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10月, 2020の投稿を表示しています

大人気漫画の聖地で出会った謎の看板

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会津三十三観音第21番札所 左下り観音堂 福島県は地形や気候、交通などの面から浜通り、中通り、会津の3地域に分けられます。浜通りは、相馬や南相馬、いわきなど、太平洋に面した沿岸部、中通りは、福島、郡山、白河などの県央部、会津は、会津若松や喜多方などの県西部になります。 このうち会津は、古くは相津と書きました。『古事記』によれば、崇神天皇の命により、諸国平定の任務を終えた大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来します。会津美里にある伊佐須美神社の縁起にも同様の伝承があり、二人が御神楽岳の頂に、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祭ったのが、同社の創祀とされます。 新白河駅から会津美里へ向かう途中にある湯野上温泉駅 いわば会津発祥の地とも言える会津美里町ですが、このところ町のあちこちで「あいづじげん」という不思議なキャラクターを見掛けます。これは、比叡山の再建や日光東照宮の造営に尽力した天海大僧正(慈眼大師)をモチーフにしたものです。 天海大僧正は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ」とあり、伊佐須美神社がある会津高田(現・会津美里町)の生まれとされます。ただ、同縁起にはまた、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとあり、足利将軍のご落胤だという説もあるとしています。このように、天海の前半生はよく分かっておらず、そのせいか、後年には、いまNHK大河ドラマで注目の明智光秀が、天海になったのではという説まで生まれています。 ところで、会津美里町は、2005年に会津高田町、会津本郷町、新鶴村が合併して発足しました。このうち会津高田は、前述の通り、「会津」という地名の由来となった伊佐須美神社や、天海大僧正生誕の地として知られます。また、会津本郷は、陶器と磁器を製造する稀有な産地であり、柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎らが主導した民芸運動によって脚光を浴びた会津本郷焼で有名です。 民芸運動では特に、会津粗物(日用雑器)の代表格・宗像窯の「にしん鉢」に焦点が当てられました。にしん鉢とは、会津の郷土料理ニシンの山椒漬け専用の鉢で、宗像窯のにしん鉢は1958年、ブリュッセルの万国博覧会でグランプリを獲得し、会津本郷焼の名を高めました。そんな本郷焼を取材したいと前々から思っていたのですが、なかなかタイミングが合わず、ようやく実現したのは2015年のことでした。

讃岐うどん発祥の地・綾川町のうどんたち

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  滝宮天満宮 綾川町は香川県のほぼ中央、2006年に綾歌(あやうた)郡の綾上(あやかみ)、綾南(りょうなん)両町が合併して誕生しました。南に讃岐山脈がそびえ、清流綾川が町の中をゆったりと流れ、のどかな田園と里山が織り成す讃岐らしい風景が広がります。 綾川町の滝宮は、讃岐うどん発祥の地と言われ、毎年4月に滝宮天満宮で献麺式が行われています。そんな町だけに、05年のゴールデンウィークには最長2時間待ち、車の列が延々2kmも続いたという山越うどんを始め、人気うどん店が数多くあります。今も休日になると、四国ばかりでなく関西や山陽から観光客が押し寄せ、綾川にある道の駅「うどん会館」には、年間約30万人の来園者があります。 その綾川を取材したのは2015年のことでした。取材は、もちろん、うどんが中心でした。取材記事は、別ブログにまとめているので、良かったらそちらも併せて読んでみてください(「 讃岐うどん発祥の地はうどん県のど真ん中 - 綾川 」)。 取材は、地元の方がコーディネートしてくださり、到着早々、道の駅滝宮「うどん会館」に案内されました。ここで、綾川町とうどんについて、簡単なレクチャーを受けながら、昼食を取ることに。で、先方が注文してくださったのが、冷たいつけうどんでした。さすが発祥の地のうどん、こしがあっておいしかったのですが、カメラマンの田中さんと私が食べ終わるのを待っていたかのように、続けて温かいうどんが出て来ました。というわけで、いきなり冷温両方の洗礼を受けてから、取材開始となりました。 この時の泊まりは、綾川ではなく、お隣の琴平(「 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 」)だったため、夕飯と次の日の朝は、うどんではありませんでしたが、昼食と間食は全てうどんでした。 2日目、朝食を終えて、綾川に着いた我々が案内されたのは、店先に「うどん」と書かれたのれんが出ているだけの隠れた名店「松岡」さんでした。「松岡」さんは、讃岐うどん界で西の横綱と呼ばれながら09年に惜しまれつつ閉店した伝説の名店「宮武うどん」で修行を積んだ大将が1991年に開業した店だそうです。撮影にも快く協力して頂きましたが、その時、限界を超えて作ると質が落ちるから、と毎日決まった数だけしか打たいない、と話しておられました。 そんな「松岡」さんですが、消費税が10%になるのを

福井の伝統食・米糠(こんか)さば=へしこ

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福井県の伝統食に「へしこ」があります。 東西に長い若狭からは、古来、いくつもの道が畿内に向かって延びていました。昔、若狭の行商たちが、若狭湾でとれた鯖に一塩し、一昼夜かけて都へ運搬。京に着く頃に、ちょうどいい塩加減になり、都で珍重されたということで、これらの道は総称して鯖街道とも呼ばれます(以前のブログ「 周山街道沿いに林立する北山杉の美林 」より)。 そして、そうした鯖の保存方法の一つが、魚を塩と糠で漬け込む「へしこ」です。もともとは、漁のために長い航海を行う若狭の漁師たちが、長期間腐敗せずに食べられる保存食として生み出したものだそうです。 私は、敦賀の知人に教えてもらって、初めて食べました。酒の肴としてそのまま食べてもいけましたが、ご飯と一緒に食べてもおいしく、またお茶漬けにしてもいいという万能食です。そして、その初対面以来、福井県へ取材に行くと、ついつい帰りにへしこを探してしまうようになりました。 そんな中、坂井市の丸岡で取材をした際、地元の方が、読者プレゼントとして「米糠(こんか)さば」を提供してくださることになりました。 いわゆる「へしこ」なんですが、普通のへしこと違って、生の鯖をそのまま米糠に漬け込んでいるため塩分は少なめ。また、漬け方も独自の工夫があるらしく、焼くと脂がのっていてふっくらジューシー。へしこと言うより焼き鯖に近い味でした。 とてもおいしかったので、読者プレゼントのページとは別に、記事でも写真とキャプションで次のように紹介しました。 「米糠(こんか)さば:福井の郷土料理に『へしこ』があります。サバに塩を振って糠に漬け込んだもの。若狭地方の伝統料理で、漁師が魚を樽に漬け込むことを『へしこむ』と言うことからその名が付きました。同じ福井でも坂井地区では米糠を『こんか』と呼ぶことから『こんかさば』とも言います。丸岡の料理旅館大すぎでは、塩を使わず生のサバを糠に漬け込んでいます。塩分が少ない分、日持ちはしませんが、とてもやさしい味で地元では大人気。中には、ご飯を食べ過ぎると禁止令が出るお宅もあるそうです」 取材した丸岡は、江戸時代には丸岡藩の城下町として栄えました。そのシンボル丸岡城は、最古級の現存天守閣を持っています。江戸時代以前に築城され、現代まで残っている天守を現存天守と呼びますが、全国に12ある現存天守のほとんどは江戸時代に建てられたもので、

鉄火巻きにおでん、焼き鳥、私の中のグルメタウン姫路

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  姫路に行って、必ず寄る店があります。 姫路駅から徒歩3分の「勝三寿し」です。このお寿司屋さんを知ったのは、今から25年ほど前のこと。清流・千種川の取材で訪れた上郡の方が、一緒に夕飯を食べましょう、と私とカメラマンのK氏を乗せて車を走らせること約50分。着いたのが、「勝三寿し」だったのです。 その方が子どもの頃、仕事で姫路に行ったお父さんのお土産が、勝三寿しの鉄火巻きだったそうです。で、席に着くなり、まずは鉄火巻きを注文。出て来たのは、私が知っている鉄火巻きではありませんでした。確かに、海苔で巻いてはいますが、切られておらず、巻いてそのまま出してきた感じです。 しかも、食べてみても、普通の鉄火巻きとは明らかに異なります。具は、切り身ではなく、すき身。それに醤油ではなく、特製のタレを塗って、酢飯と共にパリパリの海苔でふわっと巻いたのが、勝三寿しの鉄火巻きです。 後で聞くと、昔は、姫路駅の周辺で、勝三寿しの鉄火巻きを片手にパチンコしているおっちゃんがいたり、ここの鉄火巻きを持って、近くにあった大劇という映画館に行ったりしていたそうです。それほど姫路っ子の生活になじんでいたのでしょうね。 ここは、カメラマンの田中さんや、ライターの砂山さんとも一緒に行きました。前に、兵庫県加西から高知へ移動する際、丸亀で1泊した話を書きましたが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、実はこの移動の時、加西の方のアドバイスでルートを変更したことで、早めに姫路に到着しました。そこで、その時間を利用して勝三寿しに行き、いつも通り、鉄火巻きを食べてから、丸亀に向かいました。 田中さんとの取材時には、前から行きたかった大衆食堂「かどや」にも入ることが出来ました。この時のメインの取材は、古くから姫路を中心とした播磨地方で作られてきた、なめし革でした。また、明珍火箸など、江戸時代から続く伝統の技を紹介。更に、ネタの一つとして、姫路おでんも取り上げました。 姫路では、おでんを生姜醤油で食べます。「かどや」さんは、その姫路おでんの元祖的なお店で、撮影にご協力頂きました。 ちなみ、生姜醤油は、かける派とつける派があり、80年以上続く「かどや」さんは、かける派でした。地元では一般的な食べ方だったため、以前は関東煮やおでんとだけ呼ばれていましたが、2006年に姫路の食でまちおこしを考

B級グルメ好きが喜ぶ「大洲ちゃんぽん」とは

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「大洲ちゃんぽん」をご存じですか? 『広辞苑』によると、「ちゃんぽん」は、「①あれとこれと混同すること。まぜこぜ。②長崎料理の一つ。めん類・肉・野菜などを一緒に煮込んだ中国料理の一種」とあります。語源については諸説あるようですが、『広辞苑』は、中国語で混ぜるを意味する「攙和(チャンフオ)」から転じたとも、マレー語に由来するとも言われると付記しています。 それはともかく、今では「ビールと日本酒をちゃんぽんで飲む」とか、普通に使われる言葉となっています。また、『広辞苑』にも書いてあるように、長崎ちゃんぽんも有名です。 長男は、高校生の時、修学旅行で長崎に行きました。しかし、あちらで熱を出してしまい、皆がハウステンボスや長崎観光をしている間、ずっと宿で寝ていたそうです。そのため、帰宅してからの土産話は、熱が下がって最終日に食べた長崎ちゃんぽんだけでした(笑。 ほぞ穴のある礎石(臥龍山荘) 長崎ちゃんぽんは、中国の福建料理をベースにしています。そして九州には、長崎から派生したご当地ちゃんぽんが、いくつかあるようです。また、鳥取県や島根県には、あんかけちゃんぽんがあり、兵庫県姫路では、焼きそばと焼きうどんを混ぜた料理を「ちゃんぽん焼き」と呼んだり、実はいろいろなちゃんぽんが存在します。ちなみに沖縄のチャンプルーも、意味は「ちゃんぽん」と同じもののようです。 で、「大洲ちゃんぽん」も、それらと同じ「まぜこぜ」料理で、混ぜているのは焼きそばとご飯。鉄板で、そばを刻みながらご飯と混ぜて炒めます。そう、兵庫県神戸市のB級グルメ、みんな大好き「そばめし」と同じものです。 「そばめし」の発祥は、私も行ったことがありますが、神戸市長田の「青森」という店です。この「そばめし」、1957年創業の青森初代店主・青森章子さんが、焼きそばを作っていたところ、お客さんから自分の弁当の冷やご飯を「一緒に炒めてくれないか」と頼まれたのが始まりだそうです。 一方の「大洲ちゃんぽん」は、1953年創業の「美ゆき」というお店で誕生しました。こちらは、お客さんから「焼き飯と焼きそばを一度に焼いてくれ」と言われたことが始まりだと、お店の方が話しています。 料理の起源譚でよく知られているものに、カツカレーがあります。読売巨人軍の千葉茂選手は、試合前によく銀座の洋食店「スイス」でカレーとカツを食べていました。1948年

衝撃のトンテキ - 山田ヒロキチ商店(和歌山県岩出市)

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和歌山県岩出市に、山田ヒロキチ商店というお店があります。 山田ヒロキチさんがやっているお店かと思いきや、山田洋充(ひろみつ)さんのお店なんです。 山田さんは以前、歯科技工士をしていたそうです。ただ、20代後半になって、自分の人生を生きたいように生きようと決意。父子家庭で小さい頃から自炊をしていたこともあって、料理が好きだった記憶がよみがえり、料理人になることにしたのです。 そう、山田ヒロキチ商店は、洋食屋さんなのです。で、看板メニューは、写真の「特製たっぷりキャベツとガーリックの濃厚トンテキ」。ご覧頂いて分かるように、ガーリックがたっぷりのった、インパクト抜群のトンテキです。 そもそも、2012年の開店当初は、ごく普通のトンテキだったそうです。ただ、ランチタイムの限定メニューだったところ、まかないで食べたスタッフが絶賛し、レギュラーメニューに転換。その際、見た目にインパクトを持たせてようと、ガーリックスライスとキャベツの千切りを今のような山盛りにしたとのこと。 すると、そのインパクトに、お客さんがスマホで写真を撮ってSNSにアップ。ネットで拡散することで、遠方からわざわざ食べに来る人が急増。それがまた評判になり、ついには、車で来店する客のために、専用駐車場のある現在の場所へ移転することになったとか。 もっとも、山田ヒロキチ商店は、ただのウケ狙いの店ではなく、6年間、和歌山市の老舗洋食店を始め、和、洋、中などさまざまな料理の修行をして独立しただけあって、料理はもちろん接客もしっかりしています。山田さん自身、「洋食店の親方からは、レシピでなく舌と感覚で覚えるように言われ、洋食の味の命とも言えるドビソース(デミグラスソース)の作り方を教わりました。また、店の回し方や接客の楽しさも学びました」と話しています。 ちなみに、山田ヒロキチの「ヒロキチ」は、山田さんのあだ名で、修業時代、周囲から「ヒロキチ」と呼ばれていたことから、そのまま店名にしたそうです。 岩出で取材したのは、もちろん特製トンテキではなく、根来塗でした。根来塗は鎌倉時代から室町時代にかけ、根来寺の僧侶らが、仏具や什器として作っていた漆器です。で、根来寺は、覚鑁上人(かくばんしょうにん/興教大師)によって開創された新義真言宗の総本山で、室町時代末期には450もの坊舎に僧侶など5000人以上が起居していたと言われ、根

西日本豪雨の被災地・真備を訪ねて

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前回のブログで書いた八戸取材を終えた私は、東京駅で東北新幹線から東海道新幹線に乗り換え、そのまま岡山へ入りました。移動時間約7時間、岡山のホテルにチェックインしたのは23時近くで、さすがに疲れました。 翌日は朝から、西日本豪雨で大きな被害を受けた倉敷市真備の取材でした。 2018年7月、広島、岡山、愛媛の3県を始め、西日本各地は未曾有の豪雨災害に見舞われました。気象庁は7月6日夕方に長崎、福岡、佐賀の3県に、続いて同日深夜までに広島、岡山、鳥取、京都、兵庫、翌7日には岐阜、更に8日に高知、愛媛と、実に11府県に大雨特別警報を発表。「これまでに経験したことのないような大雨」「重大な危険が差し迫った異常事態」「重大な災害が既に発生していてもおかしくない状態」と、繰り返し警戒を呼び掛けました。 しかも西日本豪雨では、大雨による増水や浸水ばかりではなく、山の斜面崩壊による土石流や、河川の堤防決壊による洪水、貯水の限界に達したダムからの放流量の増加による下流域の氾濫など、あらゆるタイプの災害が広範囲で多発。消防庁の集計で死者263人、行方不明者8人という大惨事となり、平成最悪の水害と言われました。 真備町は7日朝までに小田川と支流の末政川の堤防が決壊し広範囲で冠水。国土地理院の推定によると、浸水の深さは広い範囲において3~4m、最大5mに達したといいます。浸水面積は真備町の約4分の1とされますが、中心街の有井地区や官公庁が集まる箭田(やた)地区など、住宅や事業所が集中する地域が水に浸かっており、世帯数で見ると半数以上の4600戸が被災。市町村単位では最も多い51人の方が亡くなられました。 真備には、豪雨災害から1週間の7月14日に一度訪問しており、今回が2回目でした。前回は、岡山から車で入りましたが、途中、復旧・復興関係の車で大渋滞を起こし、それを横目に高梁川に架かる橋を歩いて渡るボランティアを見ていたので、このルートを使ってみることにしました。まず岡山から清音駅へ向かい、ここで自転車を借りることにしました。 事前に、駅前の自転車屋さんに予約を入れていたのですが、清音駅の改札を出ると、たくさんの自転車が置いてあり、無料で貸し出しをしていました。ただ、私は予約をしていた手前、とりあえず自転車屋さんへ向かいました。 ところが、その自転車屋さんのおばあさんがまたいい方で、駅前に無料

ユネスコ無形文化遺産・三社大祭の古里で朝ごはん

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毎年7月31日から8月4日までの5日間、八戸の街が祭りの熱気に包まれます。この期間の人出は100万人以上。それが、およそ300年の歴史と伝統を誇る、国の重要無形民俗文化財「八戸三社大祭」で、2016年にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・山車行事」に登録されました。 三社とは、法霊山龗(おがみ)神社、長者山新羅神社、神明宮の三つの神社のことで、見どころはこれら三社の神輿行列と、神話や歌舞伎などを題材に各山車組が毎年製作する27台の山車の合同運行です。山車は高さ10m、幅8mもあり、夜の運行ではライトアップされた山車が夜空に浮かび上がり、より一層、豪華さを増すことになります。 一昨年、この三社大祭を見る機会がありました。青森県八戸市吹上にある独立行政法人国立病院機構八戸病院に、八戸三社大祭の山車が訪問する様子を取材するためでした。 八戸病院は1934年に八戸市立結核療養所として創設され、47年に国立八戸療養所として発足。その後69年に重症心身障害児病床を併設、予防法や治療法の発達で結核発症が大幅に減ったことを受け、2003年に結核病棟を閉鎖し、翌年から独立行政法人国立病院機構八戸病院として、国が担うべき医療と定められた政策医療分野の一つ、重症心身障害の専門医療施設となりました。現在、リハビリテーションを含め、約150人の重症心身障害児(者)が入院しています。 訪問活動をアレンジしているのは、八戸中央ライオンズクラブで、八戸病院の嘱託医として入院患者の診療を担当する会員らの提案により、約50年前から実施しています。当初は、入院患者たちを三社大祭の見学に招待していましたが、患者の中には重い身体的な障害を持つ人も多いことため、4年目には山車の方から病院に来てもらうことを計画。会員が関係する山車組に依頼し、病院への三社大祭山車訪問が実現することになりました。その後、十数年前から、病院と同じ町内の吹上山車組が協力してくれるようになり、毎年欠かさずに三社大祭の山車訪問が続いています。 吹上山車組は、山車審査で常に上位を占める有名山車組で、2016年までは10年連続最優秀賞を受賞したこともあります。吹上山車組の方の話では、山車の製作は例年、5月の連休明け頃から始めるそうです。しかも、青森ねぶたなどと違い、八戸三社大祭の山車製作には山車組関係者自らが当たり、本業を終えてから集合して作り上

近江商人を輩出した湖東の町 - 近江八幡、八日市、五箇荘

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松前をテーマにしたブログ( 北前船が行き交った最北の城下町 )で、近江商人に触れましたが、松前や江差に入った近江商人の出身地は、ほとんどが近江八幡でした。近江商人の中でも八幡商人は、北は蝦夷(北海道)から南は安南(ベトナム)までという広範囲を行商して、各地に出店をつくり、近江商人の名を高めました。 この近江商人という言葉ですが、もともとは他国の人からつけられたものです。他にも富山商人、甲州商人、紀州商人、伊勢商人、大坂商人などの呼び名がありますが、これらはいずれも地名を冠してそう呼ばれたもので、それぞれの商いの仕方で、日本の商業を発展させてきました。 これらの商人のうちで、近江商人の特色としてあげられるのは、第一に行商形態をとったこと、第二に全国各地に出店したこと、第三に営業種目が多岐にわたっていたこと、そして第四に合理的な経営を心がけたことです。特に天びん棒が近江商人のトレードマークと言われるように、自ら天びん棒を担いでの行商が、彼らの商いのルーツとなります。 天びん棒には矢立や帳面、商品見本などが入った行李が結わえられていました。そして菅笠をかぶり、木綿の着物に粗末な合羽を羽織り、足元は脚絆に足袋、草鮭をはいて、何日も歩き続けました。そして商品はまとめて、馬や荷車で定宿に送っておき、そこを拠点に売り回ったのです。 更に、彼ら近江商人の大きな特徴となっているのが、いわゆる「ノコギリ商法」の敢行です。行商の時、郷里や上方の産物を、主に中山道を中心として地方に持ち下り、商品を全て売りつくすと、帰りは手ぶらでは帰らず、その地方の産物を仕入れ、国元や上方地方で売りさばきました。これによって行商先の人々も潤い、国元でも地方の特産が手に入り喜ばれました。 八幡商人のふるさと近江八幡は、琵琶湖の東岸にある豊臣秀次20万石の城下町です。1585(天正13)年、叔父の秀吉から八幡山城主に任命された18歳の秀次は、本能寺の変の折に混乱の中で焼失した安土城下の人々を、そっくり近江八幡に移して新しい町を造り上げました。 横筋4通り、縦筋12通りの碁盤目模様の町並みや八幡堀を造営。特に長さ6kmに及ぶ、琵琶湖と直結した八幡堀は、明治、大正の頃まで商工業の動脈としての役割を果たし、今も旧城下町のシンボルになっています。また、べんがら格子の商家や白壁の土蔵が建ち並び、今にもマゲ姿の商人たちが格