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中世ヨーロッパの町並みを思わせる石垣の村

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高千穂の宿を出た私は、一路、日之影町を目指しました。日之影の目的地は、「石垣の村」と呼ばれる戸川の集落です。 少し前の記事( ANAの機内誌をきっかけに見つけた、石垣の集落 )で、愛媛県愛南町外泊にある「石垣の里」を紹介しました。外泊は、台風や冬の強い季節風から守るため、家の周りを石垣で囲んだ集落でした。 一方、日之影町戸川地区のものは、そうした気象条件から出来た石垣ではないようです。また、外泊は、集落の成り立ちが分かっていますが、戸川の歴史は、よく分かっていないとのことでした。 高千穂の宿から、日之影の石垣の村・戸川までは、「神話街道」と呼ばれる国道218号から、五ケ瀬川に沿って走る県道237号を通り、五ケ瀬川に日之影川が合流する地点を左折。日之影キャンプ場の看板を目印に進みます。ここから日之影川に沿って8kmほど走ると、左手に石垣の集落が見えてきます。※今年8月に九州中央自動車道の一部である高千穂日之影道路が開通したことで、高千穂から日之影のアクセスはこの当時より便利になっています。 さて戸川は、総戸数7戸の小さな集落で、愛南町の外泊のように宅地が石垣になっているのはもちろん、蔵や塀なども石造りで、まるで中世ヨーロッパの町並みを思わせる独特の景観を見せています。先述の通り、戸川地区の歴史は定かではないようですが、残っている記録によると、最も古い石垣は、江戸後期の嘉永から安政年間に築かれたものだといいます。 その記録に出ている石工の坂本寅太郎や、藤本嘉三郎らは、江戸城の修復にも携わっています。江戸城は、1855(安政2)年に起きた安政大地震で、石垣や櫓などが、大きな被害を受けており、時期的にその修復に招かれたのでしょう。 現在、戸川に残っているのは7戸ですが、石垣が積まれた頃は9戸でした。そして、大正時代になって、牛馬が通れる道が出来るまで、それらの家が、外部とは隔絶した自給自足の生活を送っていたそうです。 最も大きな出来事は、1920(大正9)年に始まり25年に完成した七折用水の開通でした。この用水路は、大分県豊後大野市との境にある傾山(標高1605m)を源流とする日之影川の上流部・見立地区で取水し、七折地区の山腹を縫って下流へと流れています。取水口から7kmほどの所にある戸川地区でも、この用水路により、石積みの技術を発揮して棚田が作られました。 その後、192

天孫降臨神話に彩られた神々の里

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阿蘇中岳の火口近くまで行った後、次の目的地・高千穂まで移動しました。と言っても、取材地の日之影に適当な宿が見つからず、中継地として高千穂に泊まることにしたものです。ただ、単なる中継地ではもったいないので、まず高千穂峡に寄ってみました。阿蘇から高千穂峡まで、国道325号で約53km、所要時間は1時間とちょっとでした。 一昨日の鍋ケ滝の記事で、「阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるもの」と書きましたが、実は高千穂峡も、阿蘇山の火砕流がもたらしたものです。高千穂峡の場合、9万年前の噴火とその3万年前、つまり約12万年前の噴火による火砕流が、五ケ瀬川を浸食して出来た浸食峡谷です。 峡谷は、高い所で100m、 平均80mの断崖が、東西に約7kmにわたって続いています。高千穂峡にある真名井の滝は、日本の滝百選になっている名瀑で、高千穂峡のシンボルともなっています。 この高千穂峡には、約1kmの遊歩道が整備され、崖の上から峡谷や滝を眺められます。また、真名井の滝の近くには、貸しボートもあり、水上から滝を始め柱状節理の断崖を見上げることも出来ます。 私が行ったのは、晩秋だったので、深い緑の渓谷というイメージとは違っていたものの、背景が紅葉しており、それはそれできれいな風景でした。この晩秋というのは、高千穂で夜神楽が始まる時期でもあります。しかも、私が高千穂に行った日は、ちょうど高千穂神社の夜神楽まつりにぶつかり、夜神楽を鑑賞することが出来ました。 毎年11月22日と23日の2日間、高千穂神社の神楽殿で、「神話の高千穂夜神楽まつり」が開催されるそうで、タイミングばっちりでした。で、宿で夕食を取った後、高千穂神社へ向かいました。宿では、夜神楽まつりを見に行く宿泊客のために、バスを出してくれ、行きはそれを利用させてもらいました。 高千穂の夜神楽は、神楽宿と呼ばれる民家や公民館で、夜を徹して三十三番の神楽を氏神様に奉納します。町内20の集落で行われますが、例祭日は集落によって異なり、毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、それぞれの地域で奉納されます。 ただ、高千穂の夜神楽は、神事ですし、期間も決まっているので、一般の観光客はなかなか見ることが出来ないため、いつでも神楽を広く鑑賞出来るようにと、毎日高千穂神社境内の神楽殿で「高千穂神楽」が行われています。毎日夜の8時から1時間

「火の国」熊本のシンボル・阿蘇山

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熊本 - 小国 - 阿蘇 - 高千穂 - 日之影の取材行3回目です。小国町の鍋ケ滝の撮影を終えた後、次なる目的地・高千穂までは、大観峰からミルクロードで、阿蘇の外側を通るルートが最短ですが、せっかくなので、阿蘇山に寄って行くことにしました。2013年当時は、阿蘇山ロープウェーが運行しており、まずはそこを目指しました。 阿蘇山は「火の国」熊本のシンボル的存在で、世界有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持っています。今も盛んに噴煙をあげる中岳、1592mと阿蘇最高峰の高岳、鋸歯のような山容が特徴の根子岳に、杵島岳、烏帽子岳の阿蘇五岳が東西に連なります。その周りを、高さ700〜800mの外輪山が南北約24km、東西約18kmにわたって囲んでカルデラを形成しています。 そんな壮大なスケールを実感するためには、外輪山からの展望がお勧めです。鍋ケ滝から大観峰までは約20km、30分弱で着きます。大観峰展望台に立つと、眼下の谷に水田や町が広がり、その向こうに阿蘇五岳がどっしりと横たわります。その迫力ある景観には、圧倒されるばかりです。 特に見どころが集中しているのは、阿蘇山の西側です。大観峰から阿蘇山ロープウェーを目指すと、ちょうどそれらの絶景ポイントを通ります。すり鉢を逆さにしたような米塚は、緑の山肌が美しい寄生火山です。烏帽子岳の北側には、火口跡が大草原となった草千里ケ浜が広がります。夏には放牧された牛馬が草を食む、のどかな高原の趣となります。 外輪山やカルデラ内部にある中央火口丘の広大な草原は、ほとんどがススキとネザサの群落です。私が行った晩秋は、特にススキの穂が光に映え、非常に美しい景観を見せてくれました。 この風景は、阿蘇山の度重なる噴火やそれに伴う降灰によって生み出され、更に放牧や野焼きなど、人の手が加わって作り出されました。いわば自然と人間の共生によって維持されてきた草原で、歴史的産物と言っても過言ではありません。 阿蘇では毎年3月中旬に野焼きが行われます。前の年の枯れ草を焼却し、森林化の最初の段階である低木の生長を抑え、また地下茎が発達して火に強いイネ科の植物の比率を高めることなどを目的としています。野焼き直後の草原は一面真っ黒ですが、しばらくすると緑の草原に変わります。その頃にはあちこちに牛が放牧されます。また夏には、冬の牛馬の餌として背の高い草が刈り取られます。

裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝

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前日に熊本に入って、市内で取材を一つ済ませた後、次の日の撮影に備え、大津町まで移動しました。そして翌日、ミルクロードと国道212号を使って、小国町の鍋ケ滝へ向かいました。泊まったホテルから鍋ケ滝までは、ちょうど50kmぐらい、車で約1時間でした。 で、鍋ケ滝まであと少し、たぶんあと1分ぐらいの所で、謎の案山子群像を発見。ミーハーな私は車を停め、パシャリと1枚シャッターを切ってきました。しかも、個人宅の玄関先にいた案山子たちだけではなく、他にも案山子が出没。後で、Google Mapのストリートビューで確かめると、ここのお宅の少し先にいた、釣りをする案山子には、ボカシが入っていました。完全に人間だと思ったんでしょうね。Googleくん、だまされてますよ(笑・・・。 ちなみに、最近は更にバージョンアップしているようです。「小国町 案山子」で検索すると、結構ヒットします。お断りしておきますけど、新潟県長岡市の小国町で「おぐにかかしまつり」が行われているらしく、そちらの検索結果もかなり出て来ます。Google Mapのストリートビューで確認する時は、鍋ケ滝を目的地に、出発地を坂本善三美術館にしておくと、蓬莱川を渡ってすぐの辺りで、案山子群像のお宅があります。 で、案山子たちから鍋ケ滝の駐車場までは約350mです。2015年に、駐車場や滝までの遊歩道を整備して有料公園化したそうです。入園料は、大人(高校生以上)300円、子ども(小・中学生)150円、小学生未満無料とのことです。 私が行ったのは、その2年前の2013年の晩秋でしたが、その時も駐車場はありましたし、売店もありました。それに、滝までの階段もあって、よく整備されていると思ったのですが・・・。 鍋ケ滝は、落差は10mほどしかありませんが、幅は約25mあり、周囲が木々に覆われているため、木漏れ日の中を水が流れ落ちる様が、とてもフォトジェニックです。更に、最大の特徴は、滝の裏にかなり広いスペースがあり、裏からも滝を見ることが出来るところです。 阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるものです。前に、裏磐梯の記事を書いた際、1888年の大噴火によって、今の裏磐梯が出来た、まさに「天地創造の世界」と書きましたが、阿蘇の規模は、その磐梯山を大きく上回っています。噴火による火山灰は、なんと北海道まで達したといいます。また

熊本と聞いて思い浮かぶ事ども

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2016(平成28)年4月の熊本地震から5年、修復が終わった熊本城天守閣の公開が、6月28日から始まっています。とはいえ、このコロナ禍では、県外からはおいそれとは行けず、しかも完全復旧は2037年と、まだ16年も先とのことで、個人的には生きてるうちに見られるか、という状況になっております。 さて、この熊本城、加藤清正が築いた城です。天守閣前の2本の銀杏は、城の完成を記念して植えられました。その時、清正は、銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。 慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。 熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったそうです。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも称され、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。 実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。銀杏も、実が保存出来るという発想で植えられたという説がありますが、この銀杏、実は雄木で、実はならないそうです。たぶん、後世の俗説なんでしょうね。 この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。 1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。 熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失してしまいました。そしてこの時、銀杏も一緒に焼けてしまいます。現在の銀杏は、焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。 また、3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は、1960(昭和35)年に復元されました。今回、いち早く復旧した天守閣は、復興のシンボルとし

歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄

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この2日、大村、東彼杵と長崎街道に触れながら記事を書いてきました。順番でいくと、今日は嬉野になるのですが、嬉野については1年以上前に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いてしまったので、今回は嬉野はパスして、次の武雄についてになります。計画性のないブログなので、こういう時に困ってしまいます・・・。 さて当初、嬉野宿から小倉へ向かう長崎街道は、多良街道の起点で、有明海の干満差を利用した河港都市でもあった塩田宿(嬉野市)を経由する南回りのルートでした。しかし、塩田川は度々氾濫し、往来に支障を来すことが多かったため、1705(宝永2)年に嬉野から柄崎宿(武雄市)を経由する北回りルートがつくられました。 武雄は、嬉野と同様に、古くからの温泉として知られ、いずれも神功皇后にまつわる伝説があり、また奈良時代の『肥前国風土記』にも、それぞれの温泉が出てきます。武雄の神功皇后伝説は、皇后が剣の柄で岩を一突きしたら温泉が湧き出たというもので、そこから柄崎と呼ばれるようになったとされます。 その後、柄崎はいつの頃からか塚崎と書くようになったようですが、武雄の名については、明治政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』によると、肥前佐賀藩に「武雄村」の名があり、幕末には一つの村になっていたようです。その後、1889(明治22)年の町村制施行では、武雄村の柄崎などの集落によって武雄町が発足しています。 武雄のシンボル的な山・御船山の北東麓にある武雄神社は、735(天平3)年の創建と言われ、武雄の名はこの神社に由来するそうです。で、その武雄神社の「武雄」については、諸説あるようですが、武雄神社では、武内宿禰を主祭神に、その父である屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)などを合祀しているので、武雄心命のお名前を頂戴したのかもしれませんね。 この武雄神社とは反対側の御船山南西麓には、御船山楽園という庭園があります。15万坪という広大な大庭園で、江戸時代の武雄領主鍋島茂義の別邸跡です。 御船山の断崖絶壁に向けて、20万本ものツツジが植えられ、開花時期には広い園内が一面、ツツジのジュータンを敷き詰めたようになります。また、秋の紅葉時には、ライトアップが行われ、御船山楽園の池には灯篭が浮かび、幻想的な世界が展開します。 武雄はまた、焼き物の産地としても知られ

海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町

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昨日の記事に続いて、長崎街道絡みです。長崎街道は、江戸初期に整備された脇街道の一つで、鎖国の中、唯一外国に門戸を開いていた長崎から、西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として、重要な役割を果たしていました。長崎から小倉まで全長57里(約228km)の間に、25の宿場が置かれていました。 昨日の大村市には、大村宿と松原宿が置かれていましたが、今日の東彼杵町には、彼杵宿と千綿宿がありました。ただ、千綿宿は、長崎街道25宿には入っていないので、彼杵宿と松原宿の間宿(あいのしゅく)だったのだろうと思います。松原宿-彼杵宿間は9kmほどしかありませんが、千綿宿の手前、江ノ串川を渡った辺りから、いったん海岸を離れて山道を行き、現在の千綿駅付近でまた海沿いに降りてきます。千綿付近の風景と言われる、シーボルト『日本(NIPPON)』の挿絵を見ると、海の近くが田んぼか畑になっていたので、街道は山側に迂回したのでしょうか。で、ここらでちょいと休憩しては、といった感じで茶店を出したのが、千綿宿の始まりだったのかもしれませんね。 今は、海岸線に国道34号が、また山側に長崎自動車道が出来ています。また、国道34号の内側の海沿いには、JR大村線が走っており、松原、千綿、彼杵と、長崎街道の宿駅と同じように、鉄道の駅が設置されています。このうち千綿駅は、海の見える駅として知られ、レトロな木造駅舎と共に、人気を集めています。 大村線は、1898(明治31)年に、九州鉄道の長崎線として開業。1907(明治40)年に鉄道国有法により国有化され、長崎本線となった後、1934(昭和9)年に、佐世保市早岐と諫早間を長崎本線から分離して、大村線となりました。 千綿駅は、1928(昭和3)年の開業で、現在の駅舎は、開業当時の駅をイメージして、1993(平成5)年に建て替えられたものです。ホームは、大村湾の海岸線に沿って設置されているため、カーブしています。このホームからは、さえぎるものなく海を見ることが出来、潮の香りも漂ってきます。 駅は無人駅で、私が行った2012(平成24)年当時は、何もありませんでしたが、16年から、東彼杵町のまちおこしグループ「長咲プロジェクト協議会」が管理業務を担当。駅構内に「千綿食堂」をオープンさせているそうです。 で、また長崎街道に戻りますが、千綿宿から次の彼杵宿までは、現在の

長崎を開港したキリシタン大名の本拠地

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大村市には、長崎県の玄関口・長崎空港があります。空港は、大村湾に浮かぶ箕島にあって、市街地とは長崎空港連絡橋(箕島大橋)で結ばれています。橋は、県道38号となっており、鉄道はありません。ただ、歩道が設置されており、全長970mの橋を歩いて渡ることも出来ます。また、ハウステンボスとの間には、連絡船もあります。 空港がある大村湾は、四方を陸で囲まれた「ほぼ湖」となっています。そのため、いつも穏やかな波の音が、琴の音に似ているとして、琵琶湖に例えて「琴湖(きんこ/ことのうみ)」とも呼ばれています。 大村湾が、外海とつながるのは、針尾瀬戸と早岐瀬戸の2カ所だけで、いずれも佐世保湾に通じています。針尾瀬戸は、日本三大急潮の一つとして知られ、鳴門と同じように渦潮が見られます。一方の早岐瀬戸は、全長約11km、幅は100m前後の狭い海峡で、早岐瀬戸と大村湾の関係は、一見すると湖に注ぐ川にしか見えません。 そんな大村市は、江戸時代、大村藩の城下町として栄えました。大村氏は、もともとこの地方の領主で、豊臣秀吉の九州平定では秀吉に従って領地を安堵され、関ケ原の戦いでは徳川方について本領を安堵されました。江戸期を通じて、大村氏の転封はなく、長きにわたってこの地を治めることになりました。 大村藩初代藩主・大村喜前の父純忠は、最初のキリシタン大名として知られます。純忠は、1533(天文2)年、大村氏と縁戚関係にあった戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。母が、大村家第16代・純伊の娘であったために、1538(天文7)年に大村氏の養子となり、第18代領主となります。その後、1561(永禄4)年に横瀬浦(現・西海市)、1570(元亀元)年には長崎をポルトガルに開港し、長崎が南蛮貿易の中心地として発展する礎を築きました。 しかし、1588(天正16)年、秀吉が長崎を直轄領とし、1605(慶長10)年には徳川幕府も同様に直轄領としたため、大村藩は、南蛮貿易の利益を失うことになりました。そんな中、純忠の跡を受けた喜前は、1599(慶長4)年に玖島城を築き、三城城から本拠を移し、城下町も整備。城を中心として五つの武家屋敷街を作り、武家屋敷がある本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路を「五小路」と呼びました。今も当時の面影を伝える町並みが残っていますが、特に小姓小路は、藩政時代の雰囲気を感じさ

1年中しめ飾りを外さない中土佐久礼の港町

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四万十の撮影で2連敗を喫した私は、傷心を抱えて帰京することになりました。とはいえ、シラスウナギを求めて夜中に徘徊した上、だるま朝日を狙って日の出前から起きていた働き蜂の私、チェックアウトまでゆっくりしてから、宿を発ちました。 四万十市から高知空港までは約130km、2時間ほどで着けます。しかし、帰りの便が夕方の出発だったので、途中で寄り道を決め込み、ほぼ中間地点の中土佐町で昼食を取ることにしました。 四万十市から中土佐町の久礼までは、国道56号で約67km。下道をゆっくり走っても、1時間半ほどで到着します。久礼は、土佐湾に面した天然の良港で、四万十川流域で生産された物資を、関西方面へ搬出する重要な港の一つとして発展してきました。また、漁港としての歴史も古く、港の周辺は典型的な漁師町になっています。 カツオ船の漁師純平と、その恋人八千代を中心に、土佐の漁師町に暮らす人たちの姿や風土などを描いた漫画『土佐の一本釣り』は、ここ久礼を舞台にしていました。作者の青柳裕介さんは、高知県香南市の出身で、中土佐町に部屋を借り、久礼の漁師たちと酒を酌み交わし、港町の生活に溶け込みながら創作に打ち込んだそうです。 そんな久礼の一角に、観光客の人気スポットとなっている久礼大正町市場があります。明治時代から庶民の台所として賑わってきた市場で、店先には水揚げされたばかりの新鮮な魚介類や、朝どれの野菜などが並びます。 もともとは、明治の中頃に出来た闇市が起源だそうで、港町に暮らす漁師のおかみさんたちが、ヒメイチの炒りジャコを売り始めたのが始まりと言われています。1915(大正4)年、市場の周辺約230戸が焼失するという大火事がありました。その際、大正天皇から復興費が届けられたことに住民が感激し、「地蔵町」という地名を「大正町」に改名し、それ以来「大正町市場」と呼ばれるようになりました。 ランチは、この大正町市場前にある「市場食堂 ど久礼もん」へ。ここは、「海鮮どんぶり」と「なぶらスープカレー」推しのようでした。海鮮どんぶりは、その日に水揚げされた新鮮な魚を使うため、捕れた魚によって盛り付けが変わる丼です。一方の、なぶらスープカレーは、マグロ・カツオ・イカ・シイラに国産野菜を使ったトマトベースの名物カレー。「なぶら」は、漢字で書くと「魚群」となり、意味は・・・漢字の通りですね。 で、私は、なぶら