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民謡のある風景 - 文化の深さに支えられた粋(愛媛県 伊予節)

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道後温泉は、古くから「伊予の湯」として知られ、万葉の歌人・山部赤人もやって来て、「昔の天子も行幸なさった温泉」と、歌で称えています。 道後は、城下町・松山の北東。木造3層の道後温泉本館を取り巻くようにして、華やかに旅館群が並びます。おなじみ、夏目漱石『坊ちゃん』の舞台でもあります。なにしろ古くからの名所なので、土地の民謡『伊予節』にも、真っ先に登場します。  ♪伊予の松山 名物名所 三津の朝市 道後の湯   音に名高い五色素麺 十六日の初楼   吉田さし桃小かきつばた 高井の里のていれぎや   紫井戸や片目ぶな 薄墨楼や緋の蕪 チョイト伊予がすり 『伊予節』は、古くからのお座敷唄で、ゆったりと粋な調子と三味の手から見て、江戸で生まれたのではないか、という説があるくらいです。 昔、海の道は、今の新幹線並みの威力で、江戸と各地を結んでいました。江戸で生まれた唄が、松山へ入り、名所づくしが評判となって、再び江戸へ入ったのかもしれません。いずれにしても、19世紀の初め頃には、江戸・中村座でもこの唄の曲調が使われ、幕末には、200余の歌詞が瓦版で出回っていたといいます。もちろん商都・大坂にも伝わり、明治になってからも流行を繰り返したというから、息の長いもてはやされ方をした、と言えるでしょう。 『伊予節』は、本調子の三絃を粋に響かせ、曲調は純然たる俗謡です。民謡に特有のひなびた味わいなど、全くありません。それでいながら、唄そのものは地元の隅々にまで広く浸透し、替え唄もずいぶん生まれたといいます。今では、すっかり地元を代表する民謡になっています。洗練された味わいを、少しの戸惑いもなく呑み込んでしまうあたりに、伊予地方の文化の底の深さがうかがえます。「坊ちゃん」が、この地の気風に合わなかったのは、たまたまムシの居所が悪かっただけなのかもしれません。

民謡のある風景 - 唄が知られて、川がないのに橋がある(高知県 よさこい節)

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土佐の高知の播磨屋橋くらい有名な橋もないでしょう。ご存じ『よさこい節』で、全国的にその名を知られています。  ♪土佐の高知の播磨屋橋で   坊さん かんざし買うを見た   ハァ ヨサコイ ヨサコイ 土佐の代表的民謡であることは言うまでもありませんが、ペギー葉山の『南国土佐を後にして』の中に歌い込まれて、更に有名になりました。 播磨屋橋は、1950(昭和25)年に鉄筋コンクリート製になり、その下を流れていた堀川も、埋め立てられて今はありません。元々の橋は、川の南と北に店を構えていた豪商・播磨屋と櫃屋が、互いの往来のために掛けたもので、文政年間(1818 - 29)には、橋の両側に露店風の小間物屋が並んだといいます。「坊さん」がかんざしを買ったのは、その小間物屋ででもあったのでしょうか。 『よさこい節』の起源については諸説があります。慶長年間(1596 - 1614)、高知城の築城の際に唄われた「木遣り」が元唄という説。正徳(1711 - 15)の頃、江戸ではやった『江島節』が土佐に入ったという説。あるいは、各地にある祭礼の『みこしかつぎ唄』が変化したのだという説など。また、安政年間(1854 - 59)には、歌詞にある「坊さん」の恋愛事件が持ち上がり、それが唄い込まれて全国的に唄われたともいいます。 歌詞も地元では「おかしなことやな、播磨屋橋で・・・」 と唄っていましたが、明治維新で江戸へ出てきた土佐の人々が、「土佐の高知の・・・」と替えて唄い出したのだといいます。 明治に入ると、この唄に振りが付きました。高知の料亭・得月楼が踊りにし、芸妓衆に踊らせたのが始まりといいます。日露戦争の頃には、「よさこい」が「ロシヤ来い」と替えて唄われ、播磨屋橋は更に有名になりました。川がないのに橋だけはある、というところが、この唄の知名度を物語っていると言えるでしょう。

民謡のある風景 - 明るくリズム弾んで瀬戸大橋時代へ(香川県 金毘羅船々)

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香川県琴平町の金毘羅宮、というよりは「さぬきのコンピラさん」と言った方が通りが早いでしょう。「コンピラさん」は象頭山に鎮座し、本宮までは785段の石段の道です。奥宮まで、更に石段が続きます。山の上だけに眺望がすばらしく、晴天ならまさにコンピラ様々です。 かつて、「讃岐の道は金毘羅に通じる」と言われ、全国から人が集まりましたが、その道はどこかで瀬戸内海を渡らなければなりません。江戸後期、金毘羅参りが盛んになると、大坂から丸亀へ向かう客船が人気を集め出します。客船は、「讃州金毘羅船」と染め抜いた幟を立てて、道頓堀、淀屋橋などから船出していきました。 船旅は、風が順調なら3日か4日、逆風だと1週間もかかったといいます。お座敷唄となった『金毘羅船々』は、その辺りのところをうまく唄い込んでいます。  ♪金毘羅船々 追手に帆かけて   シュラ シュ シュ シュ   まわれば四国は 讃州那珂の郡   象頭山金毘羅大権現   一度まわればー この唄は、元禄期に大坂で唄い出されたとか、明治の初めに道中唄としてはやったとか言われますが、詳しいことは分かっていないようです。ある説では、船旅の無柳を慰める遊び唄だったのではないか、と見ています。曲調はあくまでも明るく、リズミカルで、今でも座敷遊びの伴奏によく弾かれたりします。 1880(明治13)年に初演された河竹黙阿弥の芝居『霜夜鐘十字辻筮』にも、「四国は讃州那珂の郡、象頭山金毘羅大権現、御信心の・・・」という台詞が出てきます。その頃には、この唄の一節が耳に馴染んだものだったのでしょう。 本宮の前は19mも突き出した高台で、讃岐平野は一望の下。瀬戸大橋時代を迎えた明るさがみなぎり、思わず、この唄が口の端に浮かびそうになります。

民謡のある風景 - 殿様が今に残した大観光資源(徳島県 阿波踊り)

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南国・阿波徳島の夏は猛暑続き。8月の平均気温は28度。その暑さに挑むように、毎年8月12日から18日まで、熱狂的な阿波踊りが繰り広げられます。 (前唯子)♪踊る阿呆に見る阿呆       同じ阿呆なら踊らにゃ損々 (本 唄)♪阿波の殿様 蜂須賀公が       いまに残せし盆踊 (後離子)♪アーエライヤッチャ エライヤッチャ       ヨイヨイヨイヨイ 地元では、世界の二大祭りはリオのカー二バルと徳島の阿波踊りだ、と胸を張ります。熱狂ぶりではひけをとりません。陽気な早まの三味線に、太鼓・笛・鉦などがからんで踊り手を煽ります。唄は江戸期にはやった『よしこの節』ですが、唄の前後の囃子詞がなんといっても絶妙です。 阿波踊りの発生については、阿波藩主を称えた徳島城落成祝賀説がよく知られます。天正年間、阿波の藩主となった蜂須賀家政が、徳島城を築き、その落成を祝って、旧暦7月14日から3日間、城下の人々に無礼講を許したのが、この踊りの始まりだといいます。 もっとも、だからといって、藩主が踊りの振り付けをやるわけはないので、この踊りの元になっているのは、地元に古くから伝わる「精霊踊り」だという説もあり、盆行事の踊りがベースになったというのが本当のところらしいです。 唄の方も、後から阿波へ入ったものと言われます。18世紀後半、今の茨城県潮来地方ではやり出した『よしこの節』が、船便によって各地にもたらされ、阿波へも、特産の藍を商う人々によって伝えられた、とされています。が、今では阿波が本場の観があります。 阿波踊りは、いまや徳島県の一大観光資源、遠くから踊りに出向くファンも多くいます。今年も「踊らにゃ損々」の熱気が話題を呼ぶことでしょう。 

民謡のある風景 - 維新の風雪、今に伝えた応援歌(山口県 男なら/オーシャリ節)

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山口県萩市は、1600(慶長5)年から260年間、長州藩36万石の城下町として栄えました。この市の北部に、菊ケ浜と呼ばれる海岸があります。指月山と鶴江台の間に広がる弓なりの形の砂浜で、今では北長門海岸国定公園の一部になっています。1863(文久3)年、この浜で上を下への大騒動が起こりました。 幕末期、日本中を尊皇攘夷の掛け声が飛び交いましたが、この年6月25日、長州藩はスローガンを実行に移し、下関海峡通過のアメリカ船を砲撃。次いで、フランス、オランダの艦艇を攻撃しました。7月16日、アメリカ艦ワイオミング号が反撃に出て、萩砲台を砲撃。次いで2隻のフランス艦が報復を開始して、砲台を占領してしまいました。 危機を感じた長州藩は、根拠地を山口に移し、菊ケ浜に約2kmにわたって土畳を築き、米仏蘭の反撃に備えました。この時に唄われたのが、『男なら(オーシャリ節)』だといいます。きっかけがきっかけですから、歌詞もおのずから勇ましくなります。  ♪男なら お槍かついで お仲間となって   ついてゆきたや 下関   尊皇攘夷と聞くからは   女ながらも武士の妻 まさかの時にはしめだすき   神功皇后さんの三韓退治 かがみじゃないかいな   オーシャリシャリ 「オーシャリシャリ」は、「おっしゃる通りです」の意だそうで、土畳構築に従事した女性たちの心意気を唄ったのが、この唄だというのですから、詞の勇ましさも分かろうというものです。曲は、幕末流行の「甚句」ものの系譜と言われています。 それにしても、明治維新の頃の唄を、そのまま伝えているのが、いかにも維新の主役を演じた県らしいところです。

民謡のある風景 - 清盛ゆかりの瀬戸に生きる心意気(広島県 音戸の舟唄)

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広島県呉市と、倉橋島の音戸町は橋で結ばれています。その下が音戸の瀬戸。長さ約650mの水路ですが、幅は最も狭いところで約90m。いくつかの暗礁があって、潮の干満による潮流は、約4ノットとかなり早くなっています。昔は、瀬戸内海有数の難所でした。呉市から音戸へ、この水路を漕ぎ渡るには、かなりの技術を要したに違いありません。『音戸の舟唄』は、その漕ぎ手たちによって唄われました。  ♪イヤーレーノ 船頭可愛いや 音戸の瀬戸はヨー   一丈五尺の ヤーレノーエ 艪がしわるヨー この舟唄は、広島から岡山にかけて広く唄われていた『臼ひき唄』のようなものを、船頭たちが艪に合わせて唄ったのが始まりだと言われています。瀬戸内海一帯の舟唄は、全てこの『音戸の舟唄』系の唄だと言われ、土地によっては「石切り唄」、「酒造り唄」、「田植え唄」などに形を変えて唄い継がれているともいいます。「舟唄」の場合は、節回しの区切りの部分に独特の息づかいをみせ、艪を操る姿を彷彿させます。 音戸の瀬戸は、1164(長寛2)年に、平清盛が開削したと伝えられています。倉橋島と対岸の呉市警固屋は、かつては陸続きでした。そのため、舟で大坂方面へ向かう場合は、ここを迂回しなければなりませんでした。瀬戸内の水軍を味方につけた清盛は、その不便さを解消し、海路を確保すべく、延べ6万余人、10カ月の月日をかけて、水路を造りあげたのだといいます。もっとも、音戸と警固屋では、地層が全く違うとも言われ、この話は伝説の域を出ません。 1961(昭和36)年12月、清盛が切り離した陸地を再びつないで、音戸大橋が出来ました。全長1071mの橋上を車が行き交い、舟唄は過去のものとなりました。だが、音戸の瀬戸が水路の要衡であることは、今も変わりなく、1日数百隻の船がこの瀬戸を越えます。唄に込められた心意気が生きているのです。

民謡のある風景 - ドジョウすくって民謡もヒット(島根県 安来節)

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山陰本線で米子から安来へ。中海に面した安来は、昔、山陰道の宿場町・港町として栄えました。中海は中江 - 瀬戸で美保湾に通じ、今も安来商港は、島根の東の玄関口と言われています。 「安来」とくれば、言わずと知れた『安来節』の発祥地。駅前広場にも塔が建てられています。   ♪安来千軒 名の出たところ    社日桜に 十神山 (アラ エッサッサー) 唄の起源は、いろいろに言われていますが、船唄の『出雲節』が元になっているとされ、初めはやや長い曲調であったといいます。その後、明治の初め、美保湾に面した境の港町に、さん子という唄のうまい芸妓が出て、『さんこ節』という名で、七七七五調の今のような詩型が唄われるようになりました。 これに手を加えたのが、安来で料理屋をやっていた渡辺佐兵衛・お糸親子で、富田徳之助が三味の手を工夫したといいます。この、整えられた唄に興味を持ったのが、日本画の巨匠・横山大観です。松江でこの唄を聞き、帰京するや、早速お糸一行を呼んで各地を回らせました。それがきっかけで、とうとう『安来節』は浅草にまで進出、全国的に有名になっていきました。 『安来節』は、唄も陽気ですが、踊りもまたユーモラスです。踊りは、俗に「ドジョウすくい」と言われ、実際にドジョウを取るときの手が振り付けられたのだ、といいます。一説には、安来が鉄工業の歴史を持つ町でもあるため、「どじょうすくい」は「土壌すくい」で、砂鉄採取の動作が振り付けられたのだ、とも言われています。 説はともあれ、安来となれば、この踊りくらいは覚えておかなければ、というので、学校の運動会の集団演技などでも取り上げられるケースが多いようです。土壌よりはドジョウである方が、唄そのものの明るさが生きてくるようです。 

民謡のある風景 - 白壁の家に映える港唄(岡山県 下津井節)

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岡山県南の倉敷・児島の一帯は、古くから商工業が発達した所で、大和朝廷の頃には、児島に朝廷直轄の蔵が置かれ、室町時代には、児島半島突端の下津井が、早くも天然の良港として栄えました。 江戸時代には、下津井港は北国回船の寄港地として知られ、参勤交替で九州からやって来る大名も、御座船を下津井へ寄せ、ここから陸路をとりました。金毘羅さまへの道中も、ここが本州側の基点の一つでした。 港が栄えると遊里が生まれます。船頭や漁師がその里でよく唄ったのが、『下津井節』です。  ♪下津井港はよー 入りよて出よてよー   まとも巻きよて まぎりよてヨー   トコハイ トノエー ナノエー ソーレソレ この唄は、元々は瀬戸内の船着場で広く唄われていたらしく、北前船の他の寄港地にも、同系の唄が残っていると言われます。つまりは、船頭衆が唄い広めたもので、『富士川船頭唄』『石見舟唄』なども、この唄の系列に入るといいます。 『下津井節』は、1887(明治20)年頃、大いにはやったそうですが、肝心の港の方は、漁港としては栄えたものの、宇高連絡船の賑わいには勝てず、交通拠点の主役ではなくなってしまいました。ところが1927(昭和2)年、思いもかけぬチャンスがやってきます。大阪毎日が景勝地人気投票を実施したのです。下津井の人々は大いに喧伝に努め、下津井を見事入選させただけではなく、ついでに『下津井節』も売り込んでしまいました。31(昭和6)年には、その唄がNHK岡山局から放送されます。この頃から『下津井節』は、岡山を代表する唄と見られるようになっていきます。 1988(昭和63)年4月、児島 - 坂出ルートを結ぶ瀬戸大橋が完成。下津井は、ますます通過地点の色を濃くしましたが、町には、往時を偲ばせる白壁の家がいまだ残り、唄の古里にふさわしい面影を見せています。

民謡のある風景 - 漁絶えた浜に残る貝とりの一節(鳥取県 貝殼節)

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山陰本線を浜村駅で降りると、駅を挟んで温泉町が広がります。町は海につながり、その海で、昔はホタテがとれました。記録によると、鳥取県気高地方一帯の海岸では、江戸期の頃から、周期的にホタテが大量発生し、浜は貝漁で賑わったといいます。 この辺りでは、貝のことを貝殻と言います。貝殻は貝殼の皮とも言うそうです。『貝殼節』は、その貝漁の労働歌として生まれ、手漕ぎの櫓に合わせて唄われました。  ♪何の因果で貝殼ひきなろた   カワイヤノウ カワイヤノウ   色は黒うなる 身は痩せる 貝漁は、ジョレンで底引きをしてホタテ貝をかき集めました。かなりの重労働です。それが「何の因果で・・・」という詞句を生み、「カワイヤノウ」と囃すことで、労働の厳しさを紛らわしました。 貝漁は1929(昭和4)年を境にぱったり途絶え、唄だけが残りました。4年後、鳥取師範の教師・三上留吉が、賀露から泊に至る海岸の集落を採譜して歩き、鳥取市役所の俳人・松本穣葉子が詞句を補作し、浜村温泉で唄われるようになりました。 戦後、民謡ブームの中でこの唄も脚光を浴びるようになり、53(昭和28)年2月、朝日放送の「全国民謡の旅コンクール」で1位になって、鈴木正夫の唄でレコード化もされました。こちらの方はお座敷唄の趣ですが、賀露港では、三味線伴奏のない作業唄の曲調を保ち、昔の風情を伝えています。 NHKのテレビドラマ『夢千代日記』(早坂暁)でも、この唄が効果的に使われていました。年配の方の中には、吉永小百合、秋吉久美子、樹木希林らの芸妓ぶりを、この唄と共に思い出す人もいるかもしれません。貝のとれなくなった山陰の海にこの唄が流れると、人の世の深さが思われ、曲調の明るさが、切なく思えます。 

民謡のある風景 - 一高生が唄い広めた男たちの唄(兵庫県 デカンショ節)

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兵庫県丹波篠山市は、丹波山塊の間に開けた盆地にあります。盆地からの道は、天引峠、天王峠、鐘ケ坂などの峠を越す道となります。盆地のほば中央に、標高459mの高城山がそびえ、丹波富士の名で呼ばれています。 灘五郷の酒造りを支えてきた丹波の杜氏たちは、この盆地から、半年に及ぶ出稼ぎの旅に出ました。家で待つ妻たちにとっては、つらい半年だったでしょう。地元の古い民謡は、そんな妻たちの気持ちを、「でこんしょ、でこんしょで半年暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」と唄っていたといいます。 篠山は、1747(寛延元)年以降、青山氏が領主となり、明治維新まで6万石の城下町として栄えました。1898(明治31)年の夏、その旧藩主の青山子爵が、旧藩士らを引き連れ、千葉・館山の海浜に遊んだことがありました。旧藩士たちは、昼は泳ぎ、夜は宴会で盛り上がり、地元の民謡『篠山節』を大声で唄いました。  ♪丹波篠山 山家の猿が   花のお江戸で 芝居する   ヨーイ ヤレコノ デッカンショーヨ この唄を聞きつけたのが、同じ浜に来ていた第一高等学校(現・東大)の学生たちでした。語呂もよければ、調子もよい。バンカラ気分の学生には、ぴったりきました。寮へ帰った彼らは、房州土産の唄として大いに喧伝しました。囃子言葉も、デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとったと称し、「ヨーイ ヨーイ デカンショー」と唄い替えました。そして学生たちが帰省の度に、この唄を唄ったものですから、全国に広まるのも早かったのです。 こうして一高生が流行源となった『篠山節』は、『デカンショ節』として広まり、それが再び篠山に帰って来ました。地元では、太鼓と三味、笛をつけて、正調の曲調を伝えていますが、そこにはもう、農家の女の嘆きの影もありません。唄の変貌の一例と言えるでしょう。