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取材で泊まった大村の町を散歩してみた

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昨年暮れの記事で書いた大村( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と、東彼杵( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )を取材した際、大村の長崎インターナショナルホテルに泊まりました。ここは、長崎県の玄関口・長崎空港から近く、JR大村駅にも歩いて行ける場所にありました。また、主な取材地の玖島城や武家屋敷街からも近かったので、このホテルを選びました。 食事は、検索した限りでは、あまりそそられるものがなく、珍しくホテル内の和食処「桜華」でとったのですが、それでも駅の近くなら何かあるかもと、チェックイン後、ホテルから駅に向かってぶらぶら散歩してみました。ホテルのそばには、国道34号が走っていて、この国道を渡った側が、駅方面になっています。 で、国道に出た所にマックがありますが、これは論外。更にマックの裏に「有楽街」という路地があったので、好奇心が刺激され通ってみました。ただ、ほとんどスナック系で、一つあった居酒屋も、表に「横浜風」のお好み焼きともんじゃ焼きが目立つように書かれていたので、やはりこれも敬遠。こうして「有楽街」を通り抜けたら、また国道に出てしまいました。 少し行った所に駅方面へ向かう大きな通りがあり、そこを入ってみましたが、飲食店は登場せず、国道から200mほど歩いた所でお店屋さんらしいたたずまいを発見。「お菓子のナガサキヤ」でした・・・。Googleのローカルガイドによる口コミは4.4でかなり高評価ですが、ケーキ屋さんで夕食はないっすな。 その先も飲食店はなさそうなので、少し先でUターンをして、道路の反対側を歩いてみました。すると、国道まであと70〜80mという所に、スカートをなびかせたマリリン・モンローと、トレンチコートに手をつっこんだハンフリー・ボガートがいました。二人は、ロニースコッツという店のウィンドウの中におり、この店名とモンローに惹かれて、ふらふらっと店に入りかけた私。でも、どうやらダイニングバーっぽいので、ドアの前で踏みとどまり、ホテルに戻って食事をすることにしました。 ちなみに、ロニースコッツというのは、ロンドンにある伝説的なジャズ・クラブで、店名はオーナーのロニー・スコットにちなみます。彼もミュージシャンで、店では生演奏が行われ、ソニー・ロリンズなども出演したことがあるそうです。 またジミ・ヘンドリックスが最後に演奏したクラブとしても知...

高千穂の伝統食・こびるにかっぽ酒、そして蘇食

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「 天孫降臨神話に彩られた神々の里 」と「 国見ケ丘から雲海に覆われた天孫降臨の地を望む 」という二つの記事を書いた高千穂を取材した際、ホテル四季見という宿にお世話になりました。このホテルは、本館と離れから成っており、私が泊まったのは離れでした。 基本的に、客室は和室になっており、本館は8畳の和室が9室、12畳の和室が1室あるようです。私が泊まった離れは、6畳の和室に4畳半の次の間、それに踏み込み2畳という部屋構成でした。6室ある離れは、だいたいこの構成ですが、1室は6畳間が和洋室でツインのベッド、あと1室は6畳と9畳の和室に踏み込み2畳と、やや広くなっているみたいです。 これまで何度か書いていますが、私、日本旅館やペンションなどのおしきせの夕食はあまり好きではないので、基本、1泊朝食付きにして、夕食はほとんど外で食べています。しかし、高千穂では、夜神楽を見に行く都合もあって、夕食もホテルで取りました。 で、ホテル四季見は、宿以外にも神楽宿という食事処も経営しており、そこで出している「蘇食物語」とほぼ同じ料理が提供されています。宿によると、「蘇食の蘇は、蘇生する、蘇るの蘇で薬膳の意」で、宮崎の名産品やこの地高千穂に昔から伝わるお料理や食材を現代に蘇らせた食事とのこと。 2年ほど前にSNSで話題になった「蘇」という古代食があります。蘇が、どのような食べ物だったのかは、明確には分かっていませんが、日本や中国の文献などから、チーズやヨーグルト、あるいはバターや練乳といった説が唱えられています。 平安時代の医学書 『医心方』によると、蘇は「全身の衰弱をおぎない、大腸をよくし、口の中の潰瘍を治療する」などとされ、いわゆる健康食と考えられていたようです。もともと、飛鳥時代に唐から伝わった薬には、生薬などの他に、栄養価の高い食材を使った料理なども含まれていました。それらは、今も薬膳料理として食べられており、蘇は、その代表的な食材と言えるのかもしれません。 ホテル四季見の夕食で提供される「高千穂蘇食」は、高千穂が発祥と言われる「かっぽ酒」からスタートします。山仕事の合間に、手近な青竹を切って節を抜き、水を入れて焚き火にくべ、お茶を沸かして飲んだことが始まりとされ、やがて生活の場にも入り込み、中身はお酒に代わり、神事などで飲まれるようになりました。 肝心の料理はというと、古代黒米うど...

ミシュランプレートに掲載された馬肉料理店「馬勝蔵」

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熊本地震関連の取材で肥後大津駅近くのホテルに泊まったのは、鍋ケ滝撮影( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に一度行っている馬肉料理の「馬勝蔵」が、目的の一つと前の記事(南阿蘇村でお世話になった宿のいい話)に書きました。「 熊本と聞いて思い浮かぶ事ども 」でも書きましたが、2017年に実施された「熊本県と聞いて思い浮かぶもの」というネット調査で、馬刺しは、くまモン(28.8%)、熊本城(16.7%)、阿蘇山(11.4%)に次ぐ4位となっていました。 というわけで、今回は肥後大津駅周辺の話です。肥後大津駅近くにはホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅や旅籠はしもと、エヴァーグリーン大津駅前などの宿があります。また駅の南側を走る国道57号沿いにも、ベッセルホテル熊本空港、ホテルビスタ熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港などが建ち並んでおり、宿泊にはかなり便利です。 そんな肥後大津駅の北、歩いて3、4分の所に、馬肉料理の「馬勝蔵」があります。 ちなみに、ミシュランの基準を満たした料理を提供する飲食店「ミシュランプレート」に掲載された馬肉料理店は、熊本県全体で4軒あります。3軒は熊本市内(菅乃屋銀座通り店、けんぞう、むつ五郎)ですが、残り1軒が、この馬勝蔵でした。 馬勝蔵は、1890(明治23)年に建てられた蔵を改装しており、建物自体、なかなか趣があります。蔵造りの玄関に掲げられた赤い暖簾には、「馬勝蔵」という店名の下に、「UMAKATSUZO」と書かれた英字が表示されていました。それを見て知ったのですが、店の名前は「うまかつぞう」だそうです。 これ、熊本の方言「うまかっぞぅ(おいしいぞう)」から付けたそうです。そう考えると、店名が先で、蔵を見つけてきたのか、蔵が先で、そこから店名を思いついたのか、気になるところです。 で、肝心の料理ですが、ネット調査で4位に入った馬刺しはもちろん、煮込みや焼き物、揚げ物など、さまざまな馬肉料理がありました。メニューは写真に撮ってこなかったんですが、馬ステーキに馬カツ、馬すじや馬ホルモンの煮込み、レバ刺しを含めた各種馬刺し、串焼き、串揚げ、コロッケなどが、お品書きに載っていました。また、馬肉料理だけではなく、大津の郷土料理だという唐芋天婦羅や、国内最大級の地鶏・天草大王、更には熊本ラーメン、阿蘇高菜めしなどもありました。 通常...

南阿蘇村でお世話になった宿のいい話

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今回は、熊本地震について書いた前3本の記事の余録です。地震発生後10日近く経った4月24日に初めて西原村に入った際は、車中泊だったのですが、5月以降は出来るだけ取材先に近い宿を拠点にしました。 熊本城に近い アークホテル熊本城前 、益城町と西原村に近い グリーンリッチホテルあそ熊本空港 と ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前 、それに 南阿蘇村のグリーンピア南阿蘇 、 ペンションルミナス 、ペンションハーモニーなどです。 熊本市内に関しては、シティホテルもビジネスホテルもたくさんあるので、特に問題なしでしたが、他はオンライン予約大手の楽天トラベルやじゃらんで、飛行機のパックで出てきた宿を押さえました。益城町には、エミナースというホテルがあるのですが、ここは当時、被災された方の避難所になっていました。ただ、益城や西原は熊本空港がある場所なので、周辺にビジネスホテルが点在しており、特に宿には困りませんでした。 グリーンリッチホテルあそ熊本空港は菊陽町、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は大津町にそれぞれありますが、どちらも熊本空港から車で14、15分の所にあり、近くには鍋ケ滝の取材( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に泊まった ホテルビスタ熊本空港 や、ベッセルホテル熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港、カンデオホテルズ菊陽熊本空港、HOTEL AZ 熊本大津店などが、熊本から南阿蘇村へ向かう国道57号沿いに建っています。 このうち、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は、JR豊肥本線肥後大津駅から歩いて2分ほどの所にあり、近くには居酒屋さんがあったり、鍋ケ滝撮影で泊まった時に行った馬肉料理の「馬勝蔵」も歩いて5、6分と、かなり利便性のあるホテルでした。 地震があった2016年の取材はいずれも単独でしたが、この時は地震被害から再建された益城町給食センターの取材で、カメラマンの田中さんが一緒だったため、飲み歩くことを想定していました。ただ、給食センター再建支援の中心になった方と取材のコーディネートをしてくれた方が、両方とも熊本市の方で、しかも一人はお酒を飲まず車の運転が好きな方で、車で送迎するからと、熊本市内の馬肉ダイニング「馬桜」に連れて行かれ、結局、飲み歩きの利便性は何の意味も持ちませんでした。 一方、南阿蘇村は、草千里ケ浜や白川水源など、豊...

自然環境に恵まれた北薩地域の中心都市

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以前、熊本県の芦北で取材をしている際、人気の観光列車「おれんじ食堂」が、芦北町の佐敷駅に入っているから、と取材先の方がわざわざ駅に連れて行ってくれました。おれんじ食堂は、「食を通じて沿線の魅力を知ってもらう」をテーマに車内で沿線地域の特産物を使用した料理や飲み物が味わえます。また、停車駅では駅マルシェが開催され、特産品や地元グルメが販売されます。 で、佐敷駅でのマルシェの間に、肥薩おれんじ鉄道のご好意で車内も見学。早速、列車の写真をインスタにアップしたところ、知人から「なぜ仙台と書かれているんでしょう。熊本ですよね?」と、コメントが付きました。「ん? 仙台?」と思って、写真を確認すると、確かに「SENDAI」という文字が列車の窓に入っていました。 「SENDAI」は、もちろん鹿児島県の「川内」ですが、一般的には「仙台」の方を思い浮かべるかもしれませんね。ただ私の場合、川内には40年近く前の1986年に取材で行っており、実はその時、取材先の方から聞いたうなぎの話が、「へ〜! ホント?」と思わせるものだったので、川内の地名は結構鮮烈に脳裏に刻まれていました。 うなぎというと、一般的には静岡県、特に浜名湖のある浜松市を思い浮かべるのではないでしょうか。が、地元の方の話だと、川内を始め鹿児島県からウナギの稚魚であるシラスウナギを供給し、浜松市でそれを養殖しているのだ、と。それを驚きを持って聞いた私、帰京後、早速調べてみたのは言うまでもありません。 まず、うなぎの養殖(養鰻)は1879(明治12)年、東京・深川で川魚商を営んでいた服部倉治郎が、深川に養殖池を作り、餌付けをしながら飼育を研究し始めたのが最初とされています。その後、倉治郎は汽車の窓から見た浜名湖に一目惚れ、1900(明治33)年、ここに養鰻池を作り、本格的なうなぎの養殖に取り組みます。で、これが大成功。以来、浜名湖はうなぎの養殖のメッカとなったのです。 が、1962(昭和37)年、静岡県はシラスウナギの記録的な大不漁に見舞われます。そこで静岡の養鰻業者たちは、うなぎを求めて全国へ飛び、高額でシラスウナギを買い上げたのです。その供給地となったのが、四国や九州でした。 ただ、いつまでもシラスウナギを供給してばかりではありませんでした。配合飼料の普及やハウス加温方式の導入による生産拡大に伴って、供給地の人たちが次々とう...

三隈川の清流に歴史の影を映して

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北九州地方のほぼ中央、大分県西部にある日田市は、古くから山紫水明の地として知られてきました。四囲を山々に囲まれ、それらの山では鹿児島県屋久島の屋久杉、宮崎県日南市の飫肥杉と共に九州三大美林と言われる日田杉を産出。そのため木材業が盛んで、特に日田杉で作られる「日田げた」は180年余の歴史を持ち、静岡市、広島県福山市と共に下駄の三大産地となっています。 ただ、山の中には違いないのですが、実際に日田の町を歩いてみると「水」のイメージが強くなります。市の中心を流れる三隈川は、周辺の山々の水を集める花月川、大山川、玖珠川と日田盆地で合流し、福岡県に入って筑後川と名を変えて有明海へと注ぎます。いわば九州最大の河川である筑後川の水源地帯と言える場所なのです。流れる水は清く、まさに山紫水明の地というにふさわしく、「水郷日田(すいきょうひた)」の呼称があるのもこうした水に恵まれた自然環境によるものです。 1961(昭和36)年には温泉の掘削に成功、日田温泉郷も出来、多くの観光客を集めています。私が日田に行ったのは20年ほど前のことになります。この時の取材は、独り暮らしのお年寄りに温泉のお湯を宅配するボランティアの活動でした。宅配するお湯は、日田簡易保険保養センターから無償で分けてもらっていましたが、湯温が70度もあり、それを地元の良質の井戸水とブレンドし、適温にしてから各家庭を回っていました。お年寄り宅では「温泉の香りがして気持ち良かった」「もったいないので3回も沸かし直して入った」などと大喜びでした。 また、日田は「九州の小京都」とも称されます。江戸時代には幕府直轄地として、九州の政治、経済の中心的役割を果たしました。当時育まれた独特の文化が今なお息づき、天領時代の面影を残す家並が美しい町です。 そんな日田を代表する人物と言えば、幕末の儒学者、漢詩人、教育家として知られる廣瀬淡窓です。淡窓は1805(文化2)年、24歳の時に豆田町の長福寺を借リて、「咸宜園」の前身となる塾を開きます。淡窓は詩作によって全国にその名が知られ、一代で4000人を超す好学の若者たちが師を慕って集まりました。そして1817(文化14)年、現在地に咸宜園を開塾。咸宜園から巣立った門下生には大村益次郎、高野長英、大隈言道、長三洲らの英才がいます。 ちなみに「咸宜」とはコトゴトクヨロシの意で、身分、年齢、学歴、男...

阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え...

世界有数の大会に成長した飯塚国際車いすテニス大会

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以前、一般社団法人日本車いすテニス協会の前田恵理会長に、参加した選手たちから、「最も人情の厚い大会」と呼ばれる飯塚国際車いすテニス大会について、話を伺ったことがあります。 飯塚国際車いすテニス大会(通称ジャパンオープン)は1985年に第1回大会が開催され、2019年で35回を数えました(2020、2021年は新型コロナウイルス感染拡大に伴い中止)。大会当初は障害者の社会復帰や車いすテニス・プレーヤーの交流といったことが目的でした。しかし、回を重ねるごとに大会への認知度が高まり、世界から一流プレーヤーが参加するようになって、2004年には世界四大大会に次ぐアジアで唯一のスーパーシリーズに昇格。更に18年からは、車いすバスケットボール、車いす駅伝競走と共に、障害者スポーツとしては初めて天皇杯・皇后杯が下賜されるようになりました。 競技としての車いすテニスは、76年にアメリカのカリフォルニアで始まり、日本には82年に紹介されました。その翌年、飯塚市にある「総合せき損センター(独立行政法人労働者健康安全機構)」で、脊髄損傷者のリハビリの一つとして車いすテニスが導入されました。飯塚はかつて炭坑で栄えた街ですが、その頃は炭坑災害などで脊髄を損傷した人が多く暮らしており、せき損センターが飯塚に設けられたのもそうした背景があったようです。 車いすテニスは当初、せき損センターの体育館で行っていましたが、やがて本格的なコートで練習してみたいとなって、飯塚ローンテニスクラブに打診がありました。このテニスクラブは青少年育成のため、飯塚ロータリークラブの会員13人が出資して設立したものでした。当時はまだ、障害者スポーツが一般的ではない時代でしたが、テニスクラブは二つ返事で依頼を受諾、クラブのコートを車いすテニスの練習に開放しました。更に翌年には九州車いすテニスクラブも発足し、山口や佐賀、熊本など他県からも車いすの方たちが練習に来られるようになりました。 その後、車いすテニスクラブから、大会を開催したいという相談があり、出資者たちが所属するロータリークラブの活動として大会を開催することが決まりました。しかも、海外では車いすテニスが盛んなことから、どうせなら海外選手を招待しようという話に発展。こうして海外から14選手、国内64選手、合計78選手が参加して、第1回大会が開催されました。 大会後、選...

今や海外にも広がり始めたミニバレーの発祥地 - 北海道大樹町

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大樹町は北海道の東部にあり、東は太平洋、西は日高山脈に接し、中央部に広大な十勝平野が広がっています。海、山、そして十勝平野という自然に恵まれ、町は農業を中心に漁業、林業を基幹産業として発展してきました。また最近では「宇宙のまちづくり」を掲げ、航空や宇宙分野での実験や飛行試験を積極的に誘致しています。 大樹町の町技となっているミニバレーは、そんな大樹町発祥のスポーツで、もともとは町民のための冬のレクリエーションとして生まれました。それが徐々に各地へ広がり、今では毎年ジャパン・カップが開催されるなど、道内はもとより東北や関東、南の沖縄まで普及しています。更には海外にも広まり、最近ではロシアの関係者から国際組織を作ってほしいという要請を受けるほどになっています。 ミニバレーが誕生したのは1972年。考案者は、当時、大樹町教育委員会の職員として、ママさんバレーボール教室の指導をしていた小島秀俊さんでした。小島さんによると、ミニバレーが生まれたきっかけは、教室の参加者減が要因だったそうです。 教室に参加していたお母さんたちは、「ボールが当たると痛い」とか「突き指やけがが心配」と口々に言い、練習を重ねる度に1人減り2人減りと、参加者が少なくなっていきました。どうしたらこの状況を打開出来るか悩んでいた小島さん、ある日、遊びに行った友人の家で、部屋に転がっていたビニール製のビーチボールが目に止まりました。「これなら当たっても痛くはないな。このボールを使ったらどうだろう」。そんな思いが頭をよぎりました。 早速、次のバレーボール教室の時に試してみたところ、「痛くない」どころか、ボールが顔に当たっては笑い、頭に当たっては笑い、と体育館はお母さんたちの笑顔と歓声に包まれました。しかも、ボールを思い切り打っても、当たり所によっては前に飛ばなかったり、意図せぬ変化をしたり……、それもまた「楽しい!」「面白い!」と感じる要素であることが分かりました。 そして、これを本格的に競技として取り入れることにしました。そのためにはルールから作らなければいけませんし、そもそも競技の名前も考えなければなりません。ボールはビーチボールを使うとして、他の用具は既成のもので、体育館にあるものを活用することにしました。目を付けたのがバドミントンのネットと支柱でした。バレーボールのコートはタテ18m、ヨコ9mですが、両...