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世界有数の大会に成長した飯塚国際車いすテニス大会

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以前、一般社団法人日本車いすテニス協会の前田恵理会長に、参加した選手たちから、「最も人情の厚い大会」と呼ばれる飯塚国際車いすテニス大会について、話を伺ったことがあります。 飯塚国際車いすテニス大会(通称ジャパンオープン)は1985年に第1回大会が開催され、2019年で35回を数えました(2020、2021年は新型コロナウイルス感染拡大に伴い中止)。大会当初は障害者の社会復帰や車いすテニス・プレーヤーの交流といったことが目的でした。しかし、回を重ねるごとに大会への認知度が高まり、世界から一流プレーヤーが参加するようになって、2004年には世界四大大会に次ぐアジアで唯一のスーパーシリーズに昇格。更に18年からは、車いすバスケットボール、車いす駅伝競走と共に、障害者スポーツとしては初めて天皇杯・皇后杯が下賜されるようになりました。 競技としての車いすテニスは、76年にアメリカのカリフォルニアで始まり、日本には82年に紹介されました。その翌年、飯塚市にある「総合せき損センター(独立行政法人労働者健康安全機構)」で、脊髄損傷者のリハビリの一つとして車いすテニスが導入されました。飯塚はかつて炭坑で栄えた街ですが、その頃は炭坑災害などで脊髄を損傷した人が多く暮らしており、せき損センターが飯塚に設けられたのもそうした背景があったようです。 車いすテニスは当初、せき損センターの体育館で行っていましたが、やがて本格的なコートで練習してみたいとなって、飯塚ローンテニスクラブに打診がありました。このテニスクラブは青少年育成のため、飯塚ロータリークラブの会員13人が出資して設立したものでした。当時はまだ、障害者スポーツが一般的ではない時代でしたが、テニスクラブは二つ返事で依頼を受諾、クラブのコートを車いすテニスの練習に開放しました。更に翌年には九州車いすテニスクラブも発足し、山口や佐賀、熊本など他県からも車いすの方たちが練習に来られるようになりました。 その後、車いすテニスクラブから、大会を開催したいという相談があり、出資者たちが所属するロータリークラブの活動として大会を開催することが決まりました。しかも、海外では車いすテニスが盛んなことから、どうせなら海外選手を招待しようという話に発展。こうして海外から14選手、国内64選手、合計78選手が参加して、第1回大会が開催されました。 大会後、選

今や海外にも広がり始めたミニバレーの発祥地 - 北海道大樹町

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大樹町は北海道の東部にあり、東は太平洋、西は日高山脈に接し、中央部に広大な十勝平野が広がっています。海、山、そして十勝平野という自然に恵まれ、町は農業を中心に漁業、林業を基幹産業として発展してきました。また最近では「宇宙のまちづくり」を掲げ、航空や宇宙分野での実験や飛行試験を積極的に誘致しています。 大樹町の町技となっているミニバレーは、そんな大樹町発祥のスポーツで、もともとは町民のための冬のレクリエーションとして生まれました。それが徐々に各地へ広がり、今では毎年ジャパン・カップが開催されるなど、道内はもとより東北や関東、南の沖縄まで普及しています。更には海外にも広まり、最近ではロシアの関係者から国際組織を作ってほしいという要請を受けるほどになっています。 ミニバレーが誕生したのは1972年。考案者は、当時、大樹町教育委員会の職員として、ママさんバレーボール教室の指導をしていた小島秀俊さんでした。小島さんによると、ミニバレーが生まれたきっかけは、教室の参加者減が要因だったそうです。 教室に参加していたお母さんたちは、「ボールが当たると痛い」とか「突き指やけがが心配」と口々に言い、練習を重ねる度に1人減り2人減りと、参加者が少なくなっていきました。どうしたらこの状況を打開出来るか悩んでいた小島さん、ある日、遊びに行った友人の家で、部屋に転がっていたビニール製のビーチボールが目に止まりました。「これなら当たっても痛くはないな。このボールを使ったらどうだろう」。そんな思いが頭をよぎりました。 早速、次のバレーボール教室の時に試してみたところ、「痛くない」どころか、ボールが顔に当たっては笑い、頭に当たっては笑い、と体育館はお母さんたちの笑顔と歓声に包まれました。しかも、ボールを思い切り打っても、当たり所によっては前に飛ばなかったり、意図せぬ変化をしたり……、それもまた「楽しい!」「面白い!」と感じる要素であることが分かりました。 そして、これを本格的に競技として取り入れることにしました。そのためにはルールから作らなければいけませんし、そもそも競技の名前も考えなければなりません。ボールはビーチボールを使うとして、他の用具は既成のもので、体育館にあるものを活用することにしました。目を付けたのがバドミントンのネットと支柱でした。バレーボールのコートはタテ18m、ヨコ9mですが、両

音楽で震災からの復興を! - みんなで歌う第九の会

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日本で第九が初演されてちょうど100年目に当たる2018年、福島県郡山市の「みんなで歌う第九の会」を訪ねました。初演というのは、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でのことで、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵による演奏でした。板東俘虜収容所は、規則の範囲で捕虜に自由を与え、地元民との交流も許していました。これには、所長を務めていた松江豊寿さんの考えが、大きく反映されていたようで、松江所長は父親が会津藩士だったため、敗者の屈辱を痛いほど理解しており、収容所でも人道的な管理を行っていたと伝えられています。 この松江さんが、福島出身ということもあり、その年は県内各地で第九の演奏会が続いていました。郡山の「みんなで歌う第九の会」でも、このエピソードに思いを馳せ、もう一度初心に返って、第九の持つ精神性をかみしめたいと、演奏会に向けて練習に取り組んでいるところでした。 東日本大震災で、福島県は沿岸部の津波被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が広がったことで、山間部の浜通り北部や、郡山市を含む中通りも影響を受けました。震災から時が経っても沿岸部や浜通り北部の方たちは避難生活を余儀なくされ、しかも放射能汚染の風評被害もあり、福島県全体が沈滞ムードに包まれていました。そこで、復興の意欲を音楽で示そうと、「みんなで歌う第九の会」を設立することになったそうです。 ベートーヴェンの交響曲第9番は、日本では親しみを込めて「第九」と呼ばれることが多く、特に合唱を伴う第4楽章は冬の風物詩と言えるほど、年末になると日本各地で演奏されています。この第4楽章は「歓喜の歌」という名で親しまれていますが、歌詞にはドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」が抜粋され、冒頭部分はベートーヴェン自身が作詞したものです。歌詞には友愛や喜びといったテーマが込められており、欧州評議会が、ヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」としている他、統一性を象徴するものとしてEUの歌にも採択されています。 「みんなで歌う第九の会」代表の作田秀二さんによると、第九の会の設立は、震災後、家族や友人たちとの絆が強く求められるようになる中、第九のテーマである友愛こそ、この状況にふさわしいと考えたからだといいます。 作田さんは高校時代に合唱に出会い、大学時代も合唱部に所属。社会人になってからも、月1回のボイストレーニン

住民主体の「おもてなし」行事・真壁のひなまつり

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桜川市の南東に連なる筑波山・足尾山・加波山は「常陸三山」と呼ばれ、古くから茨城の山岳信仰の中心地として知られていました。筑波山は、日本百名山の一つに数えられ、江戸時代には「西の富士、東の筑波」と言われ、富士山と並び称されました。足尾山の山頂には足の病を取り除き、足を丈夫にするという足尾神社があり、多くの履物やギプスなどが奉納されています。修験道の山として知られる加波山では、今も山伏の修行である禅定が行われます。また加波山は、明治時代に起きた反政府運動「加波山事件」の舞台でもあります。 この常陸三山では良質な花崗岩を産出し、そのふもとにある桜川市真壁町は、昔から石材の産地として名を馳せてきました。また採石だけではなく、石の加工も行われ、真壁で造られる「真壁石燈籠」は、国の伝統的工芸品に指定されています。 真壁は、戦国時代に真壁氏が城を築き、今につながる町割りが形成されました。その後、豊臣政権五奉行の筆頭で、関ケ原の戦いでは家康を支持した浅野長政が、隠居料として真壁に5万石を与えられ、真壁藩初代藩主となって城下町を完成させました。枡形と呼ばれる城下町特有の町割りは、今も当時の面影を伝え、国の伝統的建造物群保存地区に指定されているエリアでは、約100棟が国の登録有形文化財になっています。 2003(平成15)年、伝統的建造物群保存地区の真壁地区で、自宅や店にひな人形を飾る活動が始まりました。最初は数人の有志が、真壁に来た人を何とかもてなしたいと企画したものでしたが、それを見ていた町の人たちが、自主的にひな人形を飾り始めました。初の試みにもかかわらず、数人で始めたものが、3月3日のひな祭りの頃には約40軒になっていたといいます。 そして2年目以降、ひな人形を飾る家や店舗は次々と増え、今では約180軒が、それぞれのおひな様を飾るようになり、観光客も年々増えて10万人に及ぶ規模になりました。更には、「真壁のひなまつり」の盛況ぶりが周辺にも広がり、最近は県内あちこちで同様の企画が開催されるようになっています。 こうして、今や茨城を代表する春の風物詩に成長した「真壁のひなまつり」ですが、そもそもは「真壁に来る人をもてなしたい」という住民の思いから始まったものです。そのため、多くの住民が外から来た人に声掛けし、真壁の歴史や町のことを話してくれます。そんな「おもてなし」の心こそが、「真

佐賀県を代表する民俗芸能・面浮立

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政府は現在、盆踊りや念仏踊りなど、地域の歴史や風土を反映して伝承されてきた民俗芸能「風流踊」を、ユネスコ無形文化遺産に提案しています。既に2009年、風流踊系の「チャッキラコ(神奈川県三浦市)」が登録されており、今回はこれに国指定重要無形民俗文化財となっている全国各地の風流踊40件を加えて、「風流踊」として拡張記載を再提案。ユネスコでの審査は、今年11月頃に行われる予定です。 この風流踊の流れをくむ民俗芸能が、佐賀県鹿島市にもあります。県の重要無形民俗文化財に指定されている「面浮立」です。「浮立」の由来は、もちろん「風流」で、佐賀県南西部に多く見られます。この辺りの浮立は、鬼の面を被って踊るのが特徴で、そのため「面浮立」と呼ばれます。そして、面浮立を踊る際に使う面を浮立面と言います。 鹿島錦の取材で、この地を訪れた時、地元の方が浮立面を彫っている方の工房に連れて行ってくれました。 浮立面は木彫りの面で、素材は佐賀県の県木である楠を始め、桐や檜などを使います。同じ鹿島でも、地域によって表情が微妙に異なりますが、阿吽の面相を一対とするのは、共通しています。「阿」が雌面、「吽」が雄面で、雌面は角がほとんどなく、額にV字の皺があり、雄面は角が長く、額にU字の皺があります。 浮立面は、2003年に、佐賀県の伝統的地場産品に指定されました。現在、浮立面を制作している工房は、杉彫と中原恵峰工房の2軒で、いずれも鹿島市にあります。杉彫の4代目小森恵雲さんは、2002年に佐賀県マイスターに認定され、2015年には、中原恵峰さんと共に、国土緑化推進機構の「森の名手・名人」に認定されています。 この浮立面をかぶって踊る面浮立には、いろいろ種類があって、その中で、県の重要無形民俗文化財に指定されているのは、鹿島市の音成(おとなり)面浮立と母ケ浦(ほうがうら)面浮立の二つになります。音成が、最も古い形を残していると言われる面浮立で、母ケ浦は、鬼面芸として完成された芸と構成を持っているとされます。佐賀県には、他にも面浮立がありますが、この音成系と母ケ浦系の2種類に分かれるようです。 音成浮立と母ケ浦浮立を見分ける上で分かりやすいのは、衣装の違いになります。音成は濃紺1色で帯と太鼓のひもが黄色なのに対し、母ケ浦は波といかりの華やかな模様の衣装になっています。他にも、曲目の違いや動きの違いなどがあ

北原白秋の古里「水郷柳川」をどんこ船で下る

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「水郷柳川」として知られる柳川市は、福岡県南部、九州一の大河・筑後川が、有明海へ流れ込む河口に開けた町です。有名な有明海の干潟は、筑後川によって運ばれてきた大量の土砂や阿蘇の火山灰など、微細な土によって形成されました。現在でも、筑後川河口付近では、1年間に約10mの割合で、干潟が成長していると言われています。  こうした自然の営みに、柳川の人たちはうまく調和し、干潟に掘割を切って排水を促し、掘った土を盛って陸地化してきました。しかも堀割は、干拓事業のための水路として、灌瀧用水路として利用するだけではなく、立花氏12万石の城下町として、城を防御する城堀の役割を果たしていました。 柳川には、中心部の2km四方だけで、60kmもの水路が張り巡らされています。柳川市全体で見ると、水路の総延長は930kmにもなるそうで、柳川の水路面積は、道路面積をしのいでいるといいます。まさに「水郷柳川」と呼ぷにふさわしい状態です。 柳川を「水郷」と呼んだのは、北原白秋でした。白秋(本名隆吉)は、1885(明治18)年、沖端村(現・柳川市沖端町)の造酒屋・北原家の長男として生まれました。白秋が生まれた明治時代には、掘割は城を守る役割を失い、人々の暮らしの場としての性質が強まっていました。 掘割に面する家々では小舟を持ち、掘割を移動手段として使っていました。また、農村から川船で野菜を売りに来たり、有明海に面する熊本や長崎、佐賀など他県からの物品が、柳川で川舟に積み換えられ運ばれたりして、舟運も発達しました。また、炊事・洗濯などにも、掘割の水が使われ、人々の日常生活と水路が密接につながるようになっていました。 そんな時代に生まれ、高校まで柳川で暮らした白秋は、写真家田中善徳との共著である水郷柳川の写真集『水の構図』の中で、古里柳川について、次のように書いています。 「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った。・・・」 地元の中学伝習館に進んだ隆吉少年は、「白秋」という号で短歌を作り始めます。しかし、教師との対立から中学を中退、早稲田大学英文科予科に進みます。その後、与謝野鉄幹に誘われ『明星』に参加し、学業の傍ら詩作に励みます。そして、1909(明治42)年に処女詩集「邪宗門」を発表します。 更に

北前船と金毘羅詣、そして鉄道の町として栄えた多度津

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昨日の琴平町と共に、今日の多度津町も、以前、記事にしていますが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、その際はB級グルメの鍋ホルうどんが中心だったので、改めて今回、多度津について書いてみたいと思います。 前の記事でも少し触れましたが、多度津は、室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えました。その後、豊臣秀吉の四国征伐で香川氏は滅びますが、江戸時代になって、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄えることになりました。 ところで、昨日の記事( 上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる )で、十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』を取り上げましたが、弥次さん北(喜多)さんは、多度津にも来ています。大坂から丸亀まで船で渡り、こんぴらさんに参詣した二人は、善通寺と弥谷寺にもお詣りして、多度津から丸亀へ戻ります。 『続膝栗毛』の初編が発表された1810(文化7)年当時は、大坂と丸亀を結ぶ金毘羅船が一般的でした。人々は、丸亀の宿に荷物を預けて金毘羅宮へ詣で、また丸亀から大坂へ戻りました。なので、弥次北も、多度津から大坂へ直帰するのではなく、丸亀へ戻って荷物をピックアップしてから、大坂へ帰ったのでしょう。 多度津藩は、1694(元禄7)年、丸亀藩から分封されて成立しますが、藩主は丸亀城の部屋住みで、多度津には少数の家臣が住んで藩政を執り行っていました。多度津に陣屋が置かれたのは、4代藩主京極高賢の時代になってからのことで、次の5代高琢は、桜川の河口港だった多度津湛甫を、4年にわたる大工事の末、1838(天保9)年に立派な港へと変貌させます。 これにより多度津は、讃岐一の良港となり、北前船の基地として発展。讃岐三白と言われる塩や綿、砂糖などを積んで、日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯や肥料などを持ち帰りました。その結果、廻船問屋を始め、万問屋や干鰯問屋など、さまざまな問屋が軒を連ね、多度津は活況を呈します。 また、九州や中国、北陸地方など日本海側の人たちが、北前船で多度津に上陸し、金毘羅宮を目指すようになります。金比羅宮への参詣には、主にこんぴら五街道と呼ばれる道が使われましたが、中でも途中に善通寺がある多度津街道は、信仰の道として多くの人が利用し、多度津の浜には船宿や旅籠が建ち並びました。 更に1889(明治2

上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる

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綾川町で取材をした際、琴平町に宿をとり、夕食のため町を散策しながら店を探した話( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )を、以前の記事で書きました。ただ、その記事では、骨付鶏がメイン・コンテンツになっていたので、はしょりましたが、琴平と言えば「こんぴらさん」です。 というわけで、今回は金毘羅宮のお話です。 金毘羅宮は、標高538mの象頭山に鎮座し、門前町から本宮まで785段の石段が続きます。奥宮までは、更に583段上らなければならず、本宮までと合わせると1368段となります。ちょうど1カ月前の記事( 立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す )で、参道が1015段の山寺について書き、ついでに日本一は熊本県美里町にある金海山大恩教寺の釈迦院に通じる3333段の石段だと付記しました。 ちなみに、神社に限ると、山形県・羽黒山神社の参道2446段が日本一で、金刀比羅宮はその次、第2位となるようです。また、本宮までの石段は、実際には786段らしいのですが、これだと「7(な)8(や)6(む)」で語呂が悪いと、本宮手水舎の手前で参道を一段下げることで「悩みを落とし」、785段になったと言われています。 ところで、「全ての道はローマに通ず」じゃないですが、江戸時代には、「讃岐の道は金比羅に通ず」と言われるほど、多くの参詣者がありました。それも、讃岐の人だけではなく、全国から人が集まったのです。当時のことですから、瀬戸大橋も明石海峡大橋もありません。当然、本州からは船になります。 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』はシリーズもので、最初の1冊は、1802(享和2)年に発表された『浮世道中膝栗毛』でした。これは、ご存じ弥次郎兵衛と北八の箱根紀行でしたが、これが評判を呼び、翌年『東海道中膝栗毛・後編』が出ると、そこから「三編」「四編」と毎年1冊ずつ発表され、結局、「八編」まで続きました。十返舎一九は、ここで「膝栗毛」は終了としたのですが、発行元が黙っていません。 実は十返舎一九、若い頃、大坂にいたことがあり、ある時、用事で高知へ行ったついでに象頭山に参詣し、善通寺、弥谷寺(71番札所)を回ったそうです。それを知っていた発行元は、金毘羅さんへの紀行を書けと再三にわたって要請。これを断り切れなくなった十返舎一九先生、とうとう『金毘羅参詣続膝栗毛』として、1810(文化7)

三次浅野藩と赤穂浪士の絆求めて

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三次市は、三つの川が合流して、中国地方第一の大河・江の川となる辺りに開けた地域で、古くから交通の要衝として知られていました。今も山陰・山陽を結ぶ交通の要で、広い商圏を抱えていますが、特に江戸時代は、鉄の産地出雲につながる出雲往来などのポイントとして、重要視されました。 この辺り一帯は、秋から春にかけて、川が運ぶ冷気の影響で、濃い霧が時々発生します。夜半から朝まで漂う「霧の海」は、観光の呼びものの一つになっていますが、昔は往来を妨げ、山道の通行を難儀なものにしました。このため、江戸時代、出雲への道は、東海道並みの道幅に広げられ、一里塚も置かれたといいます。 三次市は、江戸時代、広島・浅野藩の支藩である三次藩の城下町として栄え、四十七士の討ち入りで知られる元禄赤穂事件とも深い関わりがあります。 三次の地は、もともと三吉氏が代々領地としていたもので、16世紀末に、今の尾関山公園の北方にそびえる比熊山一帯に山城が築かれました。その後、この城は廃城となり、関ケ原の戦いの後、安芸国に入封した福島正則が、重臣・尾関正勝にこの地を治めさせ、尾関氏は江の川を見下ろす尾関山に館を構えました。そして、1619(元和5)年、福島正則の改易に伴い、浅野長晟が安芸に入封しました。 今から390年前の1632(寛永9)年、長晟が没し、嫡男光晟が家督を継ぎます。しかし、当時、光晟が17歳という若さだったこともあって、幕府は、光晟の庶兄に当たる浅野長治に5万石を分与する処置をとらせて、本藩を手助けさせることにしました。こうして三次藩が成立し、長治は、三次の町全体を一つの曲輪(郭)に見立て、4代にわたってこの地を治めました。 元禄赤穂事件でおなじみの浅野内匠頭長矩の正室阿久利姫(揺泉院)は、この三次藩初代藩主浅野長治の次女にあたります。二つの浅野家は、長矩の高祖父にあたる長政から分かれたもので、同族ということになります。 二人の縁組は、長矩が10歳、阿久利が7歳の時に幕府から許可され、長矩17歳、阿久利14歳の時に結婚。この時、赤穂藩からは、家老の大石内蔵助が迎えに来ました。大石、時に24歳。まさかに、19年後、主君の仇討ちということになるなど、思いようもありません。大石は、長治の建てた鳳源寺に詣で、境内にシダレザクラを植えました。今に残るこの桜は、両家の繁栄を願ってのものだったでしょう。 阿久利は、

白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな

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倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。 倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。 裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。 この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。 流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。 もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。