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「奥羽三楽郷」と称された上山温泉郷のあれこれ

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上山温泉は1458(長禄2)年、足を痛めた一羽の鶴が、この湯で傷を癒やしているのを見た旅の僧、月秀により発見されたと伝えられます。室町時代の1535(天文4)年には武永義忠によって上山城が築城され、その後、羽州街道の開通により共同浴場や旅籠が建ち並ぶようになりました。 上山は城下町、宿場町、温泉町として大いに栄え、「奥羽三楽郷」と称されるほどでした。その名残は、今も町のあちこちに見られます。 また上山には九つの坂があり、坂の温泉郷として独特の情緒をかもし出しています。坂を上り、また下ると、市内のいろいろな名所や温泉街に行き着くことが出来ます。 これらの坂の結節点に上山城があります。上山城はその姿の美しさから「奥州の名城」と称えられていましたが、幕命により1692(元禄5)年に取り壊され、1982(昭和57)年、国立公文書館に残されていた「出羽之国内上山絵図」に基づき再建されました。城が壊された後、城の北側で温泉が発見され、その新湯が今では上山温泉の中心となってます。更にその後、あちこちに温泉が開かれ、今では湯町、新湯、十日町、高松、葉山、河崎の六つの温泉があり、それらを総称して上山温泉郷と呼びます。 上山は、山形市の南隣にあり、山形新幹線かみのやま温泉駅の開業もあって、年間70万人の観光客が訪れるようになりました。ただ、ちょうどバブル崩壊と重なったため、一時は景気低迷の影響などもあり、年々利用客が減り続け、50万人台にまで落ち込みました。 そこで、上山市観光協会が、足湯を増設し、観光の新たな目玉にしようと考え、2003年から商工会、地区会長会、旅館組合などの各団体に呼び掛け「足湯建設実行委員会」を設立。足湯の建設費用は企業や市民から寄付を募りました。その結果、五つの足湯が誕生。全て無料で開放されています。 また上山では2008年から、里山や温泉といった地域資源を生かしたクアオルトによる町づくりがスタート。現在、市民の健康増進と観光集客の二つの効果で町を元気にする「上山型温泉クアオルト」として取り組まれており、これらのかいあって、再び観光客は70万人台に戻ることになりました。( 「自然の恵みに体も心も喜ぶ上山型温泉クアオルト - 上山」 ) ところで、この足湯、いったいどんな効用があるんでしょう。ちょっと調べてみたところ、「体が温まり、眠りやすくなるので不眠症や低血圧

これなくして冬は語れない - 庄内の郷土料理・寒鱈汁

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酒田市は山形県北西部、1672(寛文12)年に西廻り航路が整備されると、最上川舟運と結び付いた米の一大集散地となり、日本海沿岸有数の港町として発展しました。その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」とも言われ、井原西鶴の『日本永代蔵』に登場する廻船問屋の鐙屋や、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡にうたわれた本間家などの豪商が活躍。更に明治に入ると、庄内平野の米作地帯を背景に米取引が盛んとなり、1893(明治26)年には米の貯蔵庫として山居倉庫が建てられました。 山居倉庫は米どころ庄内のシンボル的存在で、間口13.6m、奥行き約29mの建物が12棟連なっています。そのうち9棟は現役の米保管倉庫となっており、現在は最新空調システムが付いていますが、建てられた当時は土木建築技術の粋を集め、庄内の気候に合わせた機能性を持たせていました。その一つが、倉庫内を一定の温度に保つための二重屋根で、他にも土蔵と屋根の間を空けることで温度と湿度が急激に上昇するのを防ぐなどの工夫が凝らされていました。また倉庫裏にあるケヤキ並木は冬の風雪から倉庫を守るために植えられたもので、夏には生い茂った葉が西日をさえぎる役目を果たします。 ちなみに山居倉庫は、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」の舞台としても知られます。「おしん」は平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録し、世界68カ国で放映されるなど、テレビ史に残るヒットとなりました。 そんな酒田市へ行ったのは、2017年1月27日のことでした。酒田までは飛行機を使った方が若干早いのですが、自宅からだと上越新幹線で新潟を経由しても、30分程度しか違わないので、金額的には半分以下のJRを使うことにしました。北へ向かう新幹線の場合、私は上野か大宮から乗るのですが、この時は大宮から乗車。新潟までは約1時間15分、新潟からは羽越本線の特急いなほで酒田へ向かいます。 新潟から酒田までは、2時間少々ですが、この日は強風の影響で列車が遅延。途中で停車したり徐行したりで、酒田到着は50分ほど遅れました。2005年12月25日に、この区間で強風によって乗客5人が亡くなる脱線事故があってから、強風時の運行にはかなり慎重になっているようです。予定していた取材があったため、やきもきしましたが、地元の方が駅で待機していてくださり、酒田に到

岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬

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昨日のブログ(「 雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら 」)で、横手取材に当たって、往路は秋田新幹線を使って大曲経由にしたものの、復路は西和賀に立ち寄るため北上経由にしたことを書きました。で、朝、横手で人のいない武家屋敷通りでかまくらを撮影した後、北上線で「ほっとゆだ」駅に向かいました。 横手駅から、ほっとゆだ駅までは、普通列車だと6駅、快速だと3駅なのですが、なぜか所要時間は変わりません。中には、快速より1分早い普通列車もあり、不思議なタイムスケジュールです。 さて、到着したJR北上線ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。 駅前の道を70〜80mほど歩くと、鬼ケ瀬川に架かる「ほっと三五橋」に出ます。駅を背にして、橋の左側は鬼ケ瀬川が錦秋湖に注ぐ河口部になります。 錦秋湖は、北上川の治水用に和賀川の流れをせき止め、1964(昭和39)年に完成した湯田ダムによって形成された人造湖です。その名の通り、秋には錦色に燃える紅葉が湖面を彩ります。また、雪解け水が流れ込み、豊かな水をたたえて新緑に染まる春も、美しい姿を見せるそうです。 その一方、私が行った冬は、湖が全面結氷して、カンジキを履いて湖畔を歩くツアーが開催されたりしています。 西和賀町は雪の多い岩手県の中でも豪雪地帯と言われる地域で、家の屋根から雪が大きくはみ出していたり、看板が大きな白い帽子をかぶっていたり、関東では絶対にお目にかかれない光景に遭遇しました。そんなわけで、全面結氷の湖を撮影するつもりで降り立ったものの、雪が多すぎるため、目の前にはただの雪原が広がるだけでした。 当初の目論見では、次の列車が来る2時間で錦秋湖の雪景色を撮

雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら

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横手市は秋田県南部、東北新幹線の岩手県北上駅から北上線で横に約1時間10分、山形新幹線の山形県新庄駅から奥羽線で約1時間30分の場所にあります。ただ、東京方面から行く場合は、秋田新幹線で大曲まで行き、そこで奥羽本線に乗り換えることも出来ます。 例えば、10時台で検索すると、東北新幹線は東京10:36→北上13:32/13:40→14:51横手(4時間15分13,960円)、山形新幹線は東京10:00→新庄13:31/14:17→横手15:45(5時間45分13,400円)、秋田新幹線は東京10:20→大曲13:35/13:42→横手14:01(3時間41分17,110円)ということになります。距離では北上経由が548.6km、新庄経由が501.1km、大曲経由は629.6kmと、新庄経由が一番近いのですが、最寄り駅まで新幹線で行けるかどうかや、乗り換え時間などにより、所用時間はだいぶ違ってしまいます。 で、私の場合、往路は秋田新幹線で大曲経由、復路は西和賀に立ち寄るために北上経由を選択しました。 さて横手に行ったのは、2月15、16日の雪まつりのためです。横手の雪まつりでは、雪を丸く固めて中を繰り抜いた「かまくら」が、市内のあちこちに出現します。会場は横手城のある横手公園など4カ所があり、全部で100を超えるかまくらが作られるそうです。中でも黒塀の武家屋敷通りがある羽黒町と、昔ながらの雰囲気を感じさせる二葉町のかまくらが人気です。また市内の小学校の校庭では、無数のミニかまくらにろうそくが灯り、幻想的な光でいっぱいになります。 かまくらは小正月にしめ縄などを焼く左義長と、井戸の側の雪穴に水神を祭る風習が結びついたものと言われています。戦後は「ぼんでん」の神事と共に雪まつりとして開かれ、多くの観光客が訪れるようになりました。 高さ3m近いかまくらは、市観光協会認定の「かまくら職人」が作ります。夕闇と共に、それらのかまくらやミニかまくらに灯がともると、まるで童話の世界のような光景が展開します。そして、かまくらの中からは子どもたちが「はいってたんせ(入ってください)」「あがってたんせ(召し上がってください)」と声を掛け、甘酒や餅を振る舞ってくれます。 私の目的は、こうした伝統行事の風景を撮影することでしたが、予想以上に観光客が多い上、明るい場所は情緒がなく、情緒のある所は暗

太古からの森に抱かれた「妖精と出会えるまち」

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大学時代の友人が、一時、札幌に単身赴任していたことがあります。東京生まれ東京育ちの彼にとって、冬の北海道はさぞ辛かろうと思いましたが、そんな心配はどこ吹く風。こちらが拍子抜けするくらい、札幌ライフを楽しんでいました。 ある時、その友人が、札幌の冬を表現して、「しんしんと雪が降るんだぞ」と言ったことがありました。実感のない私が、ふんふんと聞いていると、それを察した彼は、「本当に、しんしんと降るんだぞ、分からないだろうなあ」と、哀れむような目で私を見ました。そんな夜、彼は一人、部屋で本を読みながら過ごすのだ、とも話していました。 その頃にはだんだんイメージがふくらみ、何か彼だけ、人生が豊かになっているような嫉妬心を覚えたものです。 上の写真は、そんな冬の北海道の典型的な風景を切り取ったものです。撮影地の北広島は、友人が住んでいた札幌と隣り合わせ。札幌までは快速電車で16分、新千歳空港までは20分という場所にあります。 その北広島を、地元の方に案内して頂いたことがあります。札幌に近い場所は、住宅展示場と見紛うようなしゃれた家並が続いていました。当時は、札幌のベッドタウンとして宅地化が進み、人口が増加している頃でした。 また、札幌という大消費地を控え、農業も野菜などの近郊農業が中心でした。第一印象は、「何だか北海道らしくない街」でした。この辺を歩いている限り、とてもこれぞ北海道的な写真が撮れるとは思えませんでした。 ところがどっこい、北広島には、特別天然記念物・野幌原始林の一部を含む広大な森が、市の中心部にあります。東京なら、車で2時間は走らないとお目にかかれないような豊かな自然が、駅から歩いてすぐの場所にあるのです。 更に、郊外に出れば広々とした牧草地や耕作地もあり、まさに北海道らしい風景が広がっています。そこに「しんしん」と雪が降れば、北海道らしくないものまで隠してくれ、道外の人間がイメージする「完璧な」北海道が出現します。 北広島は「妖精と出会えるまち」をキャッチにしています。市内にはエルフィン・ロードというサイクリングロードも整備されています。ゆっくり自転車で回ってみたい土地です。 ※北海道の開拓時代を物語る「旧島松駅逓所(国指定史跡)」は、クラーク博士が帰国の際、見送りに来た生徒たちに「Boys be ambitious」の名言を残した地でもあり、また寒地稲作発祥

火山と森と湖。手つかずの大自然が残る阿寒国立公園

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阿寒国立公園は「火山と森と湖」の公園と呼ばれます。公園内には、2006年の春分の日に噴火した雌阿寒岳(1499m)や、雄阿寒岳(1371m)、阿寒富士(1476m)と三つの活火山があります。周囲にはマリモで有名な阿寒湖や、ペンケトーとパンケトー、それに神秘の湖と呼ばれるオンネトーなど、これらの火山による堰止め湖が点在し、それらを包むように深い原生林が広がります。こうした阿寒の森は、アカエゾマツ、トドマツなどの常緑針葉樹と、ミズナラ、カツラなど落葉広葉樹とからなる針広混交の森となっています。 また、阿寒湖温泉と野中温泉(雌阿寒温泉)という、二つの温泉地を持っています。阿寒湖温泉の方は完全に観光地化していますが、雌阿寒温泉は原生林に囲まれた静かな雰囲気を残しています。 この阿寒国立公園の中は、いくつかの拠点を結ぶ車道が整備されています。それを周回するのが一般的ですが、一つひとつゆっくり親しむと、また違ったものも見えてきます。今回は、阿寒湖と雄阿寒岳、雌阿寒岳を主体とした、公園の西側部分を紹介します。 まずは阿寒横断道路(国道241号)沿いにある双湖台に寄ってみましょう。摩周湖のある弟子屈町から来ると、阿寒湖畔温泉の少し手前にあります。ペンケ、パンケの両湖が望める展望台で、森全体が俯瞰出来ます。 阿寒の典型的な森林相を確認したら、次は雄阿寒岳登山口に向かいます。ここは阿寒湖の水が阿寒川となって流れ出る出水口です。水辺に沿って歩くと、林床には本州では高山帯に咲く花々が見られます。十分ほどで太郎湖に出ます。岩場からは清水が湧き出し、湖の縁には丸く大きな葉を持つラワンブキが密生しています。太郎湖の周辺はアカエゾマツ、トドマツなどが混生する美しい森になっています。この先は次郎湖を経由して、雄阿寒岳山頂まで約3時間半。しかし、結構傾斜が急なので、森を歩くことが目的なら、適当なところで引き返すほうが賢明でしょう。 雄阿寒岳の次は、雌阿寒岳山麓の森を探勝しましょう。阿寒湖畔から、足寄峠を越えてしばらく走るとオンネトーへ向かう道に出ます。この道は森の中に切り開かれているので、両側に美しい自然林を見ながら走ることが出来ます。 雌阿寒岳の登山口付近はアカエゾマツの美しい森が見られます。登山道はかなり急な登りがありますが、入り口から20分ぐらいの間は傾斜が緩く、また特に林相も美しいので、ぜひ散

日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

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2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

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宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました