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琉球王朝時代の軍用道路「真珠道」

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首里城は500年ほど前、琉球王朝時代に建設された木造建築で、正殿は1925年に国宝に指定されました。実は第二次世界大戦前の首里には、首里城を中心に国宝指定の建造物が27もありました。これは京都、奈良に次ぐ数でした。 しかし、これら国宝の多くは、第二次世界大戦の沖縄戦で、すっかり失われてしまいました。1992年に、正殿を始めとした首里城が復元されるまでは、那覇で最も有名な観光スポットと言えば守礼門でしたが、これも戦争で破壊され、1958年に復元されたものでした。 2000年には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されました。世界遺産に指定されている史跡は、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園(以上那覇市)、斎場御嶽(知念村)、中城城跡(中城村)、勝連城(うるま市)、今帰仁城(今帰仁村)の9史跡です。中でも、いちばんの定番スポットは首里城ですが、2019年10月31日、その首里城の正殿など8棟が、火災により全焼してしまいました。 首里城は現在、国を挙げて復興事業が進んでいますが、完全な姿に戻るのは、まだまだ先のようです。それでも、火災があった年の暮れから、園内の約8割が散策可能となり、首里城復興モデルコースも設定されました。これは、多くの来園者に、今まで気づけなかった新しい首里城、首里のまちの魅力により多く触れてもらおうとの趣旨で企画されたもので、A「守礼門・京の内早回り(2コース)」「B首里城一周/首里まちまーい(2コース)」「C首里城公園ビュースポット(1コース)」「D見せる復興見学(1コース)」の6コースが設けられています。 最も短いA-1の30分から、最も長いB-4の150分まで、30分刻みでコースが設営されていますが、この記事では、せっかくなので、最も長い150分のコース4について、ハイライトをご紹介します。首里城公園管理センターが提供しているコースガイドによると、「首里杜館芝生広場」→「守礼門」→「歓会門」→「久慶門」→「銭蔵」→「北城郭」→「東のアザナ外周」→「継世門」→「金城町石畳入口」→「真珠道」→「首里杜館前売店」となっています。 このうち「歓会門」は、首里城へ入る第一の正門で、別名「あまえ御門(うじょう)」と言います。「あまえ」は、琉球の古語で「喜んで迎える」を意味していて、「歓会」

なだらかな草原の中に灌木が点在する天空の広場

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以前のブログ( 福山市民のソウルフード、大衆食堂「稲田屋」さんが閉店 )にも書いたんですが、子どもの頃、同じ東京の小金井市に住んでいた従姉妹(母の妹の娘)は、私より一つ年上で、一人っ子の私にとって、姉のような存在でした。その従姉妹が、広島県庄原市の男性O君と結婚。彼と従姉妹は、安倍前首相と同い年、同じ大学の出身で、卒業後は東京と広島で遠距離恋愛を続けていました。彼は広島市内の会社に就職しましたが、数年後、実家の仕事を継ぐために庄原市へUターン。そのため従姉妹も、結婚を機に、庄原に住むことになりました。 そんな従姉妹夫婦が、結婚して間もないある冬の朝、広島市内のデパートへ買い物に出掛けました。庄原市から広島市の中心までは、90km近くありますが、車は順調に広島市内へ入り、デパートまではあとわずか。しかし、広島の街を走るうち、妙なことに気がつきました。 信号待ちで車が止まる度、道行く人たちが、皆こちらを見てくるのです。ご自慢のワーゲンゴルフではありますが、それほど珍しいわけでもありません。自分たちが、あまりにも素敵なカップルだからかしら。思い切りポジティブな従姉妹は、そう思ったそうです。 しかし、そうではありませんでした。その謎は、デパートの駐車場に車を入れて解けました。車の屋根に高々と雪を積んでいたのです。 広島県は、温暖な瀬戸内から、中国山地の厳しい寒さまで、バラエティーに富んだ気候を持っています。県東北部の庄原市は、西日本では最も寒冷な地域で、市街地でも例年20〜30cmの積雪があり、北部は豪雪地帯に指定されています。 庄原市の北端、島根県との県境にある比婆山連峰は、標高1200m級の山々が連なり、山頂付近は国の天然記念物に指定されているブナの純林に覆われています。最高峰は標高1299 mの立烏帽子山で、主峰比婆山(1264m)は、『古事記』に登場する、国生みの女神伊邪那美命が葬られた「比婆之山」と伝えられています。ブナ林の中にある円丘が、伊邪那美命の御陵とされ、一帯は「比婆山伝説地」として、県の史跡に指定されています。 また、比婆山の西にある吾妻山(1239m)も、人気の登山スポットで、山頂近くには国民休暇村「吾妻ロッジ」があったのですが、新型コロナウイルスの影響などで集客が低迷し、残念ながら最近、営業を終了してしまったそうです。実は私も、この休暇村に泊まったこ

桃太郎伝説が残る吉備国の総鎮守

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以前のブログ( 福山市民のソウルフード、大衆食堂「稲田屋」さんが閉店 )で、私の大好きな漬け物・安芸紫にまつわる話について、「広島県でも、広島を中心とした西部は安芸国、福山を中心とした東部は備後国で、基本別物という噂は本当かも」と書きましたが、この備後国は、もともと吉備国から分割されたものです。 古代において、吉備国は、大和国を始めとした畿内や出雲国と並ぶ勢力を持っていたと言われます。範囲としては、現在の岡山県と広島県東部、それに香川県の島嶼部に兵庫県の西部まで及んでいました。それが、3カ国に分割されたのは、689年のことです。 これは、天武天皇が進めていた律令事業でしたが、686年に天皇が崩御したため、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と皇太子の草壁皇子が事業を継承。3年後の689年の飛鳥浄御原令の発布をもって、備前国、備中国、備後国に分割されました。 で、備後国は、先述した通り、福山など現在の広島県東部、備中国は岡山県西部、備前国は岡山県東部に香川県島嶼部と兵庫県西部の一部という形になりました。当然、いろいろと影響が出ましたが、その一つが、吉備国の総鎮守であった吉備津神社でした。 吉備津神社は、備前国と備中国の境にある吉備中山(175m)の北西麓にあったことから、備中国の一宮となり、分霊が備前と備後それぞれの一宮になりました。備前は、吉備中山の北東麓に吉備津彦神社を、備後は今の福山市新市に吉備津神社を造営しました。備前と備中を分ける吉備中山は、古来、山そのものがご神体とされていたため、吉備国分割後、備前国も吉備津彦神社を山麓に建てたのでしょうね。 ちなみに、1889(明治22)年の町村制施行に伴い、吉備津神社のある吉備中山の北西麓は賀陽郡真金村に、北東麓は津高郡一宮村になります。その後、真金は1960(昭和35)年に高松町に編入合併して高松町吉備津へ改称、一宮は55年に他の村との合併で一宮町となった後、いずれも71年に岡山市へ編入され、現在はどちらも岡山市北区となっています。 そんなわけで、今では同じ岡山市北区、距離にして2kmも離れていない吉備中山の東西に、吉備津神社と吉備津彦神社があります。もとは同じですから、どちらも大吉備津彦命を主神としています。この大吉備津彦命は、桃太郎のモデルとされ、当時、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を退治したと伝

維新の里・萩に春の訪れを告げるシロウオ漁

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萩を訪問したのは、高知市の隣、南国土佐の玄関口・高知空港を抱える南国市の子どもたちと一緒でした。当時、南国市の民間団体が実施していた「オレンジ・ツアー 南国少年のバス」に同行した時のことです。ツアーは毎年、春休みを利用して、南国市内の中学1、2年生を集め、3泊4日の日程で、維新発祥の地・萩と奇勝秋吉台を訪問していました。 萩では史跡巡りが行われ、班ごとにコースを決めて、自転車で回りました。私も自転車を借り、子どもたちと一緒に、あちこちを回りました。 その際、川に船を浮かべ珍しい網で漁をしているご夫婦がいたので、聞いてみると、シロウオを取っているとのこと。使っていた網は、四ツ手網と言って、萩では、毎年2月下旬から3月の下旬にかけて、この伝統的な漁法で、シロウオを取っているそうです。 十文字に組んだ竹に四隅をとめた六畳大ほどの網を川底近くに沈め、潮の流れに乗ってシロウオが川を遡上するのを待ち、群れが網の上を通過する頃合いを見計らって、一気に網を引き上げるというもの。そして、引き上げた網の上を柄の長いひしゃくでポンポンと叩いて、シロウオを集めてすくい取ります。 萩のシロウオ漁は、早春の風物詩として知られ、この時期、「シロウオの踊り食い」を目当てに多くの人々が萩を訪れるそうです。オレンジツアーは、それを狙ったわけではないんでしょうが、季節が重なるため、ツアーを引率していた大人たちは、この踊り食いを楽しみにしていたようです。 で、昼食時、大人たちは、当たり前のようにシロウオを注文。私の分も頼んでくれたまではいいのですが、「こうやって食べるんですよ」と、見本を示してくれた方の喉の奥から、軽やかなうがいのような音が聞こえてきました。たまたまその方が、喉ごしを楽しむのではなく、一度シロウオを喉にため込むタイプだったのでしょうが、その様子を見た私、げっ! こんな食べ方するんか! と、思ってしまったのでございます。そして、やや興ざめした私は、喉ごしを楽しむべきところ、シロウオをかんでから飲み込んでしまいました。 それからだいぶ年月が経って、福岡で、取材先の方から夕食に誘われ、付いていくと、川の側の店で、シロウオの踊り食いがオーダーされていました。が、初の踊り食いを楽しむカメラマンの田中さんを横目に、私はうがい音がトラウマとなってよみがえり、この時もシロウオをかんでしまいました。 そんな

美しい風紋を身にまとった砂丘と青い海原のコントラスト

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砂丘というと、どうしても『砂の女』を思い出してしまいます。『砂の女』の舞台は、鳥取ではないのですが、鳥取イコール砂丘、砂丘イコール砂の女、とどうしても連想してしまうのです。 『砂の女』は、海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められる物語です。安部公房の代表作で、近代日本文学の傑作と言われ、20カ国語に翻訳されるなど、海外でも高い評価を得ています。 1964年には、原作の安部公房自身が脚本を書き、勅使河原宏監督により映画化されましたが、とても「濃い」作品に仕上がっていました。映画はDVDも出ており、それが2枚組になっています。映画『砂の女』は、封切り時は147分でした。しかし、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞したのは122分の短縮版で、勅使河原監督はその後、122分版を正式版とし、147分版は上映されなくなりました。で、その幻のオリジナル版が、一緒に入っているようです。 と、話が鳥取ではなくなってしまいました・・・。今回の記事は、鳥取砂丘の話です。 初めて鳥取砂丘に立ったのは、今から30年以上前でした。ウェート・トレーニング界の第一人者で、当時、雑誌にコラムの連載をお願いしていた小山裕史さんが案内してくれました。 小山さんは出発前、トレーニング・ジムの玄関からビーチ・サンダルを2足、車に積み込みました。10月も下旬になっていたので、サンダルになってまでは・・・と思いましたが、やはりこれは正解でした。 実際に鳥取砂丘に立つと、眺めているだけでは飽き足りなくなります。砂丘といえば、童謡「月の砂漠」のイメージのせいか、一面の砂の原を想像しがちです。しかし、鳥取砂丘は、意外に起伏があるのです。特に正面に見える馬の背状の小高い丘が、おいでおいで、と手招きをしているように思えてきます。高さ47m。傾斜35度。 砂に足をとられながら登るのは、かなりきついです。しかし、その分、頂上にたどり着いた時の風は爽やかです(ただし、あまり長くいると、季節によっては、日本海から吹き付ける風が尋常じゃなく冷たいです)。頂からは、砂丘の広がりと雄大な日本海が一望出来ます。美しい風紋を身にまとった白砂と、青い日本海のコントラストが見事です。 鳥取砂丘を歩きながら、小山さんから、ある相撲部屋の親方が、部屋の力士たちのトレーニングについて相談しに来られた時の話を聞きました。

醤油の原点、紀州湯浅の溜まり醤油

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湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として、古くから栄えてきました。また、紀伊水道に臨む湯浅湾の奥にあり、海路の便が良かったことから、物流の中心地となっていました。今も、江戸から明治にかけての建物が軒を連ね、往時をしのばせています。 湯浅はまた、日本人にとって欠くことの出来ない味、醤油の古里でもあります。1800年代初頭には、なんと92軒もの醤油屋が営業していたと言われ、醤油醸造の町としても有名です。 醤油は、鎌倉時代の禅僧覚心(法燈国師)が、修行をしていた宋の径山寺(きんざんじ)から、味噌の製法を持ち帰ったことから生まれたと伝えられています。覚心は帰国して、生まれ故郷の由良にあった真言宗の西方寺に入り、同寺の宗旨を禅宗に改め興国寺を開きました。その後、近隣の村々に味噌の製法を伝授していきますが、その過程で醤油が誕生したというのが定説になっています。ただ、発祥譚には、微妙に異なる伝承があります。 一つは、湯浅周辺で径山寺(金山寺)味噌作りが広まり、製造工程で桶の底に溜まった汁がおいしく、それを調味料として使うようになったという説。 もう一つは、ヤマサ醤油のサイトに出ているんですが、仕込みの間違いか何かで水分の多い味噌が出来、その上澄みをなめてみるとおいしく、食べ物の煮炊きに使えると、以後、わざと水分の多い味噌を作るようになったのが始まりという説です。 いずれにしても、湯浅の金山寺味噌作りから溜まり醤油が生まれたのは確かなようで、湯浅は、いわば日本の醤油の原点と言えるわけです。 湯浅は、良質な水に恵まれ、醤油醸造に適していたことから、室町時代にはそれまで自家製で賄われていた醤油を売る店も現れました。江戸時代に入ると、湯浅醤油の名声は一層高まり、販路も拡大。「下り醤油」と呼ばれて関東へも送られました。紀州藩の手厚い保護を受けた湯浅醤油は、「○キ」印の旗を掲げた船で運ばれ、やはり紀州名産のミカン船と共に、さまざまな特権を与えられていたといいます。醤油屋の数が92軒あった当時、湯浅の戸数は約1000戸だったようですから、1割の家が醤油を作っていたことになります。 しかしやがて、江戸へ流通する醤油の産地は、房州の銚子や野田へと移っていきます。ここで江戸の人々の嗜好に合わせた濃口醤油が作られるようになりますが、房州へ醤油醸造の技術をもたらしたのは、紀州から移住した人たちで

加太の海に浮かぶ要塞の島

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和歌山市で最近、人気観光地として脚光を浴びているのが、加太の海に浮かぶ無人島「友ケ島」です。島は、明治時代から第二次世界大戦まで、軍事要塞として使用されていて、今は廃墟と化した赤レンガの施設群が残っています。その独特の風景がネットで話題となり、「ラピュタっぽい」とか「バイオハザード的」などと評され、一躍超人気スポットになったのです。 友ケ島は、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島の総称で、要塞跡があるのは、沖ノ島になります。明治時代に大日本帝国陸軍が、外国艦隊の大阪湾への進入を防ぐために、沖ノ島の5箇所と虎島に砲台や防備衛所を造りました。 これらの島は、第二次世界大戦までは一般の立ち入りは禁止されていました。戦後、友ケ島全体が瀬戸内海国立公園に指定されたことにより、終戦時に爆破処分された第2砲台以外は、各種施設が、比較的良好な状態で残ることになりました。現在は、要塞時代をしのばせる砲台跡を巡るハイキングコースも設けられ、人気の観光地となっています。 友ケ島までは、加太港から船で片道20分ほど。ハイキングコース沿いに、第2砲台跡を始め、展望台、第3砲台跡、桟橋などを見て回って約2時間30分。夏場は、磯遊びをする家族連れでも賑わいます。 友ケ島のある加太は、古くは「潟見の浦」と呼ばれ、『万葉集』にも詠まれた景勝地でした。その後、四国・九州の大名が参勤交代に加太の港を利用するようになり、交通の要衝として発展。また、紀伊国屋文左衛門を始め、諸国の回船が加太港から江戸へ荷を運ぶようになり、商家や旅籠が軒を並べ、港町として栄えました。 しかし、現代においては、景勝地や海上交通の要衝としてよりも、鯛の一本釣りなど関西屈指の漁場としての方が有名。また、供養のため2万体とも言われるひな人形が奉納されている淡嶋神社や、友ケ島の要塞跡など、観光的な目玉でも注目を集めています。 砲台跡は、友ケ島ばかりでなく、本土側にも残っており、休暇村紀州加太の中に深山砲台群、和歌山市立青少年国際交流センターに加太・田倉崎砲台があります。特に深山砲台は、休暇村周辺の散策道沿いにかなりいい状態で残っています。一方の加太・田倉崎砲台跡を見学するには、青少年国際交流センターで受付をする必要があります。 この青少年国際交流センターが建つ丘の下には、雛流しの神事で有名な淡嶋神社があります。拝殿には所狭ましと人形がぎっしりと並

近江聖人の古里にある「白鬚さん」の湖中鳥居

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湖西の中心都市・高島市を初めて訪問したのは、今から20年前のことです。この時は、伝統工芸の高島扇骨を取材しました。 高島市の安曇川町は、湖西第一の大河・安曇川流域の町です。高島市一帯は、古くから開けた土地で、北陸や若狭と京畿を結ぶ交通の要衝にありました。『延喜式』には、大津から船で高島に至る運賃が記載され、そこから先は陸路をとったとあります。 また、日本海ルートで入る大陸文化の影響も色濃く、こうした文化の通り道であったことを反映してか、高島市には、古くから伝わる工芸品がいくつかあります。高島硯、雲平筆、それに取材した高島扇骨です。 350年の伝統を持つ扇骨は、安曇川町西万木(にしゆるぎ)を中心に生産され、現在、全国シェアの約90%を占めています。大陸との交易の開港地北陸と京を結ぶ要衝にあったこと、また雪に覆われる冬の間の農民の副業に適していたことなど、地理的、生活的条件から必然的に発展してきました。 起源については、都の貴族がこの地に隠棲して作り始めたとか、武士の落人が生活の糧を得るため始めたとか、諸説があります。しかし、そもそものきっかけは江戸初期、安曇川流域に住んでいた長谷川玄斎という医者が、度重なる川の氾濫で農民が苦しむのを見かね、堤防に竹を植えたことに始まります。 後年、この竹に目をつけた戸島忠兵衛という人物が、冬の農家の副業として導入。自ら仲買人となって販路開拓に努め、農民に利益をもたらせようとしました。また、幕末には名古屋で高度の技術を学んで帰った井保久吉や、その甥で、京阪に販路を求め、ついには扇子の輸出にまでこぎつけた井保寿太郎など、多くの先人たちの努力により、扇骨産地としての形態が整ったのです。 安曇川は近江聖人・中江藤樹の生地ですが、藤樹のみならず、この地方は古来、人徳豊かな土地柄であったのでしょう。 扇骨の工程は親骨が18、仲骨が16と、非常に煩雑。竹は節間40cm以上の3〜5年生のものを使います。これを用途にあった長さに切り、扇骨用に細く割ります。後は親骨と仲骨に分けられ作業が進みます。なかでも技術のいるのは、形を整えるために幾種類もの包丁(鉋の刃)を使って仕上げる工程。 これが終わると漂白され、冬で1週間、夏で3日ほど白干(乾燥)をします。この時、均一に削られた竹はまるで花のようにまとめられ、美しい幾何学模様を見せてくれます。乾燥後は再度削り

「近江の北海道」と呼ばれる湖北の旅

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いうまでもなく、琵琶湖は日本一大きい湖です。滋賀県全体の約6分の1を占め、琵琶湖を中心に湖東、湖西、湖南、湖北と地域が区分されます。今回はそのうち、湖北の紹介です。 湖北は、米原市と長浜市になりますが、米原市は別記事を立てるので、とりあえず長浜市を中心に書いていきます。以前は、坂田、東浅井、伊香の3郡に湖北町や高月町、木之本町、余呉町などがありましたが、2010年に長浜市がそれらを編入合併し、大津市と草津市に次ぐ県下第3の都市になりました。 琵琶湖が南北に長い分、湖南と湖北とでは気候や風土ががらりと変わり、湖北には北国の厳しさがあります。湖北は「近江の北海道」とも言われ、冬はどんよりした雪雲に覆われる日が多くなります。そんな北陸型の気候を、地元の人たちは「伊香しぐれ」と呼びます。高月、木之本、余呉の各町があった旧伊香郡の「伊香」というのは、古語で「雪」を意味する言葉だそうで、その名の通り、湖北の冬はよく雪が降ります。これは湿った日本海の風が伊吹山にぶつかって雪を降らせるためで、冬場、米原や関ケ原辺りで東海道新幹線に遅れを生じさせるのは、この「伊香しぐれ」が犯人です。 関ケ原と言えば、昨日のブログ( 天下分け目の関ケ原を抱える西濃地方 )でも触れたように、豊臣秀吉死後の政権を巡って争われた「天下分け目の戦い」で知られますが、その秀吉が、織田信長の後継を柴田勝家と争ったのが、賤ケ岳の合戦です。賤ケ岳は旧余呉町にあり、山頂からは南に琵琶湖、北に余呉湖が望め、琵琶湖八景の一つに数えられています。 長浜市の中心は、滋賀県唯一の新幹線駅米原のすぐ北にあります。ここは、豊臣秀吉が初めて城を築いた地で、長浜城は出世城と呼ばれましたが、豊臣家滅亡後、廃城となりました。1983年、湖畔に天正様式の天守閣を持つ城が再建され、長浜城歴史博物館となっています。 長浜から湖岸を北へ向かうと、虎姫、湖北、高月、木之本と続きます。琵琶湖八景の一つ竹生島は、この辺りからの眺めがお勧めです。島には長浜港と木之本の飯浦港から船で渡れます。 旧湖北町には、野烏センターがあり、観察室のスコープや双眼鏡でバードウォッチングが楽しめます。湖岸には、コハクチョウや天然記念物のオオヒシクイなど1万羽を超す鳥が飛来します。天気の良い日は超望遠レンズをつけたカメラマンたちが、水鳥たちや美しい夕陽を撮っています。 高月町