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日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

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2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

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宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました

海と祭りに生きる山田の人々

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山田町は岩手県沿岸部のほぼ中央、北を宮古市、南を大槌町に挟まれています。東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、更にその後に発生した火災で、町役場周辺の約500棟があった区画が焼き尽くされました。焼失面積は推定で約18haと、今回の震災で発生した東北沿岸部の火災では最大の被害となりました。 震災後、山田町を最初に訪問したのは、4月15日でした。釜石、大槌、山田に支援物資を搬入する河合悦子さんのグループ( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )を取材するためでしたが、この時にお会いした山田町の方たちには、その後何度も、取材でお世話になりました。その一人、千坂清一さんに、当時のことを伺ったことがあります。  ◆ 震災前は海から100mほど離れた国道沿いで薬局を経営していました。あの日、私は2坪強の調剤室、二人の従業員は店舗、家内は2階の自宅で遅い昼食を取り寛いでいました。そこへあの揺れがきました。予想外に長く強い揺れに、店では化粧品の瓶が割れ、従業員の悲鳴が聞こえてきました。調剤室でも棚やロッカーが倒れ、飼っていた猫が飛び込んできて私の足元をすごい速さでグルグル回りました。初めて見る行動で、恐ろしいことが起きると、動物の本能で察知していたようです。ようやく揺れが収まった後、すぐに店を閉め、家内には近所に一人で暮らす義母(当時93歳)を連れて避難所である役場に行くよう、従業員にはすぐに自宅に帰るように指示しました。 義母、家内と私の3人が役場の中庭に避難してから約30分、周囲が異様な雰囲気に包まれました。何人かが海の方向を見て息をのむような声にならない声を上げていました。屋根が左から右へ、かなりの速さで動いていくのです。周囲には黄色い煙が上がっていました。後に、大津波が建物を根こそぎ破壊していたのだと分かりました。 それからは町内の一角で発生した火事が一晩かけて広がる様子を、役場の敷地内から呆然と見ていました。翌12日の朝に見た山田町はがれきの山と焼け跡、それに異臭が加わり、とても現実とは信じられませんでした。  ◆ 最初の訪問から数日後の4月21日、青森県の弘前東奥ライオンズクラブが、岩手県山田町の保健センター前で炊き出しを行い、弘前名物のかに汁とおにぎりを800食ずつ山田町の人たちに振る舞いました。 かに汁は、桜の名所・弘前の花見に欠かせない津軽地方定番の季

そうだ 大槌、行こう

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大槌町吉里吉里の浪板海岸は、返す波のない「片寄せ波」で知られた砂浜海岸です。遠浅で波の力が緩衝されやすいこと、寄せた波が粗い砂の間に吸われてしまうことで返す波がないように見えるようです。また、リアス海岸が続く三陸の中では、比較的開けた船越湾にあり、広く太平洋を望むことが出来ます。 東日本大震災が起きた時、この海岸にある浪板観光ホテルには、47人の宿泊客がいました。そのうち、秋田県五城目町と井川町の「老人クラブ」会員ら43人は、地下1階のホールで大衆演劇を観劇している最中でした。お年寄りたちは、浴衣に羽織、スリッパ姿でしたが、従業員の指示で、そのままホテル前の国道を横切って山を上り、町内会の集会所に避難しました。 いったん落ち着いた後、山﨑龍太郎社長と妹で女将の緑莉さん、そしてホテルの防災担当だった道又晃さん、営業支配人小笠原弘孝さん、料理長那須川忠さんらが、ホテルへ戻って状況を確認すると共に、部屋に客が残っていないかどうか、館内を確かめて回りました。その時、船越湾の入口にある野島で、水煙が上がりました。それに気づいた道又さんは、すぐに「津波がきます」と声を掛けましたが、山﨑社長と緑莉さんは間に合わず、押し寄せた津波にのみ込まれました。また、那須川さんもホテルの駐車場で津波に巻き込まれました。 ホテル近くの国道に待機していた大槌町消防団の加賀敏勝さん、久保衛さん、佐藤貴広さんの3人が、すぐに那須川さんの救助に向かいました。しかし、国道から10m下の駐車場へ垂らした消防用ホースを、那須川さんがしっかりつかんだところに、更に大きな第2波が押し寄せ、那須川さんと3人の消防団員は、ポンプ車と共に流されてしまいました。 一方、「老人クラブ」会員らが避難した集会所では、地元の人たちが米や衣類、毛布を差し入れてくれ、一行は、ここで2晩を過ごした後、3月13日にホテルのバスで五城目町へ帰ることが出来ました。「命拾いしたのはホテルの従業員や大槌町民のおかげ」「ホテルは犠牲者を出しながら全員の命を守ってくれた。このご恩を忘れてはならない」。五城目町ではホテルや大槌町への感謝の気持ちが強く、町を挙げて救援物資を届けたり、街頭募金で義捐金を集めたり、大槌への恩返しが始まりました。 震災から2年4カ月となる2013年7月11日の月命日には、旧大槌町役場前に新しい献花台を設置。五城目町の有志が地

地域の復興に尽くすボランティアの母 - 八幡幸子さんの話

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3.11大槌希望の灯り 点灯式 大槌町は、震災により壊滅的な被害を受けました。海からは少し離れている桜木町地区も、小鎚川をさかのぼった津波に襲われました。堤防を乗り越えた濁流は、家々を破壊しながら、あっという間に住宅街を覆い尽くしました。 大槌町の桜木町地区で「ファミリーショップやはた」を営む八幡幸子さんは、夫の正一さんと共に自宅2階からそれを呆然と見ていました。正一さんは、震災の2年前に脳梗塞で倒れて以来、身体が自由に動きませんでした。「逃げるのは無理。お父さんと一緒なら」。八幡さんは、そう覚悟を決めました。 幸い、津波は2階まで届きませんでした。外を見ると、逃げ遅れた人たちの姿が見えました。八幡さんは、車の上に取り残された老夫婦を助け上げた後、冷たく濁った水に胸までつかりながら、更に2人を救助しました。近所から避難してきた人も加え、八幡さんの家で10人が夜を明かしました。 しかし、津波でずぶ濡れになった1人は、その日のうちに亡くなってしまいました。 「助けられなかったことが悔しくて悔しくて……。それで、この思いを復興にぶつけようって思った」 桜木町ボランティアセンター そうは言っても、水が引いた後の町は、めちゃくちゃでした。経営していた食料品店は1階の天井近くまで浸水し、店内は泥だらけでした。店のローンは半年ほど前に払い終わっていましたが、また一から再スタートをするのは並大抵ではありません。その上、夫婦で暮らしていた自宅も、次男が住むため改装を終えたばかりの家も、津波でやられていました。内心、店を続けるのは無理だと思いました。 大槌町では震災後に火災が発生し、桜木町にも火の手が迫ってきました。そのため、八幡さん夫婦は、正一さんが利用していた介護老人保健施設「ケアプラザおおつち」に避難しました。ここには既に大勢の町民が避難しており、食べる物に困る状態でした。 そこで八幡さんは、店の商品を拾い集め、凍り付くような冷たい沢の水で、袋や容器に付いた泥を落とし、避難所で配りました。そんなことを続けるうち、桜木町には店が必要だ。みんなのため、何としても店を再開させなくては、と思うようになりました。 そして震災から1週間ほど経ったある日、八幡さんは正一さんに尋ねました。「お父さん、お店どうしますか」。すると、正一さんは即座に答えました。「やります」。その日から、八幡さんの精力

桜木町から始まった大槌支援活動

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「 地域の絆を大切に、自分が出来ることを - 大槌町大念寺 」「 支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問 」に続く、大槌編の第3弾です。今回は、「遠野まごころネット」を手伝い、大槌町桜木町地区でボランティア活動を続けた、西本吉幸さんを中心に話を展開させます。  ◆ 大槌町では、東日本大震災により、災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎に集まっていた町長始め町の幹部職員が津波にのまれ、そのまま消息を絶ちました。ボランティアセンターの中心となるはずの社会福祉協議会も、会長、事務局長ら4人が亡くなっていました。 社協職員24人は要介護者24人と共に「ケアプラザおおつち」に1週間間借りした後、社協施設の「デイサービスセンターはまぎく」に移りました。職員の大半は自分の家族の安否も分からないまま、当番を決め要介護者の世話をしました。 そして一人の犠牲者もなく利用者を送り出した後、体制を一新。疲労は限界を超えていましたが、若い職員を中心に災害ボランティアセンターを立ち上げ、急務だったボランティア対応に当たり始めました。当初の仕事は、住宅地での浸水家屋の泥出しや片付けに集中しました。行政の手は届かず、高齢者世帯や仕事を抱える世帯では、自力で後片付けを続けるうち体調を崩す人も出ていました。 一方、沿岸部から約40kmの内陸にある遠野市では市民らが中心となり、被災地への支援態勢を整えるべく、3月28日に「遠野まごころネット」を結成。被災地の宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市までほぼ等距離という地の利を生かし、全国からのボランティアや支援物資の受け入れを始めました。 「遠野まごころネット」が、最初に向かったのは大槌町の桜木町地区でした。浸水家屋の片付けを優先したのです。期せずして、災害ボランティアセンターと歩調を合わせる格好になりました。 しかし、初日にボランティアの派遣を希望したのは、1人だけでした。避難所を回ったスタッフは、「知らない人がいきなり来て、困っていることはないかと聞いても、頼みづらいのは理解出来る。特に若い女性は不安そうだった」と報告しました。「見ず知らずの人に家をかき回されるのは抵抗がある」「大事な記念品をゴミ扱いされかねない」。そんな思いもあるのだろうと推測出来ました。 その上、ボランティア側の態勢も整っておらず、初日の作業に参加したのは5人。道具はスコッ