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民謡のある風景 - 水清き奥美濃の歴史伝えて(岐阜県 郡上踊り)

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岐阜の郡上市は、長良川上流と支流の吉田川が交わる盆地に開け、北美濃の商業中心地として賑わいます。町のあちこちに清水が湧き、これがまた天然の名水とあって、飲料メーカーも利用しているといいます。 八幡町は、江戸時代、1758(宝暦8)年から青山氏4万8000石の城下町として栄えました。青山氏の前は、金森氏が支配していましたが、その時代、郡上の農民が大挙して検見に反対し、時の老中に越訴するという騒ぎがありました。世に言う郡上一揆です。このことが原因で金森氏は除封、替わって青山氏の支配となりました。青山氏は、人心の融和を図り、それまで禁じられていた『郡上踊り』を復活させたといいます。 (川崎)  ♪郡上のナー 八幡 出て行くときは   雨も降らぬに 袖しぼる   袖しぼるノー 袖しぼる   雨も降らぬに 袖しぼる この踊りは、関ケ原合戦の頃から始まったとも言われ、唄も川崎の他に春駒など九つあって、曲も詞も違います。それらを一括して『郡上踊り』と言っているわけですが、代表的な川崎は、『伊勢音頭』の一種『川崎音頭』の影響による唄ではないか、とみられています。 この踊りは、唄も多彩ですが、踊られる期間も凄いのです。普通、盆踊りと言えば、せいぜい4日間くらいの期間ですが、八幡町では7月中旬から踊り始め、7月下旬からの1カ月は連日踊りまくります。ピークの8月13日からは、4日間徹夜で踊り、9月初めまで踊りが続きます。この熱気を支えているものは何なのでしょう。 新劇『郡上の立百姓』(小林ひろし)では、終幕で一揆の農民たちが、無念の思いを込めて、この踊りを踊り続けます。明るさの中に哀切さを秘めた唄は、そんな歴史も思い起こさせます。

民謡のある風景 - 家康につながる誇り、今に伝えて(愛知県 岡崎五万石)

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岡崎は、徳川幕藩体制を開いた徳川家康生誕の地です。5万石の城跡に立つ今の天守閣は、1958(昭和34)年に再建されたものですが、その中は、史実を誇るかのように、家康に関わる古い資料の展示場となっています。 なにしろ、三河武士発祥の地ですから、岡崎は代々徳川譜代の家臣が城主となり、1769(明和6)六から本多氏が入って、石高も5万石に定まりました。昔は、その5万石の城の下まで、藩御用達の船が川を上ってきました。船は、知多湾から矢作川に入り、岡崎の手前で支流の乙川を遡り、城から歩いて3、4分の船着き場へ向かいました。 『岡崎五万石』は、その様子をこう唄います。  ♪五万石でも 岡崎さまは   ア ヨイコノサンセー   お城下まで 船が着く   ションガイナ ア ヤレコノ   船が着く お城下まで 船が着く   ションガイナ ア ヨーイヨーイ   ヨイコノサンセー マダマダハヤソー 「五万石でも」という唄い出しに、家康につながるプライドを感じさせる歌詞ですが、今、この唄は、お座敷唄としてよく知られ、芸妓衆の三味がよく似合います。 唄の曲調は、「ヨイコノサンセー」という囃子言葉からもうかがわれるように、木遣唄系で、江戸末期から唄われ出したと言われます。木遣唄が作業唄だったことから考えて、川を上下する船乗りが唄い出したのではないか、という説もあります。いずれにしても、地元では一時廃れました。この唄が復活したのは、大正の初め頃で、その後、昭和に入って、中山晋平・野口雨情コンビでレコード化され、今では地元の保存会が正調を伝えています。 春、岡崎城は桜の花に埋まり、「五万石」の誇りが蘇ります。唄にも季節があるのかもしれません。

民謡のある風景 - 農兵の士気を鼓舞した流行歌(静岡県 農兵節)

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標高3776mの富士山は、いわずと知れた日本最高の名山。一富士、二鷹、三茄子(なすび)と、めでたい夢のトップに挙げられています。 富士山には、夏でも雪が降ります。その積雪が融け、数百年の時をかけて地底を潜り、三島の池に湧出します。昔、三島には、豆州の水を駿州へ流すための大樋がありました。水の清らかさは、往時から広く知られていたわけです。静岡の代表的民謡『農兵節』は、この辺のところを、こう唄い出します。  ♪富士の白雪ァ ノー工   富士の白雪ァ ノー工   富士のサイサイ 白雪ァ 朝日でとける 『農兵節』は、伊豆韮山の代官だった江川太郎左衛門に関わる唄だと言われます。江川は、1850(嘉永3)年正月、近郷の青年を三島に集め、初めて洋式の調練を行いました。その際、長崎帰りの家臣から聴いた音律をもとに、三絃音曲の行進曲を唄わせ、士気を鼓舞したといいます。 これが、地元で言われている『農兵節』の発祥説ですが、同じ曲調の『ノー工節』が横浜にもあり、こちらでは、横浜の唄が三島に広まったという説をとっています。この元唄は、静岡から神奈川にかけて広く唄われていた、当時の流行歌(はやりうた)だったようで、『遠州浜松踊り』という盆唄などでも、「遠州浜松ノーエ、遠州浜松ノーエ、ソラ遠州サイサイ、浜松三方が原」などと唄われているといいます。 どちらにしても、幕末の流行歌が三島と横浜に根付き、土地の唄と言われるようになったわけです。賑やかな唄にふさわしく、酒席の騒ぎ唄として広まり、昔は、学生たちもよく唄い、知名度は抜群でした。 『農兵節』は、唄うほどに気宇壮大といった趣になります。富士の見える土地でこの唄を唄っていた農兵も、さぞかし士気旺盛だったことでしょう。富士を見ながら、唄ってみたい唄です。    

民謡のある風景 - 港の賑わいしのばせる盆踊唄(福井県 三国節)

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日本海の荒波が、輝石安山岩の巨大な壁を削り、高さ25mの東尋坊を造りあげました。長さ約1km、うねるように柱状節理の巨岩が連なります。九頭竜川河口に広がる三国町(坂井市)は、その東尋坊観光の玄関口として知られます。 良港を抱えた三国町は、古くは、越前の交易の中心地として賑わい、江戸時代には、福井、丸岡、加賀の各藩もこの港を利用し、蝦夷地通いの北前船も立ち寄って、北国第一の港町と言われました。寛永年間(1624 - 44)には、既に57軒の船問屋があったと言われ、元禄の頃には、半年で2200艘の船が入港したといいます。 港町特有の華やかさの中で、遊廓も賑わいました。三国の遊女は、三国小女郎と呼ばれ、1699(元禄12)年には、近松門左衛門が、その遊女を、『けいせい仏の原』という三幕ものの芝居に登場させています。舞台はもちろん三国で、この芝居は坂田藤十郎の主演で大評判となりました。三国の花街は、それほどにも有名だったわけで、その花街で『三国節』が盛んに唄われていたといいます。  ♪三国三国と 通う人ご苦労   帯の幅ほどある町を(サッサア) この唄は、三国町の性海寺の住職が作ったとされていますが、元々は、土地の地固めの時に唄った作業唄だとも言われます。富山県の五箇山にも、似た曲調の「木遣り」が残っているという説があります。そういう作業唄に、住職が詞をつけたのであったかもしれません。 やがて、その唄に三味線の伴奏がついて、『三国節』はお座敷唄と変わり、大正年間には京阪地方の花柳界に広まり、大流行となったこともあるといいます。 交易の港だった三国は、一時衰退し、近年は石油基地として復活、昔とは違った顔を見せていますが、唄の方も今では盆踊り唄となり、8月の夏祭りに地元で唄われています。昔の賑わいをにじませた曲調は、艶を帯びて今も美しく響きます。

民謡のある風景 - 温泉情緒たたえて江戸期から(石川県 山中節)

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湯どころと言われる加賀には山中、山代、片山津、粟津と名湯がそろい、それぞれの風情を見せます。中でも山中は唄と共によく知られ、古くから文人墨客が訪れました。 山中温泉は、加賀山地の南部を北へ流れる大聖寺川の中流の渓谷にあります。川は、町の東を流れ、上流にかかるこおろぎ橋から、下流の黒谷橋まで、約1kmの間が遊歩道になっていて、奇岩、怪石が並びます。 芭蕉がここへやって来たのは、1689(元禄2)年7月27日(今の9月10日)の午後6時頃だったといいます。8日間滞在した芭蕉は、黒谷橋などに遊んでいますから、奇岩の景勝も堪能したに違いありません。その折の一句。 「山中や菊はたおらぬ湯のにおい」 温泉と共に有名な『山中節』は、地元の古い盆踊甚句が、お座敷唄に変わったものと言われていますが、『松前追分』が変化したものだという説もあります。江戸期、北前船に乗った北陸・加賀の船乗りたちが、北海道で「追分」を唄い覚え、湯治に来た山中温泉で唄い広めて、それが『山中節』に変わっていったというのです。元禄年間には、今の『山中節』の原型が出来ていたといいますから、芭蕉も、元唄のそのまた元唄の一節ぐらいは聞いていたかもしれません。  ♪ハアーアーアー   忘れしゃんすな 山中道を   東ァ松山 西ァ薬師 (チョイチョイチョイ) この唄は昭和の初め頃まで、早いテンポで唄っていたそうですが、今の曲調で唄い出したのは、地元の米八という芸妓で、レコード化されて全国に知られるようになりました。それからは米八調の『山中節』が正調とされ、いかにも温泉情緒たっぷりの、しっとりとした味わいの唄となって定着しました。この唄には、艶っぽい歌詞が多くあります。それがまた温泉街の歓楽ムードにも似合います。芭蕉別れの句。 「湯の名残今宵は肌の寒からむ」

民謡のある風景 - 生きる重さ支えて唄が広がる(富山県 越中おわら節)

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富山平野の南端に位置する八尾(富山市)は、その大半が丘陵地です。16世紀半ばからは浄土真宗の聞名寺の門前町として栄え、各種の産業もここで生まれました。が、この町を有名にしたのは、何と言っても、毎年9月に行われる「風の盆」だと言ってもいいでしょう。その盆踊り行事の間中、八尾は『越中おわら節』一色に塗りつぶされます。  ♪(前囃子)唄われよ わしゃ囃す   (本 唄)きたる春風 エー氷が解ける        キタサノサーアー ドッコイサノサッサ        うれしや気ままに        オワラ開く梅 唄の起源は不明です。北九州の「ハイヤ節」系の舟唄が、神通川を上って八尾に入ったのではないかと言われていますが、地元では、寛永年間(1624 - 44)に生まれたと見ています。 何よりも特徴的なのは、唄の伴奏に胡弓が使われていることで、むせぶように嫋々と弾き流す調べが、哀切感を高めます。長谷川伸の名作『一本刀土俵入り』では、この『越中おわら節』が実に効果的に使われています。長谷川伸は、女主人公お蔦を「越中富山から南へ六里山の中」の生まれとし、主人公茂兵衛とお蔦の出会いの中でこの唄を唄わせています。女の望郷の思いがそれだけで伝わってきます。それほどにもこの唄は哀愁を帯びています。 『越中おわら節』を唄い流す「風の盆」は、1702(元禄15)年に始まったと言われます。その年の孟蘭盆に、初めて三味線、太鼓、胡弓などの伴奏で流し踊りが行われ、それが変わりなく伝承されて、明治になってからは「風の盆」という名称も定まりました。大正年間には、踊りも今の形に整えられ、曲調も、江尻豊治が中心になって、昭和初期にはまとめ上げられたといいます。 生きる重さをしたたかに支えてくれる「風の盆」に、引き寄せられる若者がひきもきりません。『越中おわら節』の功徳と言うべきでしょうか。 

民謡のある風景 - 落日の中の憂愁の旅情(新潟県 佐渡おけさ)

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佐渡のおけさか、おけさの佐渡か、佐渡へ渡る船上で、まず、おけさが流れます。  ♪ハァー 佐渡へ 佐渡へと草木もなびくョ   佐渡は居よいか 住みよいか 新潟から佐渡の両津へ、フェリーで2時間30分。ジェットフォイルでは約1時間。午後の便だと、海に沈む夕陽が、島をシルエットに描き出し、旅情もひとしお。 「嫁も姑も手を打ちならし、五十三里を輪に踊る」と唄われる佐渡島。周囲270km、我が国第一の大きさの島です。船が着く両津港は、日米通商条約締結の折、補助港に指定された港ですが、江戸期には両津よりも小木港の方が栄えました。佐渡の金の積み出しに使われ、西回り航路が開けてからは、日本海交易の中継港となり、出船千艘、入船千艘の賑わいを見せたといいます。奥羽、北陸から山陰沿いに南下し、下関から瀬戸内へ抜けて大坂、更には江戸へという、この海の道は、佐渡へ諸国の芸能をも運び込みました。 「おけさ」も、海の道を通って佐渡へ渡ったといいます。九州の「ハイヤ節」が、日本海を通って小木や新潟の出雲崎などへ上陸、小木で「ハンヤ」と呼ばれるようになり、それが相川鉱山にも広まったと言われています。歴史の古さを示すかのように、歌詞も、18世紀半ば頃の流行詞から、尾崎紅葉の詞まであるという多彩さです。 歌詞による起源説はいろいろ。桶屋の佐助が唄い出したからオケサだとか、猫が芸者に化けて唄ったのが始まりとか、織田信長の娘の侍女発祥説というのまであります。 伝説はさておき、この唄を実際に唄い広めたのは、1924(大正13)年に創立された立浪会で、特に、美声の村田文三の唄で知られるようになりました。これに、新潟出身の小唄勝太郎の「ハァー小唄」調が加わって急速に普及しました。 憂愁と明るさ・・・、夕陽の中で聞きたい唄です。

民謡のある風景 - 悠久の歴史つなぐ日本民謡(長野県 小諸節)

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長野、群馬両県にまたがる浅間山は、標高2542m、基底面積はおよそ450平方kmに及びます。雄大な裾野には草地、針葉樹林が広がり、南東に軽井沢、沓掛(中軽井沢)、追分、南西に小諸の旧宿場町がつながります。 この宿場町をつなぐ旧中山道、北国街道を行き来した馬子たちが、追分節の元祖と言われる『小諸節ー小諸馬子唄』を唄い広めました。  ♪小諸出てみよ 浅間の山にヨー   けさも三筋の 煙立つ この唄は、地元の研究家の調査によると、遠く海を越えたモンゴルが発祥地だといいます。小諸を中心とした地域には、奈良時代、朝廷の牧場があり、帰化したモンゴルの人々が、そこで働いていたと言われます。彼らが、遠い故国を偲んで唄った唄が、浅間神社の神事の唄ととけ合い、やがて新しい曲調の唄が生まれ、それが 『小諸節』の源流になったされます。 以前、モンゴルの人々が来日し、民族音楽を披露したことがありました。その中には、確かに曲調のそっくりなものがあり、聴衆を驚かせました。この説は、民謡の囃し言葉「エンヤトット」が、朝鮮半島から伝わったという説に似て、日本民謡の起源の深淵さを思わせて興味深いものがあります。 その後、『小諸節』は、街道に沿って全国に広がりました。北国街道をたどった唄声は『越後追分』を生み、海上を舟で運ばれ『酒田追分』『本荘追分』『最上川追分』となり、『江差追分』へと変貌します。一方、南下した唄は『出雲追分』などに生まれ変わっていきます。更に、追分で『信濃追分』と姿を変え、箱根、鈴鹿の馬子唄に育ち、全国の追分系民謡の生母となりました。その母の古里が、はるかモンゴルの地ということになるらしいのです。 民謡にはそれぞれ独自の起源説がありますが、どれもが歴史のひだの合間でつながっています。『小諸節』は、そんな民謡の典型だと言えましょう。 

民謡のある風景 - ジャガイモを救荒食糧に育てた里(山梨県 縁故節)

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山梨県北部に源流をもつ塩川は、八ケ岳から流れる須玉川と合流して、韮崎市の南部で釜無川に注ぎます。韮崎は、昔の富士川水運の終点に当たり、甲州、佐久、駿信の街道がここから分かれていきます。諸国の旅人が行き交い、農産物の集散地としても賑わった宿場町でした。「馬ぐそ宿」と言われるほど、馬宿も多かったといいます。今も、南アルプス登山者はここの駅で降りて、山麓までバスで向かいます。『縁故節』は、この韮崎を中心に広く唄われた盆踊唄で、『えぐえぐ節』が元唄だと言われています。  ♪さあさ えぐえぐ さあさ えぐえぐ   じゃがたらいもは えぐいね   中で青いのは 中で青いのは   なおえぐい ションガイネー 元唄の『えぐえぐ節』は、ジャガイモを収穫する時の労作唄であったと言われます。ジャガイモが甲州の地に入ったのは、江戸中期の頃とされています。時の代官・中井清太夫が、九州から種いもを取り寄せ、救荒食糧として、精進湖のほとりで試作させたのが始まりだといいます。そのためこの地方では、ジャガイモを「清太夫いも」「せいだいも」と呼びならわしていました。『えぐえぐ節』は、その頃から唄われ出したといいますから、2世紀を超える歴史を持つことになります。 1928(昭和3)年、この労作唄に着目した韮崎の歯科医・小屋忠子が、芸妓に三味の手を付けさせて、尺八、琴などに合わせ、座敷唄風に編曲、それがNHKから『縁故節』の名で全国に紹介されました。 哀調をおびた曲調は、『島原の子守唄』に似ていますが、元唄は更に素朴な味わいがあったといいます。元唄を唄い出した人々にとっては、何不自由ない飽食の時代など、想像もつかなかったに違いありません。その心を知っているのは、はるかな連山だけかもしれません。

民謡のある風景 - 緩やかに時が流れた旅情たたえて(神奈川県 箱根長持唄)

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車で箱根を越えると、そこが、昔「天下の瞼」と言われるほどの難所だったとは信じ難いものがあります。時代が道を変えてしまったのです。旧街道は、湯本の手前から折れて須雲川に沿って進み、二子山のふもとを回って関所へ出るようになっていました。 小田原から三島へ至るいわゆる箱根八里のうち、箱根・小田原間は4里8丁。普通、宿場と宿場の行程は2里から3里ほどでしたから、この距離はおよそ2倍ということになります。おまけに坂道が多かったから、大名行列が箱根にかかると、仲間だけでは長持や明け荷を運びきれず、雲助とよばれた人足の力に頼らざるを得ませんでした。『箱根長持唄』は、その人足たちが唄い出したものと言われ、『箱根かごかき唄』とも呼ばれていました。 2人か4人の人足が、前後で相棒となり、「ヘッチョイ、ヘッチョイ」と、掛け声で調子をとりながら荷を運び、疲れると一息入れて、杖で荷を支えながら唄いました。雲助唄とも言われたこの唄が、助郷にかり出された農民たちによって持ち帰られ、各地の長持唄に変わっていきました。箱根の人足唄は、長持唄の源流ということになります。  ♪(甲)竹にナー なりたや      ヤレ ヤレー 箱根の竹に   (乙)諸国ナー 大名の   (甲)杖の竹ナアーエ      ヘッチョイ ヘッチョイ 箱根の旧街道は、1618(元和4年)に開かれ、今に残る石畳は、1668(寛文8)年に造られたもので、明治の半ば頃まで利用されていましたが、今では新しい道に寸断されてしまっています。湿った石畳の道は、時間が緩やかに流れていた昔の旅にふさわしく、唄声もよく響いたでしょう。例年11月になると、箱根大名行列祭りでこの唄が聞かれます。昔の旅情にぴたりと合って、捨て難い味わいのある唄です。