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復興屋台村取材で出会った気仙沼の名物グルメたち

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前のブログで、東日本大震災後、沿岸部へ入る拠点の一つにしていた一関について書きました(「 地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 」)。で、当初は一関でレンタカーを借り、陸前高田や南三陸へ入っていたのですが、そのうち、気仙沼の駅前にある観光案内所が、駅レンタカーの代行をしてくれるようになり、気仙沼で車を借りることも多くなりました。 気仙沼でレンタカーを借りるのは、主に陸前高田や大船渡へ行く場合で、取材が気仙沼市内だけの時は、観光案内所のレンタサイクルで回ることもありました。ただ、どちらの足を使うにしても、気仙沼で必ず寄っていたのが、復興屋台村気仙沼横丁でした。 気仙沼横丁は、プレハブ造りの仮設商店街で、震災の年の11月12日にプレオープン。震災前は駐車場だった土地を市が借り上げ、中小企業基盤整備機構がプレハブ店舗を建設、ライオンズクラブが厨房設備などを提供しました。 気仙沼全体では約7割、屋台村が設置された南町はほぼ100%の飲食店が津波で流されました。オープン時に入居したのは、ご当地グルメ「気仙沼ホルモン」や寿司、マグロ料理、ラーメン、うどんなどの飲食店の他、鮮魚店や八百屋などの22店舗。このプロジェクトは、これら店主の復興支援だけではなく、市民や漁業関係者、観光客、ボランティアなどが集まる拠点を作って、港町ににぎわいを取り戻すことを目指していました。 気仙沼横丁開村に当たり、中心的役割を果たしたのは、現在、宮城県富谷市の市長を務める若生裕俊さんでした。若生さんは、仲間と共に度々被災地に入り、炊き出しなどの支援活動を展開していました。1カ月ほどした頃、被災された方はもとより、ボランティアや復興関係者が食事をする所がないことに気付き、店を失った店主たちが、身一つで仕事を再開する場を提供出来ないか考え始めました。 その答えが、屋台村でした。若生さんは、スローフードなど食をテーマにした活動にかかわっており、青森県八戸市の屋台村「みろく横丁」が、街の活性化に貢献したことを知っていました。屋台形式なら同一規格で店舗を用意出来、コストが安く上がります。しかも「みろく横丁」の中居雅博代表とは、スローフードの関係で面識があり、協力を求めやすいなど、条件がそろっていました。 早速、中居さんに相談したところ、屋台村のノウハウを全て提供するとの力強い言葉を得ました。そして中居さんは実際に

地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 - 一関

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厳美渓 今日1月11日で、東日本大震災から9年10カ月となりました。震災後、三陸に行くことが多くなりましたが、震災直後は東北新幹線が不通だったため、花巻空港へ飛んだり、秋葉原から深夜バスに乗ったり、車で行ったりと、なかなかルートが定まりませんでした。 が、4月29日に仙台〜一ノ関間が開通し、東北新幹線が全面復旧してからは、岩手、宮城、福島の新幹線駅でレンタカーを借りて、沿岸部へ向かうようになりました。ただ、当初は、沿岸部やその周辺のホテルなどが、被災された方たちの避難所となっていたため、宿泊はどうしても内陸部に戻って来ることになり、そこを拠点に被災地へ入るという状態でした。 大船渡線/気仙沼線BRT専用ICカードodeca(オデカ) 例えば、宮城県の南三陸へ行く場合は、くりこま高原駅、岩手県・陸前高田や宮城県・気仙沼は、一ノ関駅という具合です。特に一ノ関駅は、南三陸へのアクセスも良かったことから、何度も利用しており、私にとっては主要拠点の一つになっていました。 震災後、最初に一関を利用したのは5月17日のことで、一ノ関駅でレンタカーを借りて、まず陸前高田を取材。その日は、一ノ関駅前の東横インに泊まり、翌日、南三陸へ向かいました。この時は、神戸のDHさんが被災地の支援活動を模索するため同行していたので、帰りは雄勝町などを経由して4月に復旧した仙台空港へ送り、レンタカーは白石蔵王駅に返しました。 そして、6月2日は、その逆コースで、DHさん同様、被災地を自分の目で見て何が出来るか考えたいという、石垣島の友人SYさんを伴い、くりこま高原駅でレンタカーを借り、先に南三陸へ行って、一関に泊まった翌日、陸前高田へ入るといった具合でした。その後、気仙沼でレンタカーが借りられるようになり、一ノ関から気仙沼まで大船渡線を利用することもありました。 ちなみに、この大船渡線には、ドラゴンレールという愛称があります。愛称の公募が行われた頃、ちょうどアニメの『ドラゴンボールZ』が放映されていたため、小学生を中心に「ドラゴンレール」に票が集まったためだそうですが、路線が龍のように曲がりくねっていたことも影響しています。 大船渡線は、当初、沿岸部までは最短距離を走るはずでした。しかし、政治家が強引に自分の地元へ誘致したため、沿岸部へ向かう線が急に北上。そこから一直線に大船渡へ向かう計画に変更され

超絶おいしいヨーグルトと煮込みジンギスカン

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「今日は、27度でしたよ。がんばってください」 明日は然別湖の日の出を撮るつもりだと言うと、当時、然別湖コタンの村長を務めていた菅原末治さんは、そう言ってカラカラと笑いました。 真冬の北海道。27度と言っても、アタマにマイナスが付きます。冷凍庫の平均温度が氷点下18度です。う〜ん、冷凍庫の中より寒いじゃないの・・・と思わず嘆息した私。 然別湖は北海道の屋根と言われる大雪山麓の南端、標高は800m、道内で最も高所にある湖です。冬の凍結が道内最初なら、春の解氷も最も遅く、寒波がやってきた早朝には、最低気温がマイナス30度近くまで下がります。 雪と氷に閉ざされた氷点下30度の厳寒の地。普通なら、気温と同様マイナス・イメージがつきまといます。しかし、鹿追は違っていました。逆に、この寒さと氷をウリにしたイベントを開催し、多くの観光客を集めているのです。 それが、然別湖コタン(コタンはアイヌ語で村の意味)です。今年で40年目を迎え、氷上露天風呂やアイスバーなどが、冬の間の60日間、期間限定で建設されます。これらの設営には、湖上建設隊というボランティアが、全国から駆けつけます。ピーク時には60人もの人が湖上で作業をしているというのですから、コタンづくりそのものが、既に立派なイベントとなっているようです。 さて日の出ですが、折悪しく山の頂から出てきてしまったため、氷点下20度の中で2時間も待つはめになりました。その間、観光客が数人、露天風呂に入りに来ましたが、それを横目に寒さに耐え忍ぶ私でありました。 然別湖のある鹿追町は、十勝平野の北西端。農業王国と言われる十勝平野の中でも、大規模経営の農業が営まれていることで知られています。それもあって、農業経営者1戸当たりの農業粗生産額は、日本の農業の中ではトップクラスとなっています。 こうした大規模経営を支えるものに、JAによる作業受委託(コントラ)事業と、酪農ヘルパーの存在があります。これにより、人材確保や機材の調達等、非常に効率よく経営が行われ、酪農王国と称される地位を築いたのです。 そんな中、鹿追では「田園ライフ」というキーワードで、地域づくり、農と食などを考えるツーリズムという動きが起こりました。鹿追町では以前、欧米の農業や農場視察のため、町の農業家を海外へ派遣していた時期がありました。その一人、中野一成さんは、カナダから帰国後、自

銘酒「鶴の友」がある函館の居酒屋てっ平

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前回の旅先は、北海道の旭川でした(「 塩ホルモン発祥の地、道北・旭川グルメ旅 」)。この中で、福岡の取材からそのまま、羽田で乗り継ぎ旭川入りしたことを書きました。北海道取材では、他にもイレギュラーなアクセスをしたことがあって、一度は旭川から函館へ移動する際、同じ道内なのに、航空機を使ったこともあります。 もちろん自家用ジェットなどではなく、その当時は、函館~旭川間を北海道エアシステム(HAC)の定期便が飛んでいたのです。この路線は2013年に運休となったようですが、HACはもともと函館空港を拠点に、1998年、函館と旭川、釧路間で運航を開始した航空会社でした。日本エアシステム(JAS)と北海道が第三セクター方式で設立し、JASが日本航空(JAL)と合併したことからJALグループになりました。JALの経営破たん後、グループから離れた時期もありましたが、現在は全便JAL便として運航しています。 深川での取材を終えた私は、旭川空港へ移動し、函館便にチェックイン。時間となり、案内に従って搭乗ゲートから中に入ったものの、航空機がありません。あれれ、飛行機はどこ? と思っていたら、階段を降り、外へ。すると、視線の先にちっちゃな航空機がポツンとたたずんでいるのが見えました。そう、搭乗したのは、JALグループ最小機SAAB340B(サーブ340B)だったのです。 あっ、あれ? 飛べるんか? 何人乗れるんだ? と一瞬、不安に思ったものの、そう言えば以前、石垣島から与那国島に行く時は、もっと小さな航空機でした(「 日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島 」)。それに比べりゃ、驚くことはないか、と気を取り直し搭乗しました。 ちなみに、 サーブ340Bは、今もHACの主要使用機となっています。同型機は、鹿児島空港を拠点とするJAL(日本航空)グループのコミューター航空会社・日本エアコミューター(JAC)でも使われていましたが、2019年12月に引退。この時、「JAC SAAB340B 退役チャーターツアー」が実施されるなど、飛行機ファンから惜しまれる退役だったようです。 サーブ340Bの席数は36席で、左1列、右2列が標準で、最後部のみが右3列。機内の高さは最大1.83mと、うちの息子だと頭をぶつけてしまう高さしかないため、通路が一段低くなっているというユニークな構造になっています。

塩ホルモン発祥の地、道北・旭川グルメ旅

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前のブログ(「 羊のまち士別で味わう絶品ジンギスカン - 花の友 」)に書いた士別での取材を終えた我々は、その夜、道北の中心都市・旭川に泊まりました。士別には、カメラマンの田中さん、ライターの砂山さんと行っていたのですが、その日の午後、神戸から友人のDHさんが合流。旭川では、4人で行動することになりました。 実は、その10日ほど前、神戸での取材を終えた砂山さんと私は、DHさんを含む神戸の友人たちと食事をすることになりました。店に行く道すがら、砂山さんと、次に行く士別取材の打ち合わせをするうち、話はいつしか、旭川で何を食べるかの相談に。と、そこへタイミング良く、北海道出身の砂山さんの友人から、旭川の有力情報がもたらされました。 それは、「旭川なら塩ホルモンでしょ」という一言です。一同、「塩ホルモン」にそそられるものを感じる中、北海道好きのDHさんも参加を表明、こうして旭川で塩ホルモンを食べる計画が出来上がったのでした。 養豚が盛んな北海道の中でも、旭川は、明治の末から昭和20年頃まで、飼育頭数で全道の1割近くを占め、道内一の養豚王国となっていました。そのため、旭川では昔から、良質な豚のホルモンが流通。今でも、旭川でホルモンと言えば、牛ではなく豚を指すという土地柄になっています。そして、塩ホルモンは、旭川が発祥の地なのだそうです。 そんなわけで、旭川には塩ホルモンの専門店が数多くあり、一般の焼肉店でも提供されているとのこと。店探しも迷うところですが、ネット検索で砂山さんが選んだのは、塩ホルモンの老舗「馬場ホルモン」という店でした。我々が泊まったホテルは、7条通6丁目にあり、今はアートホテル旭川になっているようですが、当時は旭川パレスホテルという名前でした。で、馬場ホルモンは、7条通8丁目で、ホテルから歩いて4、5分の所にありました。 店の扉をがらがらと開けると、もうもうと白い煙が立ちこめていました。燃えてるんか? 思わず、そう思ってしまうほどの煙でした。  店のメニューやら、飾り物は完全に燻製状態。そのため、上着類は店の人から渡されたビニール袋(ゴミ袋ですな)に入れて密封。砂山さんが予約をしておいてくれたおかげで、テーブルの上には既に七輪と、塩ホルモンが盛られた皿、タマネギの載った皿が、置かれていました。  取り皿がなく、どうするのかな、と思って周囲を見ると、常連客は気

羊のまち士別で味わう絶品ジンギスカン - 花の友

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2021年最初のブログは、北海道士別市の記事です。写真は、道北随一と言われる壮麗な社殿を持つ士別神社です。 士別市は、道北の中心都市・旭川から北へ約50km、最北の稚内までは約190kmという位置にあります。 士別は、最後かつ最北の屯田兵入植地で、1899(明治32)年7月、屯田兵第三大隊第五中隊の100戸が入地したのが始まりです。この時、士別の南隣の剣淵にも、第三中隊(南剣淵兵村167戸)と第四中隊(北剣淵兵村167戸)が入植。 当時、鉄道が敷設されていたのは、剣淵から10kmほど南の和寒までで、和寒から先は徒歩で剣淵兵村へ入りました。そして、剣淵屯田兵らと共に第三大隊入隊式を終えた士別の屯田兵と家族は、更に道なき道を歩いて士別兵村に到着したそうです。 屯田兵は、明治時代に北海道の警備と開拓に当たった兵士で、原則として家族同伴による入植を義務付けられました。制度が設けられた1874(明治7)年には、服役年限に定めはありませんでしたが、1890(明治23)年の屯田兵条例改正で服役期間が20年になり、その後、1894年からは20年のうち8年を現役、残り12年を後備役と改められ、更に1901年からは現役5年、後備役15年と改正されました。そして、最後の入植者である第三大隊の第三〜第五中隊が後備役に入った1904(明治37)年をもって、屯田兵制度は廃止されました。 士別に入植した屯田兵は、東北から九州まで28県の出身者からなり、最多は宮城県の18人、次いで福島県11人、山形県と和歌山県9人などとなっていました。この時、入植した100戸のうち、1戸が火災に遭ってしまい、残り99戸で士別の開拓が始まりました。 士別の屯田兵たちは、まず錬兵場の一角に開村記念標を建立し、天照皇大神を奉斎しました。この明治32年7月15日が、士別開基、士別神社の創祀となっています。 士別神社は、士別市のほぼ中央にある小高い丘「九十九山」に鎮座しています。この九十九山の名は、士別の開拓を始めた99戸に由来しており、毎年5月には約2000本のエゾヤマザクラやエゾカスミザクラ、チシマザクラが咲き誇ります。 その士別市では、観光やまちおこしのため、約1100頭のサフォーク種めん羊が飼われ、羊のまちとしても知られています。観光牧場の他に、羊毛を利用した製品の手作り体験が出来たり、羊肉を使った士別オリジナルの

「一陽来復」御守と早稲田の思い出

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今年も、東京・早稲田の穴八幡宮で、「一陽来復」の御守を授かってきました。 例年なら、初日となる冬至の日に並ぶのですが、今年はコロナ禍の中、日にちを2日ずらして参拝しました。Twitterを見ていると、12月21日の初日に並んだ方も結構いたようですが、それでも例年のような混み具合ではなく、特に北参道からは、すんなりと頒布の窓口に到達出来た模様です。 私が東京メトロ早稲田駅に着いたのは、23日の12時18分でした。昼時なら、多少空いているのではと思ったのですが、同じくTwitter情報では、午前中とさほど変わらない参拝客だったようです。 冬至の日に参拝すると、時間によっては、表参道ではなく、左側の西参道から入り、境内に入るまでに結構時間がかかるのですが、今年は表参道の階段からすんなり境内に入れました。境内には、例年同様、行列を整理するためのロープが張られ、そこをぐるぐる歩くことになりましたが、いつもと違って全く立ち止まることがありませんでした。それぞれの窓口も、2、3人が並んでいるだけで、大して待つことなく御守を授かることが出来ました。 ただ、本殿への参拝はかなりの列が出来ており、ソーシャルディスタンスも取れているとは言い難い感じだったので、少し離れたところからお詣りさせてもらいました。早稲田駅で帰りの地下鉄に乗ったのは12時48分。わずか30分の早稲田滞在でした。 「一陽来復」の御守には2種類あり、一つは毎年決まった方角に向けて壁にお祭りするもの、もう一つは財布などに入れる懐中御守です。我が家では毎年、壁にお祭りする紙製の御守と、家族分の懐中御守を授かっています。 「一陽来復」という言葉は、「冬が終わって春(新年)が来ること」「悪いことが続いた後で幸運に向かうこと」などの意味があり、「冬至」そのものを表す言葉としても使われます。早稲田の穴八幡宮で「一陽来復」の御守を授与するようになったのは、江戸期の元禄年間(1688〜1704年)だそうです。 ただ、穴八幡宮の隣にあり、「金銀融通の御札『一陽来福』創始のお寺」をうたう、お隣の放生寺では、「江戸天保年間より當山に伝わる秘法を厳修し一部の信徒に授与したのが始まりです」と説明しています。天保年間は1831〜1845年で、元禄年間からは140年ほど後にずれていますし、一陽来「復」ではなく一陽来「福」とするなど、いまひとつ分から