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遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ

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この3月1日から東京国立博物館で、「縄文時代の祈りの道具・土偶」が展示されています。縄文時代の祈りの道具の代表「土偶」を取り上げたもので、9月4日まで、約半年にわたって平成館考古展示室に展示されます。 展示品は、東北や関東で出土した土偶など17件で、重要文化財4件、重要美術品2件が含まれます。中でも青森県つがる市木造亀ケ岡遺跡から出土したものが多く、しかもそのうちの遮光器土偶と土面は重文、猪形土製品が重美となっています。 そのつがる市木造に友人がおり、だいぶ前に訪問させてもらったことがあります。北海道函館での取材後、青森にも仕事があり、その時、友人が迎えに来てくれ、つがる市の友人の所にお邪魔しました。 友人は、車で迎えに来てくれたんですが、自宅から800mほどの所にある駅へわざわざ連れて行ってくれました。鉄道マニアでもないので、なんで?と思ったのですが、駅前に着いて理由が分かりました。 写真の通り、駅舎の前面に、遮光器土偶の巨大オブジェが張り出していたのです。 なんでも1987(昭和62)年の国鉄分割民営化で木造駅の無人化が決まる中、なんとか駅を中心とした活性化策をと、ふるさと創生事業の1億円を活用して駅舎を改築したそうです。デザインに遮光器土偶を選んだのは、亀ケ岡遺跡のPRも兼ねていましたが、この巨大オブジェを付けたこともあって、費用は2倍強の2億1200万円がかかったとのこと。 しかし、これだけの駅なので、「一度は訪れたいちょっとすごい駅」とか珍スポット、面白駅など、当然注目を集めています。 ただ、駅に列車が入って来る3分前から3分間、目が赤く光ったりして、当初は子どもたちを中心に、周辺住民から「怖い」と恐れられていたようです。3分間光らせるというのは、ウルトラマンのカラータイマーみたいな発想だったんですかね。それはともかく、実際に住民からのクレームもあり、その後は観光客などから要望があった時のみ、手動で光らせるようになりました。 しかし、時間の経過と共に、巨大オブジェはだんだんと町に浸透。愛着さえ湧いてきて、今では町のシンボルとなり、「シャコちゃん」の愛称で呼ばれています。そして誕生から30年近くが経過した2020年4月、駅舎の補修工事と共に、シャコちゃんの目もLEDライトに転換。併せて、以前の赤1色から、7色に変化するレインボー・シャコちゃんに生まれ変わり、

大船渡線・気仙沼線の起点・一ノ関駅

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東日本大震災の取材で、よく利用した駅の一つが、一ノ関駅でした。東北新幹線の復旧後、被災地へ入る場合は内陸部の新幹線駅でレンタカーを借りることが多くなりました。福島県の相馬市や南相馬市、また飯舘村の場合は福島駅、宮城県山元町や亘理町は白石蔵王駅、南三陸町へはくりこま高原駅、岩手県陸前高田市は一ノ関駅、大船渡市は水沢江刺駅といった案配です。 中でも一ノ関駅は、追跡取材をさせてもらった陸前高田と南三陸を同時に回る際や、気仙沼を取材する際には拠点となっていたので、駅自体はもちろん駅に近いホテルもよく利用させてもらいました( 地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 - 一関 )。 ある時、一ノ関駅で降り、いつものように駅レンタカーを借りようと改札へ向かっていると、「一関・平泉 もち街道」という顔出しを発見。ふむふむと見ているところに、新幹線下り方面のワゴンサービスのお姉さん二人が通りかかりました。 で、ちょっとモデルになってもらえないか声を掛けたところ、即答でOKしてくれ、頼んだこっちがびっくりするぐらいノリノリで撮影に応じてくれました。撮る側もモデル側もいい感じで撮影を続けているうち、下りの新幹線が到着するとのアナウンスがあり、お姉さんたち、大慌てでホームに上がって行きました。。。 ところで、「一関・平泉 もち街道」ですが、一関市や平泉町など旧伊達藩北部は、もち料理が豊富なんだそうです。年中行事や慶弔のもてなしなど、人が集うともち料理が振る舞われてきました。正式なもてなし料理の「もち本膳」は、雑煮と小豆、くるみ、なます(大根おろし)のもちに、漬け物をお膳に乗せて供されます。味付けは他にも多種多彩で、ゴマやクルミ、ずんだ、しょうが、納豆など300種類を超えるとも言われます。 以前、ライターの砂山さんとカメラマンの田中さんが、一関を取材した際にも、この辺りのもち文化を取り上げていました。参考に、その部分を抜粋してみます。  ◆ 一関の人々は、老いも若きも、とにかく餅をよく食べます。正月はもとより、桃の節句やお彼岸に七夕、冠婚葬祭にも必ずと言っていいほど餅が出ます。ルーツは江戸時代にさかのぼります。有数の米どころだったことに加え、伊達藩由来の礼儀作法が結びつき独特の「もち食儀礼」が生まれ、庶民へと広がりました。 種類も豊富で、あんこやずんだ、ゴマといったポピュラーなもの以外にも、エ

気仙沼横丁と共に忘れられない気仙沼駅前の大衆食堂ますや

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東日本大震災前、気仙沼は、昨日書いた大船渡線の他、南三陸町を通って石巻市の前谷地駅に至る気仙沼線の起点にもなっていました。しかし、気仙沼市と南三陸町にあった16駅中9駅が津波で流失。また鉄橋が落ちたり、路盤・築堤が流失するなど、沿岸部を走る南気仙沼から陸前戸倉(南三陸町)間は壊滅状態となりました。 震災翌月以降は、代行バスやバス振替輸送などで運行していましたが、2012年5月にJR東日本が提示したBRT方式による仮復旧について、沿線の気仙沼、南三陸、登米の各自治体が合意。そして12月22日からBRTの本格的な運行が始まりました。 大船渡や陸前高田を取材する際は、気仙沼が拠点になっていたので、大船渡線のBRTにも乗ったことがありました。しかし、南三陸の場合は、東北新幹線くりこま高原駅でレンタカーを借りるのが常だったので、気仙沼線にはついぞ乗ったことがありませんでした。ただ、気仙沼線・大船渡線BRT専用のICカード「odeca(オデカ)」は購入してあるので、いつか気仙沼線BRTにも乗ってみたいと思っています。 ちなみに、気仙沼線・大船渡線BRTには、「おっぽくん」という沿線復興のキャラクターがあります。「おっぽくん」はリスで、どうやら「お出かけ」に引っかけて尻尾を大きく描いているようです。「odeca」も、そこからの命名のようで(尾デカっ!)、気仙沼駅でカードを見た私、何となく欲しくなってしまい、odecaを作っちゃったのですが、試しに大船渡線BRTに乗った時に持っていくのを忘れ、いまだ一度も使ったことがありません。。。 BRT気仙沼駅は本来の大船渡線気仙沼駅を出てすぐ左手の気仙沼観光コンベンション協会前に設置されていました。いつもレンタカーを借りていた所で、くりこま高原駅の駅レンタカー同様、何度も利用するため顔なじみになっていましたが、途中からレンタカーの取り扱いがなくなってしまい、陸前高田に行く時は一ノ関駅、大船渡へ行く時は水沢江刺駅を利用するようになりました。 あと、気仙沼駅で忘れてはいけないのが、「ますや食堂」と、レトロな喫茶店「停車場」です。 この話は、既に記事しているので、そちら( 復興屋台村取材で出会った気仙沼の名物グルメたち )に譲りますが、簡単に紹介すると、「ますや食堂」さんは、80代のご夫婦と、そのお嬢さんの3人でやっており、震災の時、地域の人を元気

三陸鉄道と大船渡線の結節点・盛駅

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昨日の記事で書いたSL銀河が運行を開始した2014年4月12日の前週4月5日、6日には、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となり、全国的に注目された三陸鉄道が、3年ぶりに全線で運行を再開しました。今はJRから山田線が移管され、久慈から盛までがつながり三陸鉄道リアス線となっていますが、当時はまだ久慈 - 宮古間の北リアス線と、釜石 - 盛間の南リアス線に分かれていました。ちなみに盛以南は大船渡線、久慈以北は八戸線につながり、岩手県沿岸部を縦貫する大事な足となっています。 東日本大震災では、南北リアス線107.6km(現在は全線163km)のうち約320カ所で津波被害を受けましたが、「三鉄は地元の足」だと全社一丸となって復旧に取り組み、震災の5日後には、比較的被害の少なかった北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運行を再開。その後「三鉄の希望作戦」と名付けたがれきの撤去作業を進めた自衛隊、修復されたホームや駅舎を掃除してくれた地域住民、全国から駆け付けたボランティアなど、多くの人の力を借り、徐々に復旧区間を拡大させてきました。そして4月5日に南リアス線、6日に北リアス線がつながり、ついに全路線で復活を果たしたのです。 SL銀河運行開始の日は、そんな時期でもあったので、私もまだ乗っていなかった南リアス線に乗車してみました。この時、一緒に乗った乗客の一人は、大阪から休暇を取って三陸鉄道に乗りに来たという鉄道マニアで、前日は北リアス線に乗ってきたと話し、北リアス線はトンネルばかりで風景があまり見えなかったが、南リアス線はどうでしょう、と聞かれました。しかし、私も初めてなので、分かるはずもなく・・・。 しかも私の場合、取材の合間だったので、乗車したのは釜石から唐丹までの3駅だけでした。で、ここまでが釜石市で、次の吉浜駅からは大船渡市に入ります。南リアス線も比較的トンネルが多い路線らしいのですが、吉浜(吉浜漁港)、三陸(越喜来漁港・泊漁港)、甫嶺(鬼沢漁港)、恋し浜(小石浜漁港)、綾里(野々前漁港・綾里漁港・石浜漁港)と、駅周辺に漁港があるように、三陸の海もばっちり眺められます。この後、三陸鉄道は陸前赤崎を経て、終点の盛駅へと向かいます。 盛駅は、大船渡市の行政・司法の中心・盛町にあり、JR大船渡線の終着駅でもあります。三陸鉄道とは乗り入れしていませんが、ここで大船渡線に乗り換え、陸

三鉄全線復旧とSL銀河の運行で盛り上がる鉄の町・釜石

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2014年4月12日、力強い汽笛と共にJR釜石線に蒸気機関車が帰ってきました。東日本大震災からの復興に寄与しようと、JR東日本が42年ぶりに復活させたものでした。釜石線の前身・岩手軽便鉄道が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることから、SL銀河の名で土日を中心に年間約80本、花巻 - 釜石間を運行することになったのです。 運行初日は関係者や鉄道ファン約300人に見送られ、午前10時37分に花巻駅を出発。途中、遠野駅で給水や石炭補給をして、釜石駅には定刻の午後3時4分に到着しました。釜石ではSLを一目見ようと、ホームや線路沿いに多くの人が詰め掛け、歓迎ムード一色。更には駅前でも岩手出身の民謡歌手やシンガーソングライター、ご当地アイドルなどのライブが行われ、終日盛り上がりました。 SL銀河は、72年まで主に盛岡 - 釜石を結ぶ山田線で活躍していた1940年製のC58-239を復元したものでした。復元前は盛岡市の交通公園に展示されていましたが、市民やSL保存会、鉄道マンらが定期的に清掃するなど良好な状態で保存されていたため、復元が実現しました。 席数は176席で、全席指定。1カ月前から指定券(大人820円、こども410円)が販売されることになり、JR東日本に聞いたところでは、発売と同時に完売しているとのことで、運行前から早くも人気となっていました。 今年の運行は4月9日から始まり、基本的には土曜日が花巻(10:36)から釜石(15:10)、日曜日が釜石(9:57)から花巻(15:19)となっています。この他、ゴールデンウィークには4月29日(金)と30日(土)、また祝日の5月3日に往路、5日に復路、お盆の時期には8月11日(木)12日(金)、14(日)15(月)なども予定されており、運行日についてはSL銀河の サイト を確認してください。 なお昨年11月、JR東日本から、SL銀河は客車の老朽化により2023年春をもって運行を終了する旨の発表がありました。今年は初冬までの運行で、2023年は春のみの運行になるようですが、詳しい日程は分かっておらず、決まり次第発表するとのことです。 私がリタイアしたら、SL大好き鉄子の義母を伴い、SL銀河に乗って釜石へ行き、大槌や山田を始め三陸の沿岸部を案内したかったのですが、それを実現する前に義母が亡くなってしまいました。せめ

東日本大震災被災地取材の拠点となった釜石駅

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東日本大震災後、最初に入った被災地は釜石でした( 東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石 )。その後1カ月ほどの間に、4回ほど釜石へ行きましたが、東北新幹線はまだ運転を再開していなかったので、鉄路の利用は少し後になりました。 しかし、2011年4月29日に東北新幹線が全通してからは、新花巻で釜石線に乗り換え、釜石駅でレンタカーを借り、大槌や山田、宮古などを回るようになりました。そんなわけで釜石線の利用が増え、往路は新花巻を昼過ぎに出る「はまゆり3号」、復路は釜石を14時半頃出る「はまゆり6号」を使う頻度が多くなりました。 釜石駅はもともと1939(昭和14)年に山田線の駅として開業しました。山田線は1923(大正12)年に盛岡 - 上米内間が開業したのを皮切りに、区間を延伸。路線名の由来で、1892年の鉄道敷設法で規定されていた山田町までは、1935(昭和10)年に完成。しかし、その後も延伸を続け、39年に大槌 - 釜石間が開業して、盛岡から釜石までが全通しました。また44(昭和19)年には現在の釜石線が開業、更に84(昭和59)年に三陸鉄道南リアス線が開業し、釜石には山田線、釜石線、三陸鉄道南リアス線が乗り入れることになりました。 東日本大震災では釜石市も大きな被害が出ましたが、釜石駅は倒壊や流失などは免れ、震災から26日目の4月6日には全線で運行を再開しました。ただ、先に書いたように東北新幹線の復旧はもう少し後のことなので、その当時は、羽田から臨時の直行便が飛んでいた、いわて花巻空港まで航空機を使い、そこからバスで7分の花巻空港駅へ移動して釜石線に乗っていました。 というわけで、釜石は被災地取材の拠点の一つとなり、取材が終わってレンタカーを返した後など、よく駅周辺で時間をつぶすことがありました。そんな時、よく入っていたのが、三陸鉄道の駅舎を利用した「さんてつジオラマカフェ」でした。 カフェは三陸鉄道釜石駅の駅舎をそのまま利用、店内には三陸鉄道沿線の主要な駅や景色を再現したジオラマが設置されていました。カフェの食券は、乗車券の券売機で購入。メニューは、めかぶ丼、いかカレー、たこライスがあって、この3種を盛り合わせた「さんてつセット」が900円でした。最初に入った時、私は「さんてつセット」にするつもりでしたが、駅員さんから、かなりボリュームあります、と聞かされた

『あまちゃん』に登場した北三陸鉄道のモデル・三陸鉄道北リアス線でレトロ列車に乗る

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取材で田野畑村を訪問することになった際( 日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地 )、以前から懇意にしていた方が、浅草酉の市発祥の寺として知られる長國寺の大熊手を宮古へ奉納すると聞き、そちらも併せて取材させてもらうことになりました( 震災の被災地で女性たちの支援に取り組む )。で、奉納に合わせて、三陸鉄道の田野畑駅からレトロ列車に乗り沿線の復興状況を視察するということだったので、それにも立ち会わせてもらいました。 三陸鉄道は、国鉄再建法により工事中止となった久慈線と盛線を、日本最初の第三セクターとして受け継ぎ、1984(昭和59)年に北リアス線(旧久慈線)、南リアス線(旧盛線)と名付けられて開業しました。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で、三陸鉄道は壊滅的な被害を受けましたが、動かせるところから動かそう、と震災5日後の3月16日には、北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運転を再開。更に20日に北リアス線宮古 - 田老間、29日に北リアス線田老 - 小本間で運転を再開させ、いずれも震災復興支援列車として無料乗車としました。 その後、11月になって復旧工事の施行協定が締結され、全線復旧に向けて工事が始まりました。そして12(平成24)年4月に北リアス線の田野畑 - 陸中野田間、13(平成25)年4月に南リアス線の盛 - 吉浜間、14(平成26)年4月に南リアス線の吉浜 - 釜石間と、北リアス線の小本 - 田野畑間の運転が再開され、全線での運行再開が実現しました。 我々がレトロ列車に乗ったのは、13年12月だったので、まだ小本 - 田野畑間の運転は再開されておらず、田野畑から北の路線のみでした。が、その年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のロケ地・大沢橋梁では、わざわざ停車して説明までしてくれるサービス精神旺盛なアナウンスもあり、楽しいミニツアーでした。 当時は、北リアス線の北側折り返し駅となっていた田野畑駅は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の登場人物カンパルネラの愛称で親しまれており、駅舎にはネスレのキットずっとプロジェクトによって復興支援の桜の模様が描かれていました。また、駅舎の中には、本棚を備えた無料休憩所や、喫茶店もあり、喫茶店ではコーヒーや紅茶などの他、カレーライスやピラフ、チャーハンなどの食事メニューも提供されていました。 なお、2019

100年近い歴史を刻む木造駅舎のシフォンケーキ屋さん

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昨日、千綿駅のことを書いていて、趣のある木造駅舎に喫茶店が営業する駅が、南阿蘇にもあることを思い出しました。南阿蘇鉄道高森線の長陽駅です。 1928(昭和3)年2月、旧国鉄時代に豊肥本線の支線として、南阿蘇村の立野と高森町の間を結ぶ路線が開業。その際、もともとあった立野駅に加え、長陽、阿蘇下田、中松、阿蘇白川、高森の各駅が新設されました。その後、同年12月に豊肥本線が全通したことに伴い、立野 - 高森間は高森線として分離されました。 しかし、赤字路線となり、1981(昭和56)年に第1次特定地方交通線として廃止が承認され、バスへの転換案が提示されました。これに対して、地元では存続運動を展開。7町村の出資(99.5%)によって、85年に第三セクター「南阿蘇鉄道」(愛称「南鉄」)が設立され、86年から営業を開始しました。 転換当初は、旧国鉄高森線時代の6駅でしたが、日本一長い駅名を誇る「南阿蘇水の生まれる里白水高原」や、名水百選に選ばれた白川水源の最寄り駅「南阿蘇白川水源」など10駅にまで増え、地域住民の交通手段としてだけではなく、阿蘇観光にも利用されるローカル色豊かな鉄道となっています。 そんな中で、長陽駅には2006(平成18)年、駅舎内の喫茶店「久永屋」が開業。店主の久永操さんは佐賀県の出身だそうですが、ご両親が南阿蘇に移住した関係で、南阿蘇で仕事をするようになりました。 駅舎を店舗にするまでには紆余曲折があったらしいのですが、長陽地区出身の村長を始め役場の方たちの協力もあり、外装改修と構造補強は村で、内装工事は自費で施工し、開店にこぎ着けました。看板メニューは、「久永屋の唯一の資本」と言われたことから命名した「資本ケーキ(シフォンケーキ)」。国産の無漂白小麦とサトウキビ100%の粗糖を材料に、添加物や保存料は使わない自然派のケーキを作っています。 ただ、喫茶店をオープンするのは土日祝日限定で、ふだんはシフォンケーキ屋として営業しています。お取り寄せも出来るので、気になった方はサイトを覗いてみてください。→ http://choyoeki.shop-pro.jp/ ちなみに南阿蘇鉄道は、2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け、一時、全線運休となりました。その年7月31日から、高森駅と中松駅の間5駅、7.1kmで運転を再開しましたが、中松〜立野間は依然として運休

海に最も近い駅・千綿駅と大村湾に沈む夕日

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昨日の記事( 取材で泊まった大村の町を散歩してみた )の大村から、JR大村線でも国道34号でも、20分弱で千綿駅に着きます。この駅については、以前の記事( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )に書いており、今回が再登場となります。 千綿は、もともと長崎街道25宿の松原宿(大村市)と彼杵宿(東彼杵町)の間宿(あいのしゅく)だった所です。宿駅として商工業が栄え、宿場であった約400mの街道筋には江戸時代の住宅も残り、長崎県の景観資産に指定されています。 1928(昭和3)年開業の千綿駅は、海の見える駅として知られ、2014(平成26)年には青春18きっぷのポスターになりました。そのキャッチは「18時16分 小さな改札をくぐった。大きな夕日が迎えてくれた。」でした。「海とホームが日本一近い駅」とも言われる千綿駅。遮るものなく見られる、大村湾に沈む夕日は、確かに格別です。 東彼杵町役場商工観光係がYoutubeにアップしていた動画(オリジナル→ https://www.youtube.com/watch?v=bf_v_zV8l6Y )を編集して、一部早送りにしたので、埋め込んでおきます。ちなみに、動画の説明には、「列車が傾いて停まる駅としては日本一美しい夕景だと長距離トラックドライバーさんのお墨付きです。映画ロケとタモリ倶楽部様お待ちしています。ちなみに各停とイベント列車しか停まりません」とありました。「列車が傾いて停まる駅としては」というのが気になりますし、長距離トラックドライバーさんって誰よ、とツッコミたくなりますが、青春18きっぷのポスターより夕日が際立っているので、良かったらチラ見してください。 で、前の記事にも書きましたが、現在の駅舎は、開業当時の駅をイメージして、1993(平成5)年に建て替えられたものです。ホームは、大村湾の海岸線に沿って設置されているため、カーブしており、そのため「列車が傾いて停まる駅」ってことになるわけです。 駅は、私が行った当時は無人駅で、何もありませんでしたが、16年から、東彼杵町のまちおこしグループ「長咲プロジェクト協議会」が管理業務を担当。現在は、佐世保から移住してきた湯下龍之介さん、香織さんご夫婦が、駅舎の業務管理責任者を兼ねて、「千綿食堂」という名の小さな食堂を運営しています。

取材で泊まった大村の町を散歩してみた

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昨年暮れの記事で書いた大村( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と、東彼杵( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )を取材した際、大村の長崎インターナショナルホテルに泊まりました。ここは、長崎県の玄関口・長崎空港から近く、JR大村駅にも歩いて行ける場所にありました。また、主な取材地の玖島城や武家屋敷街からも近かったので、このホテルを選びました。 食事は、検索した限りでは、あまりそそられるものがなく、珍しくホテル内の和食処「桜華」でとったのですが、それでも駅の近くなら何かあるかもと、チェックイン後、ホテルから駅に向かってぶらぶら散歩してみました。ホテルのそばには、国道34号が走っていて、この国道を渡った側が、駅方面になっています。 で、国道に出た所にマックがありますが、これは論外。更にマックの裏に「有楽街」という路地があったので、好奇心が刺激され通ってみました。ただ、ほとんどスナック系で、一つあった居酒屋も、表に「横浜風」のお好み焼きともんじゃ焼きが目立つように書かれていたので、やはりこれも敬遠。こうして「有楽街」を通り抜けたら、また国道に出てしまいました。 少し行った所に駅方面へ向かう大きな通りがあり、そこを入ってみましたが、飲食店は登場せず、国道から200mほど歩いた所でお店屋さんらしいたたずまいを発見。「お菓子のナガサキヤ」でした・・・。Googleのローカルガイドによる口コミは4.4でかなり高評価ですが、ケーキ屋さんで夕食はないっすな。 その先も飲食店はなさそうなので、少し先でUターンをして、道路の反対側を歩いてみました。すると、国道まであと70〜80mという所に、スカートをなびかせたマリリン・モンローと、トレンチコートに手をつっこんだハンフリー・ボガートがいました。二人は、ロニースコッツという店のウィンドウの中におり、この店名とモンローに惹かれて、ふらふらっと店に入りかけた私。でも、どうやらダイニングバーっぽいので、ドアの前で踏みとどまり、ホテルに戻って食事をすることにしました。 ちなみに、ロニースコッツというのは、ロンドンにある伝説的なジャズ・クラブで、店名はオーナーのロニー・スコットにちなみます。彼もミュージシャンで、店では生演奏が行われ、ソニー・ロリンズなども出演したことがあるそうです。 またジミ・ヘンドリックスが最後に演奏したクラブとしても知