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6月, 2021の投稿を表示しています

古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市

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桜の名所として知られる弘前城。その正門が追手門です。1層目の屋根を高めにした2層の櫓門で、全体を簡素な素木造りとしていることなど、戦国時代の古い形式を残すものとして、全国の城門の中でも注目されています。 追手門周辺の濠や土塁もよく保存・整備されており、春には濠沿いに植えられた桜の花が豪華に咲き誇ります。しかも弘前城の場合、散った桜の花びらが濠を埋め尽くす、いわゆる「花筏」がまた見事で、あえて桜が散る時期を狙って訪れる人も大勢います。 弘前城の桜は、花自体が大きく、豪華な点が特徴だと言われます。ソメイヨシノは通常、一つの房に4~5個の花を付けますが、弘前城のソメイヨシノは、それよりも多く花を付けており、中には七つの花を咲かせている房もあります。また一般にソメイヨシノの寿命は60~80年と言われますが、弘前城には樹齢100年を超える古木が300本以上あるそうです。 これらの桜を支えているのは、「弘前方式」と呼ばれる桜の管理技術だとされます。桜は枝を切ると、そこから腐りやすくなるので切らない方が良いとされ、よく「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われます。が、弘前公園管理事務所では、桜の枝を切るのだといいます。これは全国有数のリンゴ産地・弘前ならではの発想で、病気や害虫に弱いソメイヨシノを、リンゴ栽培を応用した適正な剪定によって管理しているのです。 桜の時期には200万人もの観光客が訪れると言われる弘前城。旅好きの義母も、桜を求めて弘前を訪れたことがありましたが、その時は、残念ながら満開の桜とはならなかったようです。逆に私は、GWの1週間ほど前に弘前を訪問した際、見頃はもっと後だろうと思っていたのに、かなり咲きそろっていて、三脚を持ってこなかったのを悔やんだことがあります。桜は、その年によって時期がずれるので、必ずしも満開の時期に当たるとは限りませんが、やはり一度は見てみたい桜の名所に違いありません。 ところで、弘前城のある弘前公園周辺は、現在、市役所を始めとした官公庁街となっており、駅前とこの官公庁街、そして中心街の土手町という三つのエリアを結ぶように100円バス(土手町循環100円バス)が運行されています。弘前駅前から弘前城追手門までは約2km。土手町循環100円バスの場合、駅前から最寄りの市役所前までは約10分です。 さて弘前は、1611(慶長16)年に築かれた鷹岡城を

イケメン山伏安珍さんの古里で開催されるだるま市

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『おくのほそ道』の序文に「春立てる霞の空に、白河の関越えんと(春になり霞たなびく空を見るにつけ、白河の関を越えたいと)」と綴られているように、奥州三関の一つ「白河の関」が置かれ、古くからみちのくの玄関口として知られる白河。そんな白河市に春の訪れを告げる白河だるま市が、毎年2月11日、市中心部の目抜き通りで開かれます。 白河だるまは、眉やひげなどを「鶴亀」「松竹梅」に見立てて描いており、「白河鶴亀松竹梅だるま」とも呼ばれます。江戸時代中期、寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信が、旧正月の市に縁起物として売らせたのがだるま市の起源と言われます。 江戸時代から続く伝統の白河だるま市には、毎年15万人もの人出があり、国内最大級のだるま市となっています。 だるまのサイズは、8cmの小さなものから、75cmの大きいのものまで18種類あります。定価はありますが、値切り交渉も可能。だるまを値切ることは縁起が良いとされるそうなので、臆せず声をかけてみたらいいかと。 また、店によっては、だるまに無料で文字入れをしてくれる所もあります。「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」など、願掛けしたい言葉の中から選んで、その場で文字を入れてもらえます。 ところで、話が変わりますが、「安珍清姫」伝説の安珍さんは、ここ白河の出身です。「安珍清姫」の話は、熊野詣での僧に想いを寄せた女性にまつわるもので、この話は、平安時代半ばに出来た『本朝法華験記』という仏教説話集に載っていたと言います。それが『今昔物語集』にも引き継がれ、「巻十四第三話」に、女の執念が凝り固まって蛇になった話として紹介されています。 この伝説は、中世の頃には確立されていたようで、能楽の演目として早くから定着し、それが、いわゆる「道成寺もの」として歌舞伎の中に採り入れられ、1752(宝暦2)年、中村富十郎によって『娘道成寺』として集大成され、京都嵐三右衛門座で創演されるに至ります。そして翌年には『京鹿子娘道成寺』として、江戸中村座でも上演され、今日まで受け継がれています。 一方、伝説そのものも、道成寺に土佐光重の筆と伝わる『道成寺縁起絵巻(国の重要文化財)』という形で残され、2017年には江戸時代以来362年ぶりに全面修復が施されました。 安珍さんは15歳の時に、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心だった「出羽三山」の一つ羽黒山に入ったと言

「不易流行」の世界を具現化する奥州・平泉

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夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉が平泉を訪れたのは元禄2(1689)年5月13日です。藤原氏が滅亡して、ちょうど500年。つまり、義経が亡くなって500年目という年でもありました。 奥の細道は、西行の足跡をたどる旅でしたが、平泉で折り返した点や、500年という節目の年を選んだことなどを考えると、藤原氏と義経の終焉の地を訪ねるという意味合いも強かったのでしょう。 ところで地元に、藤原秀衡の三男忠衡が西行と義経を招待してソバの会食をし、「西行様と義経公が、いつまでも藤原氏の『そば』にいて力を貸してほしい」と切望したという言い伝えがあるらしいのです。義経は文治3(1187)年2月10日に平泉に入ったとされます。その一方、頼朝に知られたのがこの日で、実際は前年の暮れに既に入っていたという説もあります。西行が2度目の平泉訪問をしたのは文治2年10月12日のことですから、もしかしたら、と夢は膨らみますが、実のところ可能性は薄いようです。残念! さて奥の細道の平泉の項は「夏草や」の前半部と、「五月雨の」の句がある後半部に分けられます。つまり前半で「滅びゆくもの」、後半で「後に残るもの」を描いています。 五月雨の降のこしてや光堂 金色堂の脇にある芭蕉の句碑には「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか」という解釈が書かれています。 金色堂は、中尊寺創建当初の唯一の遺構で、奥州の最高芸術と言っても過言ではありません。堂の内外は黒漆塗りの上に金箔が張られ、その名の通り金色に輝きます。内部もまた白く光る夜光貝の螺鈿細工・透かし彫りの金具・金蒔絵など、藤原時代の工芸の粋が施されています。中央の須弥壇の中に清衡、向かって左の壇に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。 東日本大震災があった2011年、平泉がユネスコの世界遺産へ登録されました。「仏国土(浄土)をあらわす建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されたのは、中尊寺、毛越寺と、無量光院跡、観自在王院跡、そしてそれら造営の基準となった金鶏山です。極楽浄土の世界を再現した浄土庭園と仏堂が、12世紀の浄土思想を伝える貴重な文化遺産と評価されました。 毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡公から三代秀衡公の時代に多

日本三大美林、下北半島の青い森

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霊場恐山。あちこちで硫気や水蒸気がゴボゴボと噴き出し、地獄のような絵図を描きます。硫黄分が強い酸性土壌のため、草木はほとんど見当たりません。しかし、周囲の外輪山は、対照的に緑濃い原生林におおわれています。 かつては、緑におおわれた恐山の周辺部は大畑町に、恐山そのものはむつ市の飛び地となっていました。が、2005年3月に大畑町がむつ市に編入されたため、現在は全てむつ市となっています。 大畑はイ力漁の町として知られますが、かつての町域はむしろ山側に広がリ、96%が山林によって占められていました。大畑から恐山に向かう山の斜面には、雄大なヒバの天然林が広がリ、木曽ヒノキ、秋田杉と並ぶ日本三大美林の一つ、青森ヒバの古里の名に恥じない見事な景観を見せています。 ただ、三大美林とはいえ、ヒノキや杉に比べると、ヒバの知名度はだいぶ低くなります。ヒバは日本特産樹で、南方型アスナロと北方型ヒノキアスナロの二つがあります。青森のものはヒノキアスナロで、全国の82%が集まリ、とくに下北、津軽両半島に大団地をなして分布しています。 ヒバはまだすっぽりと雪におおわれた2月から3月に、たくましく花を咲かせ、命の営みを始めます。成長には200年から300年かかり、その間、風と雪によって鍛えられます。三大美林と言われるものは、いずれも天然林ですが、藩政時代から積極的な山林経営がなされ、「枝一本腕一本、樹一本首一つ」という厳しい掟の中で守られてきました。現在伐採されているヒバは、そうした藩政時代初期に芽吹き、江戸、明治、大正、昭和と長い時代の変遷を見て、成長してきたことになります。 青森ヒバは、湿気に強い、腐朽菌に強い、振動・圧力に強い、木目が緻密で美しい、シロアリに強いなどの特長を持ち、古くから築城、神社仏閣などの建築に使われてきました。代表的なものに、岩手県平泉の中尊寺金色堂、青森県弘前市の弘前城などがあリ、宮大工など一部の人たちには、ヒノキと双壁をなす良材と認められていました。 実は、建て替え前の我が家も、青森ヒバを使っていました。長男が独立し、長女もやがて結婚という頃、築30年ほどになるので、リフォームを考えました。住宅会社との打ち合わせも終盤になり、屋根材の選択となって、知人の一級建築士にどういう素材がいいか相談しました。 すると、それだけコストをかけてリフォームするなら、土壌も含めて基礎か

新幹線と在来線が同じ高さで見える桑折駅のイルミネーション

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「やべぇ! 桑折が栄えてる」 東北本線で福島方面からやって来た中学生が、桑折駅の改札を抜けた途端、声を上げました。 それもそのはず、駅舎ではミニライブが行われ、待合室は100人近い町民でにぎわっていたのです。駅の外にも大勢の人が集まり、笑顔があふれていました。 この日、桑折駅ではクリスマス・チャリティー・コンサート&バザーが行われていました。追分まちづくり協議会と、桑折ライオンズクラブの共催で毎年実施され、桑折町のクリスマスを彩るイベントとして定着しています。 イベントのきっかけとなったのは、駅前通りのイルミネーションでした。奥州街道のうち仙台道28番目の宿駅だった桑折は、羽州街道の起点でもあり、奥州・羽州両街道の追分として栄えました。そんな追分のにぎわいを取り戻し、町を活性化させようと、1993年、駅前通りのイチョウ並木に電飾イルミネーションをかける取り組みが始まりました。企画したのは追分まちづくり協議会の前身、駅前通りイルミネーション実行委員会でした。 その後2005年3月に駅前広場の整備が完成。これを機に、イルミネーションを駅前広場に移し、同時に桑折駅舎でのコンサートを開催しました。その実行委員の中にライオンズクラブの会員も入っていたため、翌年からはライオンズによるチャリティー・コンサートとしてイベントを継続すると共に、イルミネーションの設置にもクラブで協力するようになりました。イベント当日は、ライオンズがコンサートとバザーを担当し、追分まちづくり協議会は豚汁と餅の炊き出しを行っています。 最近では町も、桑折駅を中心としたこれらの取り組みに着目。新幹線と在来線が並走するのが見られる珍しいスポットとして知られる駅北側に「電車広場」と呼ばれるポケットパークを整備してくれました。これを受け、桑折ライオンズクラブは電車広場に桜を植樹すると共に、こちらにも電飾をかけ、イルミネーションをグレードアップさせています。 現在、桑折駅は福島駅管理の業務委託駅となっていますが、福島駅長によると、JR東日本仙台管区の中で最もイルミネーションが美しく、住民が積極的に関与する駅として自慢の種にしており、JR東日本でも高い評価を得ているそうです。

七戸から八甲田山を抜けて青森へ

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青森の奉仕団体が、毎年、耳の不自由な子どもたちをリンゴ狩りに招待しているという話を聞いて、取材に行ったことがあります。リンゴ狩りをするのは、青森の市街地からは少し離れた八甲田山麓にある観光果樹園「青森りんごの里」で、青森駅からは10km強という感じでした。 リンゴ狩りは午前中に行うというので、前泊が必要。当然、青森駅近くに泊まるのが便利ですが、実は新幹線の停車駅は、青森駅とは離れた新青森駅になります。東京‐新青森間は3時間15分で、青森駅までは乗り換え時間を入れて約3時間半です。新青森にもホテルやレンタカーがあるので、そちらでもいいかと思いましたが、「青森りんごの里」は東京方面に結構戻る感じだったので、結局、一つ手前の七戸十和田駅で降り、駅に近い東八甲田温泉に泊まることにしました。 七戸町はかつて、レールバスが走る南部縦貫鉄道が通っていた町です。しかし、南部縦貫鉄道は2002年に廃止され、現在、JR七戸十和田駅が町唯一の駅になっています。聞くところによると、町唯一の駅が新幹線の駅というのは、日本全国で七戸町だけだそうです。 駅に隣接してイオンのショッピングセンターが、またイオンの駐車場の隣には道の駅もあって、いろいろな施設が集まっているようですが、日が暮れてから降り立つと、かなり寂しい印象です。目指す東八甲田温泉は駅の近くにあるはずですが、駅からは見あたらず、駅前の公園を突っ切って、Google Mapが示す方向へ歩いてみました。 すると、何となく「あれかな?」という2階建ての建物があり、近づいてみると、「日帰入浴」と共に「宿泊 東八甲田温泉」の看板がありました。七戸町で唯一の宿泊が出来る温泉とのこと。ここのお湯は掛け流しで、大浴場の他に、青森ヒバの香りが心地よりヒバ風呂がありました。 翌朝、駅の反対口にある駅レンタカー七戸十和田駅営業所で車を借り、受付で青森市田茂木野にある青森りんごの里までの道を確認したところ、「八甲田山を通る県道40号は通行止めになっているはず」と。「えっ! うそ・・・そんなはずは・・・」という私に、「確認してみますけど、確実なのは国道4号をいったん北上して、みちのく有料道路で青森市内に入る迂回路です」と、別ルートを教えてくれました。 ただ、想定外の上、土地勘が無いため、そのルートで取材時間に間に合うのか、全く見当がつきません。途中まで行って、

福島にある「UFOの里」と老舗洋食屋さん

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昨日、ブログに福島県川俣町のことを書きましたが、同じ日の『福島民報』に、「『UFO研究所』開所正式発表」という記事が出ました。その記事によると、いいの街なか活性化委員会によって、福島県福島市飯野町のUFOふれあい館内に国際未確認飛行物体研究所(通称・UFO研究所)が開所されることが正式に発表された、とのこと。 「UFOふれあい館」というのは、福島駅から国道114号で川俣町へ向かう途中にあります。2012年の12月、原発事故による全村避難が続いていた飯舘村へ行き、村内で仕事をされている8人の方を取材させて頂いた帰途、星飛雄馬の姉ちゃんばりに、物陰からじっとこちらを見つめる宇宙人の姿を発見。その目に吸い寄せられたかのごとく(単にミーハーなだけですが)、件の施設を訪ねてみました。 ちゃんと 公式のウェブサイト もあるので、まずはそちらの公式見解を転載します。 「UFOの里:福島県の中通り北部、県都福島市の南西部に位置する飯野町地区、ここはUFOの里として広く知られています。飯野町地区北部に位置する千貫森周辺には、古来から多数の発光物体の目撃例が見られました。 また千貫森自体も謎多き山であり、その周辺にも多くのミステリーゾーンが存在する事が知られています。そういった数々の謎の研究資料や、UFOやその他のミステリーに関わる資料を集め、展示する施設として1992年に開館したのがUFOふれあい館です。その後パノラマ食堂(UFO物産館)、UFO広場等周辺環境も整備され、古くからある小手神社や謎の巨石群と合わせて一大ミステリー体験ゾーンを形成しています」 福島市の飯野地区(旧飯野町)では、平成元(1989)年のふるさと創生事業をきっかけに、町おこしとしてUFOの里づくりに取り組むようになりました。そして、その中心施設として、1992年にUFOふれあい館を開館。館内には、UFO研究家として知られた故荒井欣一さん寄贈によるUFO関連資料など約3000点が収蔵されており、UFOファンの聖地として年間約3万人が訪れています。 折しもアメリカでは、国防総省が、「未確認の飛行現象」として映像を公開し、専門チームを立ち上げて本格的な分析を始めました。その報告書は近く公開されるようで、UFOについて「宇宙人の乗り物だとする証拠は見つからない」と結論づける一方、「飛行物体の急加速や方向転換、急降下など

平安時代から続く絹の里は、中南米音楽とシャモ推しの町

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東日本大震災後、飯舘村や南相馬市へ取材に行く際、福島でレンタカーを借り、川俣町経由で入っていました。福島から川俣までは国道114号を通りますが、川俣に入って700mほどの所に小さな池があります。そのほとりには、「コスキンの町 川俣」と書かれたモニュメント「コスキンくん人形」が立っています。 初めて見る人は、「何だこれ?」と思うに違いありません。ところが、私の場合、やはり初見だったものの、すぐにそれが何かを理解しました。そうです。私、川俣がコスキンの町であることを、だいぶ前から知っていたのです。 日本最大のフォルクローレ音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が、川俣町で開催されていると知ったのは、2000年のことです。その年はちょうど、「コスキン・エン・ハポン」が始まって25周年だったため、それを記念して第1回コスキン・パレードも行われました。 「コスキン」というのは、南米アルゼンチンの地方都市の名前です。アンデス山脈の山間にある人口2万人の小さな市ですが、ここで10日間にわたり延べ20万人が集まる盛大な音楽祭が開かれます。 その祭りを模して、川俣町の南米音楽愛好家が、「コスキン・エン・ハポン(日本のコスキン)」として音楽祭を開くようになりました。当初は、全国13のフォルクローレ愛好家グループが集い、演奏を楽しんでいました。しかし、年々参加グループが増え、25年目の2000年には過去最高の161グループが日本各地から集まり、2日間にわたり演奏を行ったそうです。 その後も、ますます隆盛となり、連綿と続いてきました。今では国内外から200組を超える演奏者が集まる国内最大級の中南米音楽の祭典に成長。10月第2土曜日から3日間、山間の小さな町は、中南米の音楽とカラフルな色であふれ返ります。 実は川俣町も、東日本大震災の原発事故により、一時、山木屋地区が帰宅困難地域に指定されていました。しかし、各地から寄せられる応援に力を得て、コスキン・エン・ハポンは震災の年にも例年通りに開かれました。 ただ、2019年は東日本台風、2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で、コスキン・エン・ハポンは中止となりました。今年は、4月時点では開催予定で進んでいましたが、その後の状況に鑑み、開催断念を決断。残念ながら、3年続けて中止という事態になりました。 昨年は、代替えイベントとして、演奏動画を集めて

真室川音頭の町で開かれる仮装盆踊り大会

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真室川町で、仮装盆踊りがあることを聞きつけ、取材に出掛けたのは2017年の8月でした。真室川は山形県北部、雄勝峠を通る奥羽本線や国道13号によって秋田県と結ばれています。東京からだと山形新幹線で新庄駅まで行き、そこで奥羽本線に乗り換えて2駅、新庄からは15分ほどで到着します。横手の記事( 「雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら」 )に、横手までのアクセスルートを三つ紹介し、距離は最も短いけど一番時間がかかると書いた「山形新幹線・奥羽本線ルート」です。 真室川の仮装盆踊りは、真室川まつりの前夜祭として行われ、同時にこの日から、特設会場でビアパーティーが開催されたり、手作りの灯ろうが伝統芸能「釜淵囃子」と共に町を練り歩く動く灯ろうが実施されたりします。真室川まつりは例年8月17日に開催され、山神神社の勇壮な神輿渡御や真室川音頭パレードが行われ、夜には約2500発の花火を打ち上げる真室川まつり花火大会でフィナーレとなります。 仮装盆踊り大会は、真室川駅前に櫓が組まれ、駅ロータリーが盆踊り会場に変身。踊りはもちろん、真室川音頭。 そう、まつり本番でも、生唄生演奏で町民約500人が踊りながら町を練り歩く真室川音頭パレードがあるように、真室川と言えば、真室川音頭を忘れてはいけません。 真室川町のウェブサイトによると、真室川音頭の由来は「明治時代に遠く千島やカラフトへ出稼ぎにわたった人々が歌った『カムチャッカ節』を元唄に、真室川町に住んでいた近岡ナカエさんが創作して歌ったのが始まりと言われています」とのこと。また「全国的に広まったのは、昭和の始めに隆盛をほこった真室川鉱山に働く人々に盛んに歌われ、戦後『真室川小唄』としてリバイバル。さらにレコード化されたことにより、全国的に歌われるようになりました」ということになっているようです。 ただ、一応諸説があるようなので、ちょっとだけ検索してみると、源流として有力なのは、明治の頃、北海道や樺太の缶詰工場で働く女工たちによって歌われた労働歌で、その原曲は、樺太や千島で歌われていた「カムチャッカ小唄」だそうです。そして、これがお座敷唄となって、合いの手で「ナット ナット!」と囃すことから「ナット節」と呼ばれるようになり、更に大正の末頃から本州の港町でも歌われるようになったようです。 内陸部である真室川出身の近岡仲江さんが、「ナット