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「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」

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「日本一ウザい」と評判のレストラン「ザクロ」に初めて行ったのは、2010年のこと。完全に一回り昔のことになります。 「ザクロ」は、日暮里駅から歩いて5分ほどの「夕やけだんだん」と呼ばれる坂を下りた所にあります。 「夕やけだんだん」というのは、一般公募で選ばれた名前で、坂の上から奇麗な夕焼けが見えることが、命名の決め手になっています。ちょうど谷中銀座商店街の入口になっており、休日ともなれば、多くの人で賑わいます。 この谷中を始め、以前の記事( 千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る )でも紹介した根津や千駄木は、東京を代表する散歩スポットとなり、三つの街の頭文字をとって通称「谷根千」と呼ばれています。そんなエリアの入口に当たる場所にあるのが、「ザクロ」です。外観からして、「谷根千」とは対照的な雰囲気を醸し出しているんですが、ここが日暮里であることを思い出すと、なぜかふさわしい気にもなってきます。。。 このレストラン、テレビなどでもよく紹介されており、「日本一ウザい」のは、ここの店長サダット・レザイ・モハマッド・アリさんです。「ザクロ」のTwitterアカウントは、自らを、「日本一ウザい」で検索すると、トップに出てくるレストランザクロです、と紹介しているので確かです。 2010年の時は、初ザクロということもあり、お勧めの「おなかペコペココース(1000円※現在は1100円)」にしました。なんせ、お店の美しい女性が「ザクロに来られる99%のお客様がオーダーされる、ハッピーランチです♪」というもので・・・。この店で出しているのは、アリさんの出身国であるイランと、トルコ、ウズベキスタンの料理です。 おなかペコペココースは、これらの料理が次から次へと出て来ます。ベースとなるナン、ライス、スープに続いて、骨付きラムのカレー、豆カレー、ファティール、ラムの肉団子、サモサ、サラダ、ポテトサラダ、チキンのカレー風煮込みが 登場。これでチャイは飲み放題、ジュースやデザートもあって、更にサービスのクッキーとナツメもありまして(ランチは他にも何かあったような気がしますが、品数が多すぎて・・・)、食後にはシーシャを初体験してきました。 ちなみに私は、アリさんが買い物に出掛けている最中に店に入ったので、普通に席に座りました。と、右隣に座っている人が、中東風のベストを着ていたので、「それ...

見た目エイリアンなのに味は伊勢エビ級と言われるウチワエビ

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日南市飫肥を取材した際( 飫肥城下に残る不思議な弓 )、初日の撮影が終わり、取材に協力してくれた地元の皆さんと夕食に向かう途中、その一人が魚屋の前で足を止めました。そして、バケツに入った何かを買っていました。 バケツの中を覗くと、見たことのない生物が入っていました。それが、ウチワエビでした。 土地の人はパチエビとかパッチンとか呼んでいるそうです。見かけは、SF物のエイリアンか何かのように、ややグロテスクな感じでした。でも、味は最高で、エビとカニの中間といった感じらしく、身は軟らかく甘いんですよ、と皆さん口々に賛美。後で、ご馳走しますからね、と。 私は初めて見たんですが、このウチワエビ、千葉県から九州、沖縄まで棲息しているとのこと。どちらかと言うと、西日本に多いみたいですが、それでも都市部ではほとんど知られておらず、やはり一般的なエビではない模様。 ただ、宮崎を始め、九州では結構親しまれていて、伊勢エビに比べて安価な割に、かなりおいしく、中には伊勢エビよりうまいという人もいるほどだとか。茹でて食べるのが一般的ですが、焼くと甘みのある濃厚な味わいがより強くなります。一緒にいた方たちは、茹でてマヨネーズをつけて食べると、焼酎にとてもよく合う、と教えてくれました。 身は大小ありますが、それほど大きいものではなく、手のひらサイズと思ってもらえばいいでしょう。私が日南を訪問した頃は、魚屋さんで1匹400円ぐらいで売っていました。 しかし、最近では、そのおいしさが飲食業界に知れ渡り、現在では豊洲市場でも取り引きされ、東日本では伊勢エビ級の高級品として扱われる場合もあるようです。そこで通販サイトを確認したら、1kgで6000円(5〜7匹)から8000円(6〜10匹)、中には1万4000円(5〜10匹)なんて店もありました。恐ろしいもんですな。 取材で行った際、地元の方が、魚屋で買って、ホテルで湯がいて二つに割ってもらえばいいですよ、とアドバイスしてくれました。が、今や庶民の味ではなくなったようなので、日南でも、そんな楽しみ方は出来ないかもしれません。

かつては「下の下」と言われた深海魚「げんげ」を食べる

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思い起こせば2006年9月16日、この日初めて、「げんげ」という深海魚を食しました。 前夜、私とライターの砂山幹博さんは、東京駅から20時12分発の上越新幹線に乗り込み、越後湯沢へ。そこから特急はくたかに乗り換え、富山を目指しました。新幹線は3連休前で指定が取れず、自由席にも座れたなかったため、その頃はまだあった車内の売店前で立ち放し。その間、暇なので、売店の女の子と話し込み、気づいたら缶ビールとワインを買い込んでいました。 その後のはくたかは、指定が取れていたので、列車の中で飲み続け、富山に着いたのは23時25分。結局、この日はチェックインして寝るだけになりました。 翌日は、朝から夕方まで取材。そして夜、当時、富山在住だった友人NYさんが案内してくれた店で、砂山さんを交え食事をすることになりました。この店で登場したのが、「げんげ」です。 げんげは見た目グロテスクな深海魚で、昔は「下の下」と言われて捨てられていたそうです。げんげの名も「下の下」に由来すると言われていますが、今では高級魚となり、漢字も「幻魚」と当てられています。 皮からしてかなりのゼラチン質で、ヌルヌルというか、ベロベロというか、食感に特徴のある魚です。友人いわく、天ぷらにしてもヌルヌル感は残るとか。恐るべし、げんげ! その店では、付きだしのげんげ豆腐に始まり、げんげの骨せんべい、げんげ鍋と続き、いろいろな食べ方を味わいました。もちろん、他にも富山の郷土料理として伝わる昆布〆の定番、富山湾のカジキマグロとか、カニの押し寿司など、お手頃価格で頂きました。 2軒目に移って、ここでもこれまで聞いたことのない魚類を注文。更にげんげ干を発見し、それも頼んでみたところ、これが絶品でした。 そんなげんげ体験もあり、翌年にも富山出張の際に、げんげを出す店を見つけて食べた私。更にその次の年、08年には魚津取材があり、周辺を調べているうちに、「元祖げんげの唐揚げ」げんげの万両という店を見つけ、「もうこれは行くしかない!」と、即決しました。 この店は、初代店主が試行錯誤を繰り返した末に作り出した名物「げんげの唐揚げ」で有名でした。また、げんげの握りといったげんげ料理はもちろん、白えびのお作り、ズワイガニなど、日本海の幸を味わい、充実した夕食となりました。 ※万両は、残念ながら閉業されたようです。新型コロナの影響もあったんで...

養鰻業者のまかない飯「ぼくめし」に注目!

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3年ほど前、浜松で取材があって1泊した際、ホテルの近くにあったうなぎ屋に入りました。オーダーしたのは「ぼくめし」。 マルマ養魚のぼくめし だいぶ前、浜名湖ウナギの産地・新居町(現湖西市)で、養鰻家を取材した際に教えてもらった料理です。今では、ウナギの養殖はハウスで行いますが、以前は露地の養殖池を使い、ウナギを捕るのに人夫を雇って網を引いていました。その養鰻業者のまかない飯が、「ぼくめし」です。 「ぼく」とは、太いウナギのことです。泥に潜って網を逃れ続け、池の主のようになった大ウナギを大木になぞらえて「ぼく」と呼びました。お重からはみ出してしまうようなウナギで、商品価値はありませんが、脂がたっぷりのって味は全く問題がありません。 「ぼくめし」は、そんな大ウナギを使ったまぜご飯で、名古屋の「ひつまぶし」に似ています。しかし、新居町の「ぼくめし」には、ゴボウが入ります。一口大のウナギと、ささがきにして油で炒めたゴボウのまぜご飯です。 で、このゴボウが侮れないのです。非常にいいアクセントになっていました。 なので実は、浜松のうなぎ屋で食べた「ぼくめし」は、おいしかったのはおいしかったんですが、ゴボウのささがきがイマイチな印象。新居町でご馳走になった、本場「ぼくめし」がうますぎたのか、あるいはその時の思い出が、「ぼくめし」を美化させていたのか・・・。少し前の記事( 函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」 )でも、同様の体験を書きましたが、今回の場合は店が違うので、やはりもう一度、本場新居町の「ぼくめし」を食べてみたいと思ったものです。 ちなみに、取材させて頂いた養鰻家の会社(マルマ養魚)では、「ぼくめし」が簡単に作れるパックを直売所で販売していました。これのおかげで、「ぼくめし」は一般家庭にも広がり、またマスコミでも取り上げられるようになり、「ぼくめし」をメニューにのせる料理店も出来たと聞きました。 取材をしたのは、そんな「ぼくめし」が、養鰻業者のまかない飯から、新居町の郷土料理へと変貌を遂げつつある時期でしたが、今ではもっとポピュラーになっているに違いありません。

冬の味覚・五十嵐浜の地ダコ

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昨日の明石からのタコつながりという強引な技で、今日は新潟市内野のタコについてです。 内野については以前、「 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち 」で、かつては造り酒屋が集中し、酒蔵の町と呼ばれていたことを書きました。で、酒の寒造りと共に内野の冬を語る上で欠かせないのが、こちらも知る人ぞ知る五十嵐浜の地ダコです。 冬場、天気の良い日に国道402号を走っていると、内野町を流れる新川の辺りで軒下に巨大なタコがぶら下がっている光景に出合います。大きなものでは体長3m、重さ50kgなんてものもあるそうです。種類はミズダコですが、この巨大タコは内野周辺でしか捕れません。しかも、12月から3月までの産卵期に限られます。 そこへもってきて、冬の日本海は、時化が多いときています。この時期、漁に出られる日はあまりなく、地ダコが揚がるのも1シーズン12〜13回というから、地元の人でもなかなか口に出来ない貴重品なのです。 タコ漁というと「たこつぼ」を仕掛けるのが一般的に思われます。が、実際にはいろいろな漁法があるようです。例えば、日本一の明石では、たこつぼ漁もありますが、ほとんどが底引き網漁で、一部一本釣りも行われているらしいです。タコの一本釣りって、どんなでしょうね。興味があります。 また、「西の明石、東の志津川」と言われる宮城県南三陸町では、「籠網」を沈めて、タコを捕っています。一方、内野の五十嵐浜では、松やナラの木箱を使います。これは、明治時代から伝わる五十嵐浜独特の漁法だそうです。 こうして捕られたタコは、すぐに茹でて直売しており、五十嵐浜の道端に大きな地ダコがぶら下がる光景は、内野の冬の風物詩となっています。五十嵐浜の地ダコは、でかいだけではなく、味も格段に旨いので、午前中には完売してしまうといいます。 食べ方としては、そのまま刺し身で食べるのが、何と言ってもいちばんです。足の吸盤はこりこりとした歯ごたえがあり、頭部は脚より甘みがあります。 ちなみに、地元の方の計らいで、内野駅近くの料理屋さんに調理してもらい、タコの内臓を撮影させてもらいました(トップ写真)。普通は、漁から帰った後、すぐに内臓を取り除いて茹でるため、一般の人の口にははなかなか入りませんが、漁師さんに頼めば分けてもらえることもあるんだそうです。 また、地元では、生のタコしゃぶも人気があると聞きました...

明石で遭遇した焼きラーメンと、明石名物玉子焼

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取材で兵庫県・明石へ行った時のこと。初日の目的地は魚住。新幹線が停まる西明石駅から、各駅で二つ目の駅です。 西明石駅の到着が12時半だったので、最初はいったん外に出て、昼を食べるつもりでした。が、コンコースを歩いていたら、魚住方面の各駅が間もなく入線する、これを逃すと次は30分後とのアナウンス。それを聞いて、電車が30分に1本しかないのかもと思い、計画を変更して、とりあえず魚住を目指すことにしました。 そして、電車が次の大久保駅に着いた頃、魚住でお会いする橋本維久夫さんから電話。「いま焼きラーメン食べてる!」。更に続けて「あんたも食べる?」と。 というわけで、魚住駅に着くと、橋本さんが迎えに来てくれ、その足で焼きラーメンへ。連れて行かれたのは、南二見会館に入っていた「喫茶&お食事 三起」。で、橋本さんが注文してくれたのは、下の写真のような焼きラーメン定食でした。 その後、メニューを見ていて「そばめし定食」を発見。常識的には、そばめしに味噌汁、漬け物などだと思ったものの、焼きラーメン定食のご飯が頭から離れず、もしやそばめしに白いご飯付きか? 関西なら、あり得る! と勝手に想像。 好奇心を抑えきれず、店の人に確認すると・・・、さすがに白いご飯はついていないとのことでした(なぜか、しょんぼり)。 橋本さんには、これとは違う日、山陽電車東二見駅前の玉子焼屋「田村」に連れて行ってもらったことがあります。玉子焼と言っても、だし巻き玉子でも、子どもの頃に弁当に入れてもらった甘い玉子焼きでもありません。世間で言うところの明石焼です。 明石と言えばタコを真っ先に思い浮かべる人も多いと思いますが、それほどに、明石のタコは有名です。実際、マダコの水揚げ量は日本一。そんな明石のタコを使った玉子焼ですから、うまくないわけがありません。 地元では昔から玉子焼と呼ばれていて、明石焼というのは、観光客などに一般的な玉子焼と間違われないよう、後から命名されたものらしいです。関東の人間にとっては、たこ焼の方がポピュラーですが、実はたこ焼のルーツは明石の玉子焼にあります。 「 大阪と言えば?で思い浮かべる事ども 」に書きましたが、たこ焼きは、昭和10年、福島県会津坂下出身の遠藤留吉さんが、明治からある明石の玉子焼をアレンジして、大阪の屋台で売り出したのが始まりなんだそうです。玉子焼とたこ焼の違い...

不思議系B級グルメの代表格「黒石つゆやきそば」

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新青森駅にあった「黒石や」の黒石つゆやきそば 弘前城追手門広場での取材後、お目当ての「肉の富田」のかつサンドをゲット出来ず、傷心の帰京となった私(詳しくは 昨日の記事 参照)。新幹線で帰るため、弘前駅から新青森駅へ移動しました。 と、ここで、「B級グルメ黒石つゆ焼そば」と書かれた暖簾を掲げる「黒石や」という店を発見。かつサンドの敵をつゆやきそばで、じゃないですが、B級グルメ好きとしては、ここは食っとけモードとなり、暖簾をくぐって店内に入りました。 黒石には行ったことがないし、初のつゆやきそばだな。そう思った、忘れん坊の私。当然のように、「名物!」と書かれたつゆやきそばを注文しました(写真上)。 黒石にはもともと、太めの平麺と甘辛いウスターソースが特徴の「黒石やきそば」がありました。この「黒石やきそば」に汁をかけたものが、「黒石つゆやきそば」で、昭和30年代後半に提供されたのが最初と言われています。 「黒石やきそば」は、かつて「おやつ焼きそば」と呼ばれ、10円から食べられる子どものおやつだったそうです。関東のもんじゃ焼きも、昔は東京の下町や埼玉の南東部の駄菓子屋で子どもたちがおやつとして食べていたものでした。それが今、B級グルメとして脚光を浴びているわけですが、子どもの頃に食べていた人には郷愁をもって、またそうではない人にとっても珍しい食べ物として、受け入れられているのでしょう。 で、「黒石つゆやきそば」は、黒石市中郷にあった「美満寿」という食堂が始めたものでした。子どもの頃に食べた人の話では、「寒い冬に、子どもたちのため、作り置きで冷めてしまった焼きそばに温かい汁をかけてくれたのが始まりじゃないのかなぁ」とのこと。 ただ、「美満寿」の閉店により、つゆやきそばもいったんは姿を消してしまいます。しかし、その味を懐かしんで、つゆやきそばを再現する飲食店が出始めます。更に近年のB級グルメ・ブームもあり、「黒石やきそば」と共に「黒石つゆやきそば」も脚光を浴びるようになりました。 なぜかすり鉢で提供された「妙光」二号店の黒石つゆやきそば となれば、全国的にも珍しい、不思議系B級グルメのつゆやきそばに注目が集まるのは必須。てなわけで、今では黒石「名物!」と言われるようになったわけです。 ところで、うっかり者の私、忘れていたことがあります。新青森駅で「黒石つゆやきそば」を食べるずっ...

棟方志功も愛した「高砂」のそば

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昨日の記事で、伊賀市にある老舗精肉店「金谷」のことを書きましたが、青森県弘前市に行った際、最高に心惹かれるショーウインドウを持つ精肉店を見つけました。店の名は「肉の富田」。木の窓には、大きく「かつサンド」の貼り紙がしてありました。 弘前についても以前のブログ( 古き時代の良きものを守りながら発展する津軽の文化都市 )で書いていますが、弘前には1898(明治31)年に陸軍第八師団が設置され、その関連施設が林立して「軍都」と称されるようになりました。周辺には、新たに商人の街が形成され、第二師団があった仙台から移転してきたり、支店を出したりした者も少なくなかったようです。 その一つは、第八師団駐屯地となった翌年に、仙台から出店した三原時計店で、その弘前店として建てられた赤いとんがり屋根の時計塔は、現在、土手町のシンボルとなっています。で、「肉の富田」も、仙台から移ってきたそうで、こちらは1904(明治37)年から弘前で営業しています。 そんな歴史ある店なので、ショーウインドウも木製で出来ており、それに惹かれたのです(いくら私でも、単なるかつサンドの貼り紙で萌えるはずがありません)。この日は、追手門広場で取材があり、弘前駅からそちらへ向かう途中で木のショーウインドウに出合いました。が、かつサンド持参で取材するわけにもいかず、帰りに買おうと思って、いったんスルー。でも、帰りに寄ったら、もう売り切れでした。 後悔先に立たず・・・ですな。で、物欲しそうにショーウインドウを覗いていたら、他にも「ナポリタンスパゲテー」とか「豚そぼろ」とかが並んでいました。どうやら、惣菜も扱っているようです。 弘前の知人に教えてもらったところによると、肉の富田のかつサンドは、弘前市民のソウルフードとも呼べるものだそうです。私、ホントこういうのに鼻が利くんですよねえ。で、かつは、薄切り肉を数枚重ね合わせて揚げているんだとか。食べたかったなあ。 ちなみに、「元祖伊賀肉 金谷」と同じく、こちらも1階は精肉店ですが、2階で食事が出来る(た?)模様。ネットでは、学生時代、ここで部活の飲み会をやり、すき焼きを食べたという人がいたので、確かだと思います。 というわけで、弘前名物のかつサンドは逃してしまった私ですが、追手門広場での取材前には、こちらも老舗のそば店「高砂」で、お昼を食べました。1913(大正2)年創業と...

武州のだるまさんは男前

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暮れから正月、そして3月末頃まで、全国的にだるま市が集中します。冬はだるまの製造元にとって、文字通り暮れも正月もない最も忙しい時期です。埼玉県南東部に位置し、江戸時代には日光街道の宿駅として栄えた越谷市も、だるまの産地として知られています。 越谷だるまは、別名「武州だるま」とも呼ばれ、関東地方を中心に広く北海道から九州まで出荷されています。生産量としては、群馬県の高崎だるまに次いで全国2位を占めておリ、寅さんで有名な柴又帝釈天や同じ東武線沿線の西新井大師、神奈川県の川崎大師などの参道で売られています。 越谷のだるま作リは、口碑によれば、江戸中期、「だる吉」という人形師によって始められたと伝えられています。その後、幕末の頃、高橋八太郎という人が、本格的にだるまの製造を始め、武州だるま発展の基礎を築きました。この武州だるまの特徴は、他の産地に比べ、色が白く、鼻がやや高く、上品で優しい顔立ちをしていることにあると言われています。そのため、粋を好んだ江戸町民から「武州だるまは男前」との評判を取り、隆盛を誇りました。 だるまは、生地の作リ方から見て、昔ながらの張り子だるまと真空成型だるまとに大別出来ます。張リ子だるまは、いちょうの木で作った木型に下張り紙を貼リ、その上の和紙を貼って2~3日天日で乾かし、その後、型抜きして、膠で切リ目を貼ります。一方、真空成型というのは、どろどろに溶かした紙と鋳型を使うもので、機械化され、生地作リ専門の業者によリ、それぞれの産地に卸されています。 現在では、ほとんどの産地が、真空成型の生地を利用しておリ、伝統的な張リ子だるまは消えつつあります。そして、真空成型方式によって、量産出来るようにはなりましたが、その一方で、形が画一化され、生産者の持つ個性と味わいが失われてしまっているのも事実です。 その中にあって、武州だるまはわずかではありますが、昔ながらの張り子だるまの伝統を守っておリ、1984(昭和59)年には、だるま産地としては全国で初めて、県の伝統的手工芸品の指定を受けています。 現在、この伝統的な張り子だるまの製造元は越谷市を中心に4軒残っていますが、どの家も代々家業を継承している家ばかりです。これは、他の職人仕事と同じで熟練するまでにはそれなりの年月がかかるためでしょう。そして、各家がそれぞれ独自の木型を持ち、個性溢れるだるまを作っていま...

日光街道第三の宿場町・越谷あれこれ

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江戸時代の地口(言葉遊び)に「草加(そうか) 越谷 千住の先よ」というのがあります。越谷は千住、草加に続く日光街道第三の宿場町。日光街道は、日本橋を起点に千住から草加、越谷と続き、更にその先に粕壁(春日部)など、日光までに全部で21の宿場が置かれていました。 千住は日光街道第一の宿で、松尾芭蕉『おくの細道』旅立ちの地でもあります。また次の宿・草加は草加せんべいで有名。越谷の次、春日部はアニメ『クレヨンしんちゃん」の舞台として知られます。そう思うと、この越谷、かなり影が薄いように感じてしまいます。 越谷市の人口は約34万人。1962年に東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)が東京メトロ日比谷線と直通運転を開始して以降、東京のベッドタウンとして急速に人口が増加。更に2008年3月にJR武蔵野線の越谷レイクタウン駅が開業。その年10月には、越谷レイクタウン駅北口駅前に日本最大のショッピングモール「イオンレイクタウン」がオープンし、影が薄かった越谷もだいぶ様相が変わってきました。今では、大東建託賃貸未来研究所による「街の幸福度ランキング」調査で、越谷レイクタウン駅が、4年連続で「街の幸福度(駅)」埼玉県版のトップになるなど、イメージも良くなっているようです。 そんな越谷市に、平安時代中期の創建とされる古社・久伊豆神社があります。江戸時代には鷹狩りの折に越谷に宿をとっていた将軍が参拝されたと言われ、社紋「立葵」はその際に徳川家から奉納されたと伝えらています。明治維新後はこの辺りの総鎮守として郷社に列格。宮内庁越谷鴨場と共に市の「環境保全地域」に指定されています。 久伊豆神社の境内には、樹齢約250年、県の天然記念物に指定されている藤があります。神社によると、「この藤は埼玉県指定の天然記念物で、株回りが7m余り、地際から7本に分かれて、高さ2.7mの棚に枝を広げている。枝張りは東西20m、南北30mほどあり、天保8年(1837年)、越ヶ谷町の住人、川鍋国蔵(ほうき職人だったらしい)が、現在の千葉県流山から、樹齢50余年の藤を舟で運び、当地へ移植したといわれています」とのこと。 花の見頃は、だいたい4月末から5月初旬のゴールデンウィークの頃で、市内外から花を愛でるため多くの人が訪れます。 また、その少し前の3月下旬から4月上旬には、北越谷の元荒川桜堤でソメイヨシノが咲き誇り、多く...