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『旅先案内』都道府県別記事一覧

●北海道 旭川市「 塩ホルモン発祥の地、道北・旭川グルメ旅 」 旭川市「 銘菓郷愁 - 農業の歴史刻む『旭豆』 北海道旭川 」 池田町「 北の国・ワインカラーの町 」 江差町「 民謡のある風景 - 歳月に磨き抜かれた民謡の王者(北海道 江差追分) 」 置戸町「 木のぬくもりを伝える北国のクラフト 」 長万部町「 函館本線長万部駅の名物駅弁『かにめし』 」 北広島市「 太古からの森に抱かれた『妖精と出会えるまち』 」 釧路市「 火山と森と湖。手つかずの大自然が残る阿寒国立公園 」 釧路湿原「 原始的な大自然を満喫する旅 - 釧路湿原 」 倶知安町「 羊蹄山の恵みを受けて育まれたオブラート 」 鹿追町「 超絶おいしいヨーグルトと煮込みジンギスカン 」 士別市「 羊のまち士別で味わう絶品ジンギスカン - 花の友 」 斜里町「 厳しくも美しい大自然。秘境しれとこを行く 」 大樹町「 今や海外にも広がり始めたミニバレーの発祥地 - 北海道大樹町 」 弟子屈町「 手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々 」 根室市「 日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島 」 函館市「 銘酒『鶴の友』がある函館の居酒屋てっ平 」 函館市「 城のある風景 - つかの間の夢の青空 」 美瑛町「 前田真三さんが愛した美瑛の丘 」 東川町「 北の創り手たちの心を伝える温もりの木工クラフト 」 深川市「 安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知 」 北竜町「 夏冬2度訪ねた『太陽を味方につけた町』北竜 」 松前町「 北前船が行き交った最北の城下町 - 松前 」 室蘭市「 鶏肉じゃない『やきとり』で室蘭の町を元気に 」 利尻島「 利尻昆布を求めて洋上富士の島へ - 利尻島 」 稚内市「 日本最北端・風の街 - 稚内 」 ●青森県 青森市「 インパクト大の青森二大B級グルメ - 生姜味噌だれおでんと味噌カレー牛乳ラーメン 」 青森市「 七戸から八甲田山を抜けて青森へ 」 五所川原市「 民謡のある風景 - 人の興亡しのばせる哀愁(青森県 十三の砂山) 」 黒石市「 不思議系B級グルメの代表格『黒石つゆやきそば』 」 田子町「 ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村 」 つがる市「 遮光器土偶をかたどった木造駅の巨大オブジェ 」 十和田市「 瀬となり淵となって流れる奥入瀬

『旅先案内』記事一覧(Google Map)

民謡のある風景 - 南国の光に映える叙事詩(沖縄県 安里屋ユンタ)

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北国が冬に神髄を見せるように、南国は夏に真の姿を現します。沖縄も真夏が最も生き生きと輝きます。海も、空も、樹々も光に包まれます。浦島太郎が行った竜宮城は、琉球城ではなかったか、と言われるくらい、南の風土はまぶしさに満ちています。 沖縄の最南端に位置する八重山諸島は、大小19の島々からなり、沖縄本島よりも亜熱帯の趣きが濃くなっています。変幻の妙をたたえる海と白砂、琉球建築独特の赤い瓦屋根、何もかもが鮮やかな光の中にあります。中でも、竹富島は世界中で最も美しい島と言われ、時がゆったりと流れます。 八重山は民俗芸能の宝庫と言われ、多くの民謡が、古い形で保存されています。沖縄民謡の代表と言われている『安里屋ユンタ』も、八重山の竹富島が発祥の地とされています。  ♪サァー 安里屋ぬ クヤマによ(サァ ユイユイ)   あん美らさ 生りばしよ   マタ ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨー 沖縄の言葉は難解です。日本の古代の言葉が生きているからだという説もあるくらいで、唄の題名になっている「ユンタ」も「ユイ唄」の意と言われ、「ユイ」は、古語。田植えや刈り入れなどの時に、昔は集落ごとに共同労働が行われ、これを「ユイ」と言いました。この唄も、昔はそんな共同労働の際に唄われた作業唄だったのかもしれません。 この一節は「安里という屋号の家に、クヤマという美しい娘が生まれた」という意で、この後、歌詞は、その娘の婚姻をめぐる叙事詩風な展開となっていきます。 太平洋戦争中、八重山出身の音楽家がこの唄を編曲して、『新安里屋ユンタ』というレコードを出し、日本中に知られるようになりましたが、趣きは元唄とかなり違ってしまいました。沖縄の唄は、風土の中でこそ最もまぶしく光ります。

民謡のある風景 - 噴煙の桜島を唄い、にぎにぎしく変身(鹿児島県 鹿児島小原良節)

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鹿児島には「議を言うな」という言葉があります。理屈を言うな、不言実行、ということらしいですが、錦江湾を挟んで噴煙を吐く桜島は、優柔不断を嫌う、そんな土地柄にふさわしい山です。桜島は、名は島ですが、今は大隅半島と陸続きになっています。1914(大正3)年1月の大爆発で、幅400mの瀬戸海峡が埋まってしまいました。山項は三つの岳に分かれ、南岳が今も断続的に噴煙を上げ、灰を降らせています。 この桜島を唄い込んだ歌詞で有名なのが、『鹿児島小原良節』。  ♪花は霧島 煙草は国分   燃えて上がるは オハラハー 桜島 霧島の花というのはミヤマキリシマのことで、6月が見事。国分の煙草は、慶長年間に栽培が始まったと言われ、昔は出水、指宿と並んで薩摩煙草として有名でした。『鹿児島小原良節』が有名になったのは、昭和になってからですが、元唄は、旧薩摩領だった日向の安久(宮崎県都城市)周辺で唄われていた『安久(やっさ)節』だと言われています。それが、鹿児島郊外の伊敷村原良(現・鹿児島市原良)に入って労作唄となり、『原良節』と呼ばれました。 大正の頃、土地の芸妓一八がこの唄を好んで唄い、その節回しが『一八節』とも呼ばれたりしました。その芸統を引いたのが、やはり地元の芸妓で、名を喜代三といった。1930(昭和5)年、鹿児島「青柳」の2階で、作曲家・中山晋平が、この喜代三の唄う『一八節』と出会います。酒豪で純情、しかも華やかだった喜代三の唄う『一八節』は、まことに情熱的だったそうです。後に彼女は中山夫人となります。 中山の招きで上京した彼女は、新橋喜代三の名でレコード・デビュー、34(昭和9)年1月、賑やかに編曲された『鹿児島小原良節』を発表します。よく知られている曲調はこちらの方で、いわば『喜代三節』。地元の唄は、桜島にふさわしく、放胆な薩摩っぽらしい気力をうかがわせています。

民謡のある風景 - 大鎌振るう労働の消えた古里(宮崎県 刈干切り唄)

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宮崎は県域の7割以上が山岳部。建国神話で有名な高千穂の峰もここにあります。80代以上の人たちなら多分記憶しているはずの『紀元節祝歌』は、こう歌い出します。 「雲に聳える高千穂の高根おろしに・・・」 宮崎県北西部にある高千穂、熊本県と境を接し、五ケ瀬川の上流に位置します。奥日向と呼ばれる山深い盆地の町は、北に1757mの祖母山、南に1739mの国見岳に挟まれ、昔は、秋になると、この辺り一帯でササや丈なすカヤを刈る光景が見られました。 カヤは、勾配の急な山の斜面に生えています。それを刈る鎌は、刃渡りおよそ50cmばかり、柄の長さは1m半ほどもあったといいますから、カヤ刈りはかなりの重労働だったでしょう。カヤは、よく乾かしてから牛馬の飼料にしました。『刈干切り唄』は、このカヤ刈りの際に唄われました。  ♪ここの山の 刈干しァすんだヨー   あすは田圃で エー稲刈ろかヨー 昔は「一谷一節」と言われ、谷間ごとに独自の節まわしを響かせていました。同じ奥日向でも、高千穂の唄と五ケ瀬のものでは、テンポが違うといいます。高千穂で唄い継がれた旋律は、哀愁をたたえ、ゆったりとした節まわしで、大鎌を振るう労働を彷彿とさせます。 この唄には、日向地方一帯で唄われている旋律もあります。全国的に知られているのはこちらの方で、昭和40年代の民謡ブームに乗って、たちまちポピュラーになりました。 作業唄は座敷唄に変わり、刈干しを飼料としていた牛馬も今は耕耘機に変わってしまいました。地元では、広まった唄の旋律を「うそつき節」といって区別しているそうですが、どちらも既にして、唄の背景を失ってしまいました。 高千穂の峰々は、神話時代そのままの趣で、観光客の姿も絶えませんが、集落の暮らし方は刻々と変わり続け、『刈干切り唄』の古里で、古老のしわは深まるばかりです。

民謡のある風景 - 海路で運ばれた唄の源流(熊本県 牛深ハイヤ)

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熊本県の天草は、隠れキリシタンの里と言われ、崎津港の天主堂は、天草を代表する景観となっています。天草は、大小120余の島からなり、天然の良港が多い土地です。崎津はその一つですが、唄で知られた牛深港も、各方面への定期船が発着して、海の路の要となっており、今なお水産業の中心地でもあります。 牛深が発祥地だとされる唄が『牛深ハイヤ』ですが、牛深は、土地の歴史から言っても、唄の発祥地というよりは、唄を広めた中軸の地と言った方がいいかもしれません。  ♪ハイヤエー ハイヤ可愛いや 可愛いや   今朝出た船はェー どこの港にサーマ 入るやらェー 牛深はその昔、風待ちをする船の寄港地だったといいます。海産物を積んで大坂へ向かう船は、牛深で南風の吹き出しを待ちました。その南風を、西日本では広く「ハエ」と呼んでいます。梅雨時の南風が黒ハエ、梅雨明けの南風が白ハエと呼ばれてもいます。この唄の唄い出しハイヤエーは、そのハエのことだという説があります。つまりは、風を利用して航行した船乗りたちが、この唄と深く関わっていた証左がそこにもある、ということでしょうか。 『ハイヤ節』は本来、奄美の盆踊り唄に、二上がりの手を付け、口笛も入った激しいリズムの唄だったといいます。鹿児崎や長崎の田助も『ハイヤ節』の発祥地と言われたりしていますが、どれも底抜けに明るい唄です。南国のリズムが、船乗りたちの気風と溶け合い、この唄は酒席で盛んに唄われ、やがて船乗りたちによって諸国へ運ばれました。 各地に散った『ハイヤ節』は、それぞれの土地に根を下ろしました。『津軽アイヤ節』『塩釜甚句』『庄内ハエヤ節』『三原ヤッサ』など、実に多くのハイヤ系の唄があります。ハイヤの変貌は、昔の交通の要が、海の路であったことを告げ、唄の生い立ちの秘密を暗示して、興味がつきません。

民謡のある風景 - 観光長崎のゆとり偲ばせて(長崎県 ぶらぶら節)

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1571(元亀2)年からの港町だった長崎は、江戸期、ただ一つ海外に開かれた日本の出窓でした。人工の島である出島を外国人居留地とし、長崎は貿易港として栄えました。さまざまな西欧の文物がここから入り、貿易の利益は、かまど銀などとして、町人にも分配されたといいます。ゆとりある人々は遊びを楽しみ、お祭りに興じました。おくんち、凧(はた)揚げ、精霊流しなど、今に伝わる観光資源が育ち、遊女町丸山には、17世紀末で、760余人の遊女がいたといいます。 そんな、長崎のゆとりが、『ぶらぶら節』というユニークな題名の唄を産みました。  ♪長崎名物 凧揚げ盆まつり   秋はお諏訪のシャギリで   氏子がぶうらぶら   ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう この唄は、丸山の遊廓辺りでお座敷唄として唄われてきたものとされ、発生については、江戸初期とも、江戸末期とも言われ、はっきりしません。 幕末の頃、江戸を中心としてはやった『やだちゅうぶし』という唄の中に、「やだちゅうと言わねえもんだちゅう」という歌詞があるところから、その影響を受けているという説もあります。また、愛媛県・松山近辺に伝わった茨城の『潮来節』とも、何らかの関連があると言われています。さまざまに言われてはいますが、いつ、どこで、だれが唄い出したかとなると、よく分からないらしく、そこがまた民謡の民謡らしいところでもあります。 そんな『ぶらぶら節』が脚光を浴びたのは、昭和に入ってからでした。長崎県西彼杵郡高島町生まれの芸妓愛八が、丸山でこの唄を掘り起こし、1930(昭和5)年にレコード化。今、唄われているのは、この愛八の唄法を伝えたものといいます。歴史のひだの合間を、したたかに生き抜いてきた唄と言えるでしょう。

民謡のある風景 - 天然の景観に育まれた古謡(佐賀県 岳の新太郎さん)

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佐賀には、全国的に知られた民謡があまりありません。が、土地を代表する唄『岳の新太郎さん』は、野趣を帯びながらも優美な味わいをみせ、多〈の人をひきつけてきました。  ♪岳の新太郎さんの   下らす道にゃ   ザーンザ ザンザ   銅の千灯籠ないとん   明れかし   色者の粋者で   気はざんざ 唄に出てくる「岳」は、多良岳(983m)のことで、阿蘇火山帯に属する円錐状の火山。ツツジ、シャクナゲの群落で知られ、山は佐賀と長崎の県境にまたがります。昔、多良岳の山項には金泉寺という寺があり、そこに新太郎という美男の寺侍がいたといいます。その言い伝えが、この唄のタイトルにもなったわけですが、曲調は、天明年間に流行した伊勢神宮の木遣唄が元になっている、と言われます。元唄は各地に広まり、長野の伊那地方では、『ざんざ節』と呼ばれる草刈唄になったりしました。『岳の新太郎さん』も、以前は『ザンザ節』と呼ばれていたようで、木材の宝庫だったこの地方へ、仕事唄として入ってきたものかもしれません。 この唄が知られるようになったのは比較的新しく、昭和20年代に、地元の人々が九州芸能大会で唄い、1954(昭和29)年には、東京の郷土芸能大会でも地元太良町の人が唄い、一躍評判になりました。56(昭和31)年には、鈴木正夫がレコード化し、それ以来、佐賀の代表的民謡と言われるようになりました。つまりは、この間に知られるようになったわけで、それだけに唄も本来持っている味わいを失わずにきた、と言ってもいいでしょう。 多良岳の一帯は県立自然公園に指定され、山項に立てば、有明海と大村湾が左右に広がり、阿蘇の噴煙もまた遠く望まれます。民謡は自然が育てるものだと言われますが、この景観の中で、土地の唄を聴けば、まさにそうとしか言いようがない思いにかられます。

民謡のある風景 - マスコミに乗った筑前の誇り(福岡県 黒田節)

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JR博多駅頭、いやでも目に入るのが、大盃と槍を抱えた黒田武士像。その地が、あの有名な『黒田節』の古里であることを強調してやまぬかのようです。  ♪酒は飲め飲め 飲むならば   日の本一の この槍を   飲みとるほどに 飲むならば   これぞ まことの 黒田武士 節は、稚楽『越天楽(平調)』の曲詞からとり、詞は七五調4句で、「今様」という昔の流行唄(はやりうた)形式。だから、これは民謡ではないという説もあるくらいで、『黒田節』も、元は『筑前今様』と言っていました。 『越天楽』の曲調で七五調4句を唄うという武士は、江戸の頃、各藩にいたそうで、かなり流行しましたが、黒田藩では、他藩の「今様」と区別するために「筑前」という地名を冠に付けました。なにしろ誇り高い黒田武士です。「おれの所は違う」と、つっぱったのです。 有名な「酒は飲め飲め・・・」は、黒田25騎の一人母里太兵衛にちなむもので、福島正則との間で名槍日本号を賭け、見事に大盃を飲み干したという故事によります。『筑前今様』が『黒田節』と名を変えたのは、昭和に入ってからのことで、1928(昭和3)年、NHKのラジオ基幹局ネットワークが完成。その年、『筑前今様』が電波に乗りました。この後、担当プロデューサーが『黒田節』のタイトルで再三にわたって放送、それが爆発的流行の緒となりました。マス・メディアが広めた唄の典型といっていいでしょう。 赤坂小梅がレコード化したのは1943(昭和18)年。これで、唄がぐんと民謡風な趣になりました。もっとも、そのため「今様」風な味わいは薄くなり、唄が俗化したと嘆く人も出たりしました。とはいえ、酒席でよく唄われてきたところに、この唄の特徴があり、それがまた酒徳を称えた代表的歌詞にもよく似合います。冥界の黒田武士も、かえってそれを喜んでいるかもしれません。

民謡のある風景 - 土の匂い超えた仏の里の踊り(大分県 草地踊り)

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国東半島は、瀬戸内海の周防灘と伊予灘の間に丸く突き出た仏の里。海岸沿いにぐるりと国道が巡り、そこから半島の中心部へ向かって、放射状に道が延びています。どれもが仏と出会う道です。半島の西の根っこの辺りにある豊後高田市もまた仏の里です。平安時代に始まるという富貴寺、長安寺、奈良時代からという天念寺などの諸仏、それに何よりも、岩に彫られた磨崖仏との出会いが鮮烈な印象を残します。 そんな仏の里にふさわしく、8月、豊後高田市では、盛大な盆踊り大会が開かれ、草地地区に伝わる『草地踊り』も披露されます。  ♪(レソ踊り・伊勢屋口説)   国は豊後の高田の御城下   御城下本町繁盛な所   角の伊勢屋という町人は・・・ 『草地踊り』は、四つのパターンに変化します。初めがレソ踊り、続いてマツカセ踊り、ヤンソレサ踊り、最後が六調子踊りとなって終わります。唄は、七七調を繰り返す口説き形式をとり、リズムの違う六調子だけが破調となります。曲は、江戸時代に流行した唄祭文の変化したものではないかと言われ、地元では、徳川吉宗の時代に始まる、とされています。 『草地踊り』は、踊りの変化につれて、踊り手の衣裳も変わります。初めはユカタ、ケダシの優しい女踊りだったものが、ハッピ姿となり、激しく力強い男踊りで六調子を踊り納めます。見せ場を意識したこの構成は、1933(昭和8)年、地元出身の演芸評論家・安部豊が演出したもので、全国民謡大会で優勝。戦後も、大阪万博、つくば科学博に招かれた他、欧米を巡って喝采を博しています。 その昔、岩に仏を残す行為は、人の予測を超えた先端性を持つものだったでしょう。その里に伝わる踊りだけに、土俗性を突き抜けて鮮烈です。