功を助けました。 直政の死後、重好は、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。1603(慶長8)年、征夷大将軍となった徳川家康の命を受け、井伊直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。ただ、井伊直政の没後、井伊家は統制がとれなくなり、家中騒動が勃発。家康のはからいで重好は隠居となり、家督は子の重辰が継ぎました。 その後1618年になって、上野国の安中で隠居生活を送っていた重好は、秀忠から水戸行きを命じらることになったわけです。この時、重好は、孫の長松丸(鈴木重政)を伴って出仕しました。子の重辰は、彦根藩で家老を務めていましたが、1634(寛永11)年に江戸で急死。重好は、その前年の1633年に今度は本当に隠居し、家督は、孫の重政が養子となり継承。我が家は、その重政の孫の代に本家から枝分かれした家系になります。 昨日のブログは、水戸以降の話でしたが、今日は家譜の最初に記されている鈴木重勝までさかのぼります。 鈴木重勝が再興した満光寺 鈴木重勝は、1503(文亀3)年、三河国足助庄酒呑(しゃちのみ)で生まれました。1524(大永4)年に遠州掛川に移り、その後遠州二俣(現在の静岡

私のルーツ旅その一 - 水戸・常陸太田編

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お盆なので、ルーツ絡みの旅をしてみます。 我が家の菩提寺は、茨城県水戸市の 薬王院 という天台宗の寺です。平安時代に、桓武天皇の勅願によって伝教大師最澄が創建したと伝えられており、1400年近い歴史があります。本堂は重要文化財で、仁王門と本尊の薬師如来、十二神将像なども県の文化財に指定されています。 また、仁王門の右手に五輪塔がありますが。これは、水戸藩初代藩主頼房の二男で、光圀の兄にあたる松平亀千代丸の供養のために建立された石塔です。亀千代丸は4歳で早逝し、薬王院に埋葬されましたが、後に光圀が頼房の遺志を受け継ぎ、常陸太田の瑞龍山を水戸徳川家累代の墓所と定め、墓を改葬しました。その際、五輪塔は土中に埋められたらしく、1971年に境内の杉の木を切った際、その下の土中から発見され、復元されたそうです。 東日本大震災での倒壊から修復してもらった薬王院のお墓 この瑞龍山は現在、管理上の理由で一般には公開されていませんが、私の曽祖父が晩年に墓守をしていたことがあるらしく、個人的に気になる場所となっています。 曽祖父は、幕末の人で、1838(天保9)年に生まれ、1903(明治36)年に没しています。幕末の水戸は、保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争など、藩内でさまざまな問題が起きていました。 加波山神社 曽祖父は、1863(文久3)年に、一橋慶喜の上洛に随行して京都に入り、在京の藩士(本圀寺勢)らを率いて皇室の守衛や慶喜の補佐に当たりました。その後、いったん帰藩して執政、再上洛して京都守衛などを務めた後、1868(慶応4)年に藩政回復の勅を受けて帰藩し、水戸城に入りました。 この時、保守派の首領には、本家の鈴木石見守が就いており、片や分家の曽祖父は、朝廷の勅書を奉じ、隊長として保守派追討軍を率いることになってしまったようです。 維新後、曽祖父は1871(明治4)年に大参事(今の副知事)に任じられました。また、水戸徳川家の崇敬が厚かった加波山天中宮が、明治の神仏分離で、 加波山神社 に改めた際、初代宮司に任ぜられ、加波山中腹の神社で明治7年から9年まで3年間、奉仕をしたようです。その後、世俗を離れて常陸太田の瑞龍山の水戸徳川家墓所の墓守として

築地界隈を歩いてみる - 銀座1〜4丁目(東銀座)編

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江戸幕府の成立後、幕府は江戸の町の整備を行いました。1回目の天下普請では、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められ、1604(慶長9)年に日本橋から品川に至る東海道が整備されました。その後、12年に2回目の天下普請が行われ、駿府にあった銀座役所が移転してきたことから、その土地に銀座の名が付きました。 江戸の街路網は北東から南西に向かう東海道(中央通り)を軸に設計されましたが、関東大震災後に復興都市計画として、大規模な再整備が行われました。その目玉は、銀座を囲む大通りの整備でした。まず、中央通りの東側に、新たな南北軸として昭和通りが設けられました。また、中央通り、昭和通りと直交する大通りとして晴海通りが、銀座の西側には外堀通りが整備されました。 これらの街路のうち、中央通りと晴海通り沿いには現在、日本はもちろん世界的な高級店が軒を連ね、日本を代表する商店街になっています。そして「銀座」の名は一つのブランドになり、「○○銀座」を名乗る商店街が全国に登場。全国商店街振興組合連合会によると、その数は約350件に上るそうです。 ちなみに、商業地として日本一地価の高い場所は銀座4丁目にある山野楽器ですが、他に2位(5丁目)、3位(2丁目)、4位(7丁目)、8位(6丁目)、9位(4丁目)も銀座で、トップ10のうち6カ所を銀座が占めています。 銀座は現在、1丁目から8丁目まであり、北は八重洲、京橋、八丁堀、南は新橋と接しています。また、西は有楽町、丸の内、東が築地と新富になります。今日の舞台は関東大震災により整備された、昭和通りの東側と晴海通りの北側にある銀座1丁目から4丁目のエリアです。 昭和通りの東は、以前は木挽町と呼ばれる地域でした。しかし、1951(昭和26)年に三十間堀川の埋め立てが始まり、銀座と地続きとなることから銀座東と改名。その後、69年に銀座に編入され、昭和通りの東も銀座という地名になりました。ただ、中央通り沿いの華やかさに比べると、昭和通りの東はだいぶ落ち着いた雰囲気で、人通りもさほど多くありません。 銀座1丁目にある「酒の駅」麹屋三四郎 そんな地域の起点は、「築地界隈を歩いてみる」のスタート地点でもあった、東京都中央区築地1丁目1番地1号の中央区役所にしましょう。中央区役所から銀

築地界隈を歩いてみる - 新富・入船編

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「萬金」の中ラーメン・イカのせ 今日は、築地と八丁堀に挟まれた、新富と入船が中心となります。新富は、東京メトロ有楽町線新富町駅が真下にある、首都高速都心環状線の新富町出口を挟んで、築地1丁目、2丁目の向かいになります。こちらが南側で、北隣は八丁堀です。また、西は首都高速都心環状線の本線を挟んで銀座1丁目、東は新大橋通りを挟んで入船と接しています。東隣の入船は、南が築地3丁目と明石町、北が八丁堀で、東は湊と接しています。 築地も含め、この辺りは江戸時代、武家屋敷が置かれていました。しかし、明治維新によって大きく様変わりします。1869(明治2)年、隅田川河口の築地鉄砲洲(今の湊、明石町)に、外国人居留地が設けられたのです。 豊原国周「開化 三十六會席」1878(明治11)年 貿易のために門戸を開いた横浜や長崎、函館と違い、築地には、公使館や領事館が置かれました。また、宣教師や医師により教会や病院(現在の聖路加国際病院)も建てられました。更に、青山学院や立教学院、明治学院、女子学院、女子聖学院などキリスト教系の学校を中心に、慶應義塾や雙葉学園など数多くの学校が、ここを発祥の地としており、築地居留地は文教都市としての役目も果たしていました。 この他にも、西洋の技術を取り入れた靴や印刷などの工場も誕生。特に、多くの外国人が居住することになって、靴の需要が高まったため、1870(明治3)年、入船に日本最初の靴工場が出来ました。同地には、「靴業発祥の地」の碑が建てられており、この工場が創業を開始した3月15日は、「靴の記念日」になっています。また、入船や湊辺りは、中央区内随一の印刷関係の町工場が集中するエリアで、新大橋通りを挟んだ新富には、日本印刷会館もあります。 月岡芳年「会席別品競べ」1878(明治11)年 新富は、外国人居留者を目当てに造られた新島原遊廓が元になっています。新島原というのは、京都の島原遊郭にちなんで名付けられました。新しい遊郭には、千住宿から13軒、内藤新宿から5軒、春日部宿(埼玉)から4軒、品川宿と板橋宿からそれぞれ3軒が移ってきたそうで、だいぶ大きな遊郭だったことが推察されます。しかし、期待したような集客が得られず、1871(明治4)年に取り払いを命じられ、遊廓は新吉原、根津に移転し、新島原は新富町1丁目から7丁

築地界隈を歩いてみる - 築地3〜7丁目編

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今日は築地3丁目から7丁目までを駆け足で回ります。 3丁目は、新大橋通りを挟んで2丁目の向かい側になります。北端は築地川公園のわんわん広場という公園です。ドッグランがあるので、そう呼ばれているんだと思いますが、公園には3オン3が出来るバスケットコートもあります。この公園から晴海通りまでが、3丁目になります。 3丁目一のスポットは 築地本願寺 です。もともとは1617(元和3)年に、西本願寺の別院として浅草近くの日本橋横山町に建立されました。しかし、1657年に「振袖火事」という都市伝説的な話を生んだ、有名な明暦の大火で本堂を焼失。その際、再建のために幕府から与えられたのが、八丁堀沖の海上でした。 そこで佃島の門徒が中心となって、海を埋め立てて土地を築き、1679年に本堂が建立されました。これが「築地」という名前の由来になっています。その後、1923年の関東大震災で再度本堂を焼失。そして34年に再建し、現在の本堂の姿になりました。 その本堂は、ちょっと見、日本のお寺とは思えない外観をしています。インドなどアジアの古代仏教建築をモチーフとした建物は、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授で建築史家の伊東忠太博士による設計で、ステンドグラスや動物の彫刻などとても特徴的な本堂になっています。 また、本堂の中には、仏教寺院とは思えないもの、パイプオルガンがあります。そして、毎月最終金曜日には、パイプオルガンによるランチタイムコンサートが開催されます。本願寺の中には、「紫水」というレストランもあり、精進カレーなどが食べられます。お寺で精進カレーを食べた後、パイプオルガンの演奏を聴いて、優雅な一時を過ごすことが出来るわけです(※新型コロナウイルス感染症の影響で、4月以降は残念ながら中止しているようです)。 鶴の友が飲めるさらしなの里 3丁目で、もう一つ紹介しておきたいのが、1899(明治32)年創業の手打ちそばの店「 さらしなの里 」です。築地に店を開いたのは1967(昭和42)年で、場所はちょうど私が働いていた築地細田ビルの裏側でした。その後、2003(平成15)年に現在地に移転。場所が移っても、事務所からは歩いて2、3分だったので、よく食べに行きました。 昼時には、「昼天もり」というランチメニュー