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不思議系B級グルメの代表格「黒石つゆやきそば」

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新青森駅にあった「黒石や」の黒石つゆやきそば 弘前城追手門広場での取材後、お目当ての「肉の富田」のかつサンドをゲット出来ず、傷心の帰京となった私(詳しくは 昨日の記事 参照)。新幹線で帰るため、弘前駅から新青森駅へ移動しました。 と、ここで、「B級グルメ黒石つゆ焼そば」と書かれた暖簾を掲げる「黒石や」という店を発見。かつサンドの敵をつゆやきそばで、じゃないですが、B級グルメ好きとしては、ここは食っとけモードとなり、暖簾をくぐって店内に入りました。 黒石には行ったことがないし、初のつゆやきそばだな。そう思った、忘れん坊の私。当然のように、「名物!」と書かれたつゆやきそばを注文しました(写真上)。 黒石にはもともと、太めの平麺と甘辛いウスターソースが特徴の「黒石やきそば」がありました。この「黒石やきそば」に汁をかけたものが、「黒石つゆやきそば」で、昭和30年代後半に提供されたのが最初と言われています。 「黒石やきそば」は、かつて「おやつ焼きそば」と呼ばれ、10円から食べられる子どものおやつだったそうです。関東のもんじゃ焼きも、昔は東京の下町や埼玉の南東部の駄菓子屋で子どもたちがおやつとして食べていたものでした。それが今、B級グルメとして脚光を浴びているわけですが、子どもの頃に食べていた人には郷愁をもって、またそうではない人にとっても珍しい食べ物として、受け入れられているのでしょう。 で、「黒石つゆやきそば」は、黒石市中郷にあった「美満寿」という食堂が始めたものでした。子どもの頃に食べた人の話では、「寒い冬に、子どもたちのため、作り置きで冷めてしまった焼きそばに温かい汁をかけてくれたのが始まりじゃないのかなぁ」とのこと。 ただ、「美満寿」の閉店により、つゆやきそばもいったんは姿を消してしまいます。しかし、その味を懐かしんで、つゆやきそばを再現する飲食店が出始めます。更に近年のB級グルメ・ブームもあり、「黒石やきそば」と共に「黒石つゆやきそば」も脚光を浴びるようになりました。 なぜかすり鉢で提供された「妙光」二号店の黒石つゆやきそば となれば、全国的にも珍しい、不思議系B級グルメのつゆやきそばに注目が集まるのは必須。てなわけで、今では黒石「名物!」と言われるようになったわけです。 ところで、うっかり者の私、忘れていたことがあります。新青森駅で「黒石つゆやきそば」を食べるずっ...

棟方志功も愛した「高砂」のそば

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昨日の記事で、伊賀市にある老舗精肉店「金谷」のことを書きましたが、青森県弘前市に行った際、最高に心惹かれるショーウインドウを持つ精肉店を見つけました。店の名は「肉の富田」。木の窓には、大きく「かつサンド」の貼り紙がしてありました。 弘前についても以前のブログ( 古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市 )で書いていますが、弘前には1898(明治31)年に陸軍第八師団が設置され、その関連施設が林立して「軍都」と称されるようになりました。周辺には、新たに商人の街が形成され、第二師団があった仙台から移転してきたり、支店を出したりした者も少なくなかったようです。 その一つは、第八師団駐屯地となった翌年に、仙台から出店した三原時計店で、その弘前店として建てられた赤いとんがり屋根の時計塔は、現在、土手町のシンボルとなっています。で、「肉の富田」も、仙台から移ってきたそうで、こちらは1904(明治37)年から弘前で営業しています。 そんな歴史ある店なので、ショーウインドウも木製で出来ており、それに惹かれたのです(いくら私でも、単なるかつサンドの貼り紙で萌えるはずがありません)。この日は、追手門広場で取材があり、弘前駅からそちらへ向かう途中で木のショーウインドウに出合いました。が、かつサンド持参で取材するわけにもいかず、帰りに買おうと思って、いったんスルー。でも、帰りに寄ったら、もう売り切れでした。 後悔先に立たず・・・ですな。で、物欲しそうにショーウインドウを覗いていたら、他にも「ナポリタンスパゲテー」とか「豚そぼろ」とかが並んでいました。どうやら、惣菜も扱っているようです。 弘前の知人に教えてもらったところによると、肉の富田のかつサンドは、弘前市民のソウルフードとも呼べるものだそうです。私、ホントこういうのに鼻が利くんですよねえ。で、かつは、薄切り肉を数枚重ね合わせて揚げているんだとか。食べたかったなあ。 ちなみに、「元祖伊賀肉 金谷」と同じく、こちらも1階は精肉店ですが、2階で食事が出来る(た?)模様。ネットでは、学生時代、ここで部活の飲み会をやり、すき焼きを食べたという人がいたので、確かだと思います。 というわけで、弘前名物のかつサンドは逃してしまった私ですが、追手門広場での取材前には、こちらも老舗のそば店「高砂」で、お昼を食べました。1913(大正2)年創業と...

武州のだるまさんは男前

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暮れから正月、そして3月末頃まで、全国的にだるま市が集中します。冬はだるまの製造元にとって、文字通り暮れも正月もない最も忙しい時期です。埼玉県南東部に位置し、江戸時代には日光街道の宿駅として栄えた越谷市も、だるまの産地として知られています。 越谷だるまは、別名「武州だるま」とも呼ばれ、関東地方を中心に広く北海道から九州まで出荷されています。生産量としては、群馬県の高崎だるまに次いで全国2位を占めておリ、寅さんで有名な柴又帝釈天や同じ東武線沿線の西新井大師、神奈川県の川崎大師などの参道で売られています。 越谷のだるま作リは、口碑によれば、江戸中期、「だる吉」という人形師によって始められたと伝えられています。その後、幕末の頃、高橋八太郎という人が、本格的にだるまの製造を始め、武州だるま発展の基礎を築きました。この武州だるまの特徴は、他の産地に比べ、色が白く、鼻がやや高く、上品で優しい顔立ちをしていることにあると言われています。そのため、粋を好んだ江戸町民から「武州だるまは男前」との評判を取り、隆盛を誇りました。 だるまは、生地の作リ方から見て、昔ながらの張り子だるまと真空成型だるまとに大別出来ます。張リ子だるまは、いちょうの木で作った木型に下張り紙を貼リ、その上の和紙を貼って2~3日天日で乾かし、その後、型抜きして、膠で切リ目を貼ります。一方、真空成型というのは、どろどろに溶かした紙と鋳型を使うもので、機械化され、生地作リ専門の業者によリ、それぞれの産地に卸されています。 現在では、ほとんどの産地が、真空成型の生地を利用しておリ、伝統的な張リ子だるまは消えつつあります。そして、真空成型方式によって、量産出来るようにはなりましたが、その一方で、形が画一化され、生産者の持つ個性と味わいが失われてしまっているのも事実です。 その中にあって、武州だるまはわずかではありますが、昔ながらの張り子だるまの伝統を守っておリ、1984(昭和59)年には、だるま産地としては全国で初めて、県の伝統的手工芸品の指定を受けています。 現在、この伝統的な張り子だるまの製造元は越谷市を中心に4軒残っていますが、どの家も代々家業を継承している家ばかりです。これは、他の職人仕事と同じで熟練するまでにはそれなりの年月がかかるためでしょう。そして、各家がそれぞれ独自の木型を持ち、個性溢れるだるまを作っていま...

日光街道第三の宿場町・越谷あれこれ

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江戸時代の地口(言葉遊び)に「草加(そうか) 越谷 千住の先よ」というのがあります。越谷は千住、草加に続く日光街道第三の宿場町。日光街道は、日本橋を起点に千住から草加、越谷と続き、更にその先に粕壁(春日部)など、日光までに全部で21の宿場が置かれていました。 千住は日光街道第一の宿で、松尾芭蕉『おくの細道』旅立ちの地でもあります。また次の宿・草加は草加せんべいで有名。越谷の次、春日部はアニメ『クレヨンしんちゃん』の舞台として知られます。そう思うと、この越谷、かなり影が薄いように感じてしまいます。 越谷市の人口は約34万人。1962年に東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)が東京メトロ日比谷線と直通運転を開始して以降、東京のベッドタウンとして急速に人口が増加。更に2008年3月にJR武蔵野線の越谷レイクタウン駅が開業。その年10月には、越谷レイクタウン駅北口駅前に日本最大のショッピングモール「イオンレイクタウン」がオープンし、影が薄かった越谷もだいぶ様相が変わってきました。今では、大東建託賃貸未来研究所による「街の幸福度ランキング」調査で、越谷レイクタウン駅が、4年連続で「街の幸福度(駅)」埼玉県版のトップになるなど、イメージも良くなっているようです。 そんな越谷市に、平安時代中期の創建とされる古社・久伊豆神社があります。江戸時代には鷹狩りの折に越谷に宿をとっていた将軍が参拝されたと言われ、社紋「立葵」はその際に徳川家から奉納されたと伝えらています。明治維新後はこの辺りの総鎮守として郷社に列格。宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されています。 久伊豆神社の境内には、樹齢約250年、県の天然記念物に指定されている藤があります。神社によると、「この藤は埼玉県指定の天然記念物で、株回りが7m余り、地際から7本に分かれて、高さ2.7mの棚に枝を広げている。枝張りは東西20m、南北30mほどあり、天保8年(1837年)、越ヶ谷町の住人、川鍋国蔵(ほうき職人だったらしい)が、現在の千葉県流山から、樹齢50余年の藤を舟で運び、当地へ移植したといわれています」とのこと。 花の見頃は、だいたい4月末から5月初旬のゴールデンウィークの頃で、市内外から花を愛でるため多くの人が訪れます。 また、その少し前の3月下旬から4月上旬には、北越谷の元荒川桜堤でソメイヨシノが咲き誇り、多く...

合掌造りが教える、生きるための知恵

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岐阜県の北西部から富山県に接する山間は、国内でも有数の豪雪地帯です。白川村のある一帯は、1893(明治26)年に村を南北に通る白川街道(国道156号)が開通するまでは、人々の往来も珍しいような静かな山村でした。昔から、養蚕とわずかな農地を利用した自給自足の生活が営まれていましたが、開墾出来る土地が少ないせいもあり、一家に兄弟が生まれても土地を与えて分家させることが出来ません。そのため同じ屋根の下に一族が同居する大家族制度が、明治末頃まで続けられ、大家族が暮らすに足りる茅葺き屋根の大きな家屋が建てられました。 1935(昭和10)年、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、この「合掌造り」と呼ばれる茅葺き屋根の建物を調査するため白川郷を訪れます。合掌造りの集落を目にしたタウトは「極めて論理的かつ合理的で、日本のどの地域でも見られない民家の形」と考え、日本の建築では京都の桂離宮と共に、白川の合掌造りを高く評価。その後、彼の著書によって白川郷は広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになったのです。 合掌造リは、正確には美濃の山奥から発して、荘川村(現・高山市)、白川村、五箇山地方を経て砺波平野から日本海へ注ぐ庄川の流域に分布する民家群を言います。この合掌造リの形態の周辺にはいつも、平家の落人伝説、大家族制度、妻問婚などの一連の古い習俗がまとわりついていて、それが人々に日本のふるさとを感じさせる遠因ともなっています。 合掌造りの特徴は、木材を梁の上に手の平を合わせたように三角形に組み合わせた、勾配の急な茅葺き屋根にあります。勾配のついた屋根は強風に吹かれたり大雪が積もっても決して倒れることはありません。建物は南北に面して建てられていますが、これは時に40mを超える強い風が吹く白川の自然を考慮したためで、風の抵抗を最小限にすると共に、屋根に当たる日照量を調節して、夏は涼しく冬は保温されるように工夫されています。 また、建物内部が何層にも分けられているのは、養蚕に利用するためのスペースをとる工夫から生まれました。三角の大屋根部分は、大家族の居住室ではありません。合掌造りでは、まずその平面積が中規模でも約80坪、家族構成員は平均して20人から25人で、大部分が1階または中2階に住んでいました。実は三角形の部分は、ほとんどがスノコ敷の多層室になっており、それが養蚕のためのスペースでし...

伊賀肉専門の老舗精肉店「金谷」の寿き焼

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伊賀肉を専門に扱う老舗の精肉店「元祖伊賀肉 金谷」は、1905(明治38)年から、東京へ伊賀牛を出荷していたそうです。しかし、昭和になると、衛生面から列車で生きた牛を運ぶことが禁じられました。そんなこともあって、伊賀肉は現在、伊賀市外にはほとんど出回っておらず、幻のという形容詞がついています。 一方、「金谷」では、1928(昭和3)年に、伊賀街道沿いに店を構え、1階を精肉店、2階を料亭にし、伊賀肉を提供するようになりました。2階のイチオシ・メニューは「寿き焼」。美食家としても知られる池波正太郎が、エッセー集『食卓の情景』にも取り上げた絶品です。 金谷のすき焼きは伝統的な関西風で、割り下は使いません。ベテランの仲居さんが、鮮やかな手さばきで焼いてくれます。見ていると、使い込まれた南部鉄の鍋に牛脂をなじませ、まず肉を1枚だけ焼き始めます。そして砂糖と濃口醤油で味を整え、「どうぞ」と勧めてくれます。肉本来のおいしさを味わってもらうためだそうです。 120年近くにわたって伊賀肉を専門に扱ってきた店だけに、肉そのものがいいのでしょう。最近は「霜降り信仰」と言われるほど、サシ偏重の傾向が強くなっていますが、金谷の伊賀肉はサシが適度に入り、うまみもしっかりと残っています。これなら年配の方でも、たくさん食べられそうです。野菜も地の物を使っており、全ておいしく頂けました。  ◆ ちなみに、東京で伊賀肉のすき焼きが食べられないか検索したところ、1軒だけ見つけることが出来ました。浅草にある「おりべ」です。 同店のサイトによると、「当店では、その殆どが伊賀(三重県)で食される為に東京ではあまり出回っていない、希少な伊賀牛を産地から直接仕入れて使用しております。伊勢志摩サミットでも振舞われたこの伊賀牛は『肉の横綱』とも呼ばれ、大変柔らかく、またサシがありながらしつこすぎない味わいが特徴です」とのこと。 ただ、完全個室、完全予約制で、昼夜とも1日2組のみらしく、気軽に立ち寄れるわけではありませんでした。で、リタイアと同時に始まったコロナ禍もあり、いまだ食べに行けていません。 ■ 「元祖伊賀肉 金谷」 :伊賀鉄道伊賀線広小路駅から徒歩2分 ■ 「おりべ」 :つくばエキスプレス浅草駅から徒歩5分/東武線浅草駅から徒歩10分/東京メトロ銀座線浅草駅・都営浅草線浅草駅から徒歩15分/東京メトロ日比谷線...

福岡で知らない人はいない150年の老舗「吉塚うなぎ屋」

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福岡市で行われたとある会議の終了後、一緒に出席していた熊本の知人TTさんと博多駅まで歩き、別れ際に、「時間があったら案内したいうなぎ屋があったんだけど」と言われました。焼き方は関西風なので、東京で食べているうなぎとは違うと思うが、とてもおいしいので、ぜひ食べてもらいたかった、と。 おいしい食べ物を逃した経験は、結構、記憶に残るようで、高鍋の天然カキの場合は、13年もの間、待ち焦がれていたほどです( 苦節13年、豊かな森と日向灘の荒波が育てる高鍋の天然かき )。なので、この時の会話も、私の脳裏に刻まれ、福岡に行く度に思い出すことになりました。 そしてついに、それが実現する日がきました。以前のブログ( レトロエリアやベイエリア、いろいろな顔を持つ福岡 )にも書いた、ある国際会議を取材した時のことです。しかも、会議の参加者には友人もたくさんおり、彼らと一緒に、その店「吉塚うなぎ屋」を訪問しました。 「吉塚うなぎ屋」は、福岡の人で知らない人はいないと言われるほどの店だそうです。創業は、昨日のブログに書いた「つきじ宮川本廛」( 創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」 )より、20年古い1873(明治6)年。今は中洲にありますが、創業地は博多駅の北にある吉塚だったので、「吉塚うなぎ屋」を名乗りました。 熊本のTTさんが、関東のうなぎとは違うというので、関西風なのかと思いきや、そこに店独自の焼き方によって、表面はカリっとしつつ、ふっくらとした蒲焼きに仕上がっています。焼きの際、「吉塚」独自の「こなし」という技を加えているからだそうです。 うなぎの蒲焼きは、関東と関西で、開き方と焼き方に違いがあるとされます。開き方は、関東が背開き、関西が腹開きになります。関東は武家文化で、腹開きは切腹をイメージするので敬遠された、関西は商人文化で、腹を割って話をするので腹開きが好まれた、などと言われます。また、焼き方は、関東が蒸し焼き、関西が直火焼きです。更には、焼く時の串も関東は竹串ですが、関西は金串を使うようです。知らんけど・・・。 しかし、切腹だとか、腹を割って話すとか、うなぎのさばき方に、いちいちそんなことを考えたとも思えず、単なるこじつけなんじゃないですかね。実のところ、あらかじめ蒸しておくことで焼き時間を短くしたり、蒸すためには身が崩れにくい背開きの方がいいとか、単に作業効率の問...

創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」

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一昨日の 居酒屋「鍵屋」 、昨日の あんこう料理専門店「いせ源」 に続く老舗つながりで、編集部があった築地の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」について触れておきます。 「つきじ宮川本廛」は、1893(明治26)年の創業です。同店のサイトによると、創業者の渡辺助之丞は、深川にあった「宮川」という、うなぎ専門店で修行をした後、暖簾分けにより築地で開業したそうです。 深川の「宮川」は、幕末から営業していた老舗のうなぎ店で、同店の主人だった宮川曼魚が、随筆『深川のうなぎ』(1953年)の中で、次のように記しています。 「維新前に深川八幡前の川岸端に鰻屋があつた。表通りには長い竹樟の先へ紺地に白く染め抜いた『田川』と云ふ『のぼり』がたてゝあつた。木場の人達は、松本や平清の酒後好い気持で芸者や松本の女中を連れて、この『のぼり』へ行くのであつた。仲町の芸者や、松本、平清の女中たちはふだんにもこの『のぼり』へ行つて、白焼で一口やつたあとは、筏で『ごはん』を、と酒落こんでゐた。当時にあつては誰れもが『のぼり』と呼んで通つてゐた。  その『のぼり』が明治になつて『宮川』になつた。そして表通り西寄りの方へ移転して、現今も引続いて繁昌してゐる。昔は松本や平清と倶に深川の名物になつてゐた」 宮川曼魚(渡辺兼次郎)は、日本橋にある老舗のうなぎ屋「喜代川」の次男として生まれました。若い頃、室生犀星や萩原朔太郎らと共に、北原白秋門下として文学活動を始めますが、請われて、後継者がいなかった深川「宮川」を継ぐことになります。そして、うなぎ屋の主人を務めるかたわら、江戸文学の研究を続けました。 「つきじ宮川本廛」のサイトによると、「深川のうなぎ専門店『宮川』での修業を終え、同店の廃業に際し名跡を受け継ぎ、明治26年、散切り頭の助之丞二十八歳は築地橋、東詰めに“うなぎ屋”を開業」とありますが、深川の「宮川」は、戦後も繁盛していたわけですから、「宮川」の名跡を継いだのは、開業と同時ではなかったようです。 ちなみに、1951年6月28日に亡くなった林芙美子は、その前日、『主婦の友』の連載企画「私の食べあるき」で、東京の料理屋を2軒回りました。その1軒が、深川の「宮川」でした。 うなぎが、庶民の食べ物となったのは、江戸時代に入ってから。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸の町の整備に着手し、1回目の天下普請では、日比...

神田にある老舗のあんこう料理専門店「いせ源」

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昨日、1856(安政3)年創業の居酒屋「鍵屋」について書きましたが( 江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」 )、今日はそれより更に古い料理屋「いせ源」の話です。かつて勤めていた編集部の忘年会を老舗シリーズにしていたことがあり、その一つが、1830(天保元)年創業の「いせ源」でした。 「いせ源」は、神田にある有名なあんこう料理専門店ですが、もともとは京橋にあった「いせ庄」というどじょう屋が前身だそうです。2代目の時に、京橋から神田に移転し、店の名を「いせ庄」から「いせ源」へ改めます。「庄」は初代の名前・庄蔵から取っており、改名後の「源」も2代目の名前・源四郎から取っています。 じゃあ「いせ」はというと、店主の名字は伊勢ではなく立川、更に三重県の出身でもないようで、話によると、江戸の名物「伊勢屋」の「いせ」を拝借したらしいのです。有名な噺のまくらに、江戸の名物があり、それには、「火事に喧嘩に中っ腹。伊勢屋、稲荷に犬の糞」と、「伊勢屋」が出て来ます。江戸の町には、それだけ「伊勢屋」が多かったわけですが、そんなブランドにあやかったのかもしれません。 それはともかく、神田に移って「いせ源」として営業を始めた2代目は、どじょうだけではなく、あんこう鍋やよせ鍋、かき鍋、青柳鍋、白魚鍋など、さまざまな鍋を提供。その中で、あんこう鍋は、当時主流だったみそ仕立てから醤油仕立てに変えたことで、江戸っ子の胃袋を完全にわしづかみ。それはやがて、4代目があんこう鍋専門店にするほどの人気ぶりだったようです。 定番のあんこう鍋の他にも、きも刺しや唐揚げ、煮こごり、とも和えなど、さまざまなあんこう料理が楽しめます。また、鍋のシメにおじやを作ってくれますが、これがまた旨いのです。 建物は、関東大震災で全焼した後、再建された当時のままのもので、東京都の歴史的建造物に選定されています。老舗にふさわしい佇まいで、大正時代の下町の風情をも伝えています。 ちなみに、老舗忘年会シリーズは他に、深川・森下にある馬肉料理専門店「桜鍋みの家本店」(1897[明治30]年創業)や、浅草にある牛鍋の「米久本店」(1886[明治18]年創業)などがありました。どちらも「いせ源」同様、雰囲気からしてすばらしいお店です。 みの家の桜鍋 米久の牛鍋

江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」

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前に上野について書いた際( 忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目 )、上野駅の隣にある鶯谷駅についても少しだけ触れました。その時にも書きましたが、鶯谷駅の南口は山の手台地、北口は下町低地になっており、南口は徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の寺域で、崖下となる北口はラブホテル街という、地形的にも環境的にも、かなり対照的な感じになっています。 で、上野の記事は、南口から上野公園に向かって書き進めましたが、北口にも、実はお薦めしたいスポットがあります。 鶯谷駅の南口から跨線橋で北口へ渡り、鶯谷駅下の交差点で言問通りを横断。左に進んで2本目の道を入り、すぐに左折すると、右側に大変趣のある佇まいを見せる正統派居酒屋「鍵屋」があります。 「鍵屋」は、1856(安政3)年の創業。現存する居酒屋としては、日本最古と言われます。もともとは酒屋で、店先に卓を置いて飲めるようになっていたそうです。当時は、今よりもやや浅草寄りの下谷に店を構えていましたが、言問通りの拡張に伴い現在地へ移転。大正元年に建てられた日本家屋を改装し、風情ある店構えを保ちつつ今も変わらぬスタイルで営業しています。 なお、初代の建物は、私が幼少期から結婚するまで住んでいた小金井市の、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築され、毎年8月のイベント時には、その中でお酒を楽しめるそうです。 これまで何度か「鍵屋」に行っていますが、17時開店なので、平日、仕事を終えてからだと、店内はいつも満席。ただ、お客さんが長居をするような店ではないので、少しの間、待っていれば入ることが出来ます。 メニューを写真で入れておきますが、私が必ず頼むのは、「うなぎのくりからやき」と「煮奴」です。 「くりからやき」は、不動明王が持つ倶利伽羅剣に似ていることから名付けられたもので、「鍵屋」では、間違いなく看板メニューになっています。「鍵屋」では、うなぎの腹身を串に刺し、たれに漬けて炙っています。身は弾力があり、甘辛いたれとうなぎの脂がよく絡み、とてもおいしいので、お薦めです。 もう一つの「煮奴」も「鍵屋」の名物の一つで、メニューにある「とりもつなべ」の甘辛い醤油味のつゆで煮ています。とりもつのだしが、豆腐によく染み、更に時々とりもつが入っていたりして、それもまた楽しみな一品となっています。 また「鍵屋」のお酒は、菊正宗、大関、櫻正宗の...