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平安時代から続く絹の里は、中南米音楽とシャモ推しの町

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東日本大震災後、飯舘村や南相馬市へ取材に行く際、福島でレンタカーを借り、川俣町経由で入っていました。福島から川俣までは国道114号を通りますが、川俣に入って700mほどの所に小さな池があります。そのほとりには、「コスキンの町 川俣」と書かれたモニュメント「コスキンくん人形」が立っています。 初めて見る人は、「何だこれ?」と思うに違いありません。ところが、私の場合、やはり初見だったものの、すぐにそれが何かを理解しました。そうです。私、川俣がコスキンの町であることを、だいぶ前から知っていたのです。 日本最大のフォルクローレ音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が、川俣町で開催されていると知ったのは、2000年のことです。その年はちょうど、「コスキン・エン・ハポン」が始まって25周年だったため、それを記念して第1回コスキン・パレードも行われました。 「コスキン」というのは、南米アルゼンチンの地方都市の名前です。アンデス山脈の山間にある人口2万人の小さな市ですが、ここで10日間にわたり延べ20万人が集まる盛大な音楽祭が開かれます。 その祭りを模して、川俣町の南米音楽愛好家が、「コスキン・エン・ハポン(日本のコスキン)」として音楽祭を開くようになりました。当初は、全国13のフォルクローレ愛好家グループが集い、演奏を楽しんでいました。しかし、年々参加グループが増え、25年目の2000年には過去最高の161グループが日本各地から集まり、2日間にわたり演奏を行ったそうです。 その後も、ますます隆盛となり、連綿と続いてきました。今では国内外から200組を超える演奏者が集まる国内最大級の中南米音楽の祭典に成長。10月第2土曜日から3日間、山間の小さな町は、中南米の音楽とカラフルな色であふれ返ります。 実は川俣町も、東日本大震災の原発事故により、一時、山木屋地区が帰宅困難地域に指定されていました。しかし、各地から寄せられる応援に力を得て、コスキン・エン・ハポンは震災の年にも例年通りに開かれました。 ただ、2019年は東日本台風、2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で、コスキン・エン・ハポンは中止となりました。今年は、4月時点では開催予定で進んでいましたが、その後の状況に鑑み、開催断念を決断。残念ながら、3年続けて中止という事態になりました。 昨年は、代替えイベントとして、演奏動画を集めて

震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント

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2011年5月4日、震災後初めてとなるゴールデンウィーク中に、福島県新地町で大規模な炊き出しイベントが行われました。イベントを主催したのは、新地ライオンズクラブ(当時31人)で、これにSNSを通じて全国から大勢の支援者が集まり、新地町役場前で盛大に実施されました。 SNSで発信したのは、明石の橋本維久夫さんでした。橋本さんは、阪神・淡路大震災以来、被災地での支援活動を実践されてきました。更に、2004年の新潟県中越地震の炊き出しには、他県からも数人の賛同者が参加。07年の新潟県中越沖地震では、その輪が6都県20人と大幅に広がり、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。そして新地には、橋本さんの呼び掛けに12都県から43人のボランティアが参集しました。 新地での活動のきっかけとなったのは、岐阜のOTさんでした。OTさんは、東日本大震災後、すぐに沿岸部の各市町村災害対策本部に連絡。その中で3月14日、相馬市災害対策本部から食料品などの支援要請が入り、3月22日に支援物資を持って相馬を訪問しました。そして、災害対策本部に物資を下ろした後、相馬編( 「母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み『常磐もの』」 )で紹介した、八坂神社の岩崎和夫宮司らの案内で、避難所4カ所にも直接物資を届けました。 この時、岩崎さんは、所属するライオンズクラブのつながりで、隣の新地ライオンズクラブにも連絡。新地から5人の会員が相馬まで出向き、緊急で必要としていた乳児用のミルクなどを受け取り、新地町の避難所でそれらを配布しました。OTさんは、ここでつながりが出来た新地の方たちと、その後もコンタクトを取り続け、ゴールデンウィークの炊き出しイベント開催にこぎ着けたというわけです。 一方、受け入れ側の窓口となったのは、歯科医の笹原健児さんでした。笹原さんは、自宅と歯科医院が流失し、自らも被災する中、炊き出しイベントの中心として活動されました。新地町は福島県浜通りの最北端にあり、3月11日の本震では震度6強を記録。新地ライオンズクラブのメンバーでもある加藤憲郎町長によると、その時点で津波により92人が亡くなり、23人が行方不明とのことでした(その後の調べで死者118人、家屋全半壊630戸)。 そんな中、当日は朝から、加藤町長自らが防災行政無線でイベン

母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み「常磐もの」

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東日本大震災から1年ほど経った頃、相馬でお会いした八坂神社の岩崎和夫宮司(当時)は、「相馬は幸い放射能は少ないのですが、それでも海産物や農作物などに影響が出ています。相馬のカレイやアイナメは本当においしいんですよ。でも1年以上、地元の魚を食べていません」と、話していました。 相馬市は震災前、高級魚主体の近海漁で名をはせていました。しかし、大津波で港が破壊され、漁船や漁具も流されました。更に原発事故により海が汚染され、近海漁は自粛を余儀なくされてしまいました。 そんな中、相馬市長の発案で、港に近い原釜地区の漁業関係者が、NPO「相馬はらがま朝市」を立ち上げました。活動目標は、被災した人たちに生きる勇気を届け、「一人の落伍者も出さない」こと。そして震災2カ月後の2011年5月から、毎週末、飲食ブースや支援物資の配布をする朝市を開催していました。 相馬市の仮設住宅には、市内で被災した人たちばかりでなく、飯舘村や南相馬市など、原発事故避難者も多く入居していました。この人たちからも「落伍者」を出したくない。そのため、「相馬はらがま朝市」は「朝市に来れば何かに出逢える」を合言葉に、笑顔のコミュニティーとしての役割も担うよう努めていました。 岩崎さんとお会いしてから、更に半年ほど経って、この「相馬はらがま朝市」を取材しました。当日は、茨城県笠間市の方たちが、支援活動で訪問していました。笠間は日本一の栗産地として知られ、びっくりするほど大量の栗が投入された栗おこわや、つきたての餅を被災された方たちに振る舞いました。 また、前日に、6人がかりで3時間掛け、畑から抜いてきたという約550本の大根も無料で配られ、大好評でした。 笠間の皆さんが、「相馬はらがま朝市」を訪問するのは2度目のことで、震災の年の12月に餅つきと手打ちそばで参加したのが最初だそうです。「その時、地元の人たちも一緒になって盛り上げてくれ、復興のため自分たちもがんばろうという気持ちが強く感じられました。それを見て、また来なくちゃと思い、朝市の代表者にそう伝えちゃったんです(笑)」と、訪問団の代表が話していました。 相馬を始め福島県と茨城県北部の沖合いは、親潮と黒潮が交じり合い、カレイやヒラメなど150種以上の魚が集まる好漁場となっています。ここでとれた魚は、「常磐(じょうばん)もの」と呼ばれ、鮮度と質の高さで知られてい

南相馬市小高区で帰還準備のお手伝い

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ある時、 高山編(「飛騨高山で味わう絶品B級グルメとスーパージビエ」) の主要登場人物OTさんから、「東日本大震災復興支援のため南相馬市へ行く」と連絡がありました。OTさんは震災後、宮城県山元町や福島県相馬市、新地町など、各地で支援活動を展開。南相馬での活動もその一環でした。 私はそれまで、福島県では いわき市 や相馬市、新地町、 飯舘村 などへは行っていましたが、南相馬へはまだ行ったことがなかったため、この機会に同行させてもらうことにしました。前日、栃木での取材が入っていたので、そのまま福島まで行き、朝、福島から南相馬へ回ることも考えましたが、OTさんたちの予定を聞いて、いったん自宅に戻り、当日、改めて福島経由で南相馬へ向かうことにしました。 なんせ、OTさんたちの地元・岐阜県各務原から南相馬市までは片道約680km、車で約8時間の行程です。予定では、早朝4時に各務原を発ち、昼の12時に南相馬市のボランティアセンターに到着するという話でした。福島からだと、川俣町と飯舘村を経由して車で約1時間半なので、OTさんたちががんばって移動している間、福島のホテルでのうのうと寝てるのも悪いと思ったわけです。 とはいえ、朝、自宅から出発したとしても、私の移動時間はOTさんたちの半分もかからないので、当日、OTさんたちと合流する前に、地元の方から少しお話を伺うことにしました。 南相馬市は、2006年に、原町市と相馬郡の小高町、鹿島町の1市2町が合併して誕生しました。その5年後に発生した東日本大震災では、最大震度6弱を記録。その後の津波で約1800戸の住宅が流されました。更に、福島第一原発の事故により、南相馬も一部地域が「警戒区域」や「計画的避難区域」に指定され、大変な状況に追い込まれました。 その後、2012年4月16日に避難区域が「避難指示解除準備」「居住制限」「帰還困難」の3区域に再編されました。これにより立ち入りが自由になった地域もありましたが、宿泊は依然として禁止され、戻って来ることが出来ない市民がまだ大勢いました。南相馬市の震災前人口は約7万人。しかし、訪問した当時は市内在住者約4万4000人(自宅約3万4000人、仮設・見なし仮設など約1万人)、市外避難者約2万人で、5000人以上が転出していました。 OTさんたちが活動を予定していたエリアは、南相馬市の中でも最も原発

「までい」を合言葉にした村づくり - 飯舘村

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東日本大震災直後、飯舘村は津波の被害が大きかった沿岸部から、約4000人の避難者を受け入れました。その後、原発事故により、村内が高濃度の放射能に汚染されていることが判明。政府により、計画的避難区域の指定がなされ、全村避難が決まりました。 ただ、計画的避難に伴う避難者の第1陣が離村したのは、原発事故から既に2カ月以上が経過した5月15日のことでした。飯舘で生まれ、ずっと村で生活をしてきた渡邊守男さんは、当時のことを次のように話していました。 「震災後、飯舘は停電こそしていましたが、建物の倒壊や道路の亀裂は見られず、自宅もさほど大きな被害は受けていませんでした。困ったのは、買い物をしようにも店に品物が無いこと、そして情報が入らないことでした。12日の午後3時頃、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こしたのも、詳しくは分からずにいました。 村では6カ所の避難所を設営し、村の人々が米や野菜を持ち寄り、浜通りの人たちのために避難所を運営していました。そんな中、14日の午前11時頃に原発の3号機が、翌15日の朝6時頃には2号機と4号機が水素爆発を起こしました。この時、漏れた放射能物質が、風で飯舘から福島方面へ広がり、それがみぞれとなって村に降り、土壌に染み込んだのです。 しかし、国も県も村も、飯舘への避難指示は出しませんでした。その一方、浜通りから避難してきた人たちには、どこからか情報が入ったのか、あっという間に避難所から人が消えました。私も知人が避難されていたので訪ねてみたところ、その時はもうどこかへ行かれた後でした。我々はと言えば、村民の不安を感じた村長が栃木県に依頼し、19日になって初めて約500人が集団自主避難をした他は、ほとんどの人が村に残っていました」 政府が、放射線量が年間積算20ミリシーベルトに達する恐れがあると、飯舘村全域を「計画的避難区域」に指定したのは4月22日でした。以下は、震災時を含め6期を勤め上げ、昨年10月に退任された菅野典雄前村長の述懐です。 「政府からの指示は、おおむね1カ月以内に住民全員が避難せよというものでした。これを聞いて、私の頭に浮かんだのは、村をゴーストタウンにしたくないということでした。もちろん住民の健康が大事ですから避難はしますが、何らかの動きを村に残しておきたい。そうすれば後々、村に戻ることが容易になるのではないか。 特に気がかり