投稿

貞山堀沿いの多賀城、七ケ浜、荒浜を巡る話

イメージ
2017年の1月22日、七ケ浜町の正月イベント「あそぶさございん! 七ケ浜deお正月」を取材しました。 「ございん」というのは、この地方の方言で「おいでなさい」の意味。「あそぶさございん」は「遊びにいらっしゃい」ということで、書き初めや福笑い、羽根つき、また郷土芸能「吉田浜獅子舞」など、伝統的な正月行事や遊びを体験出来るコーナーが設けられ、家族で楽しめるイベントになっていました。 主催は七ケ浜国際交流協会で、ロータリークラブやライオンズクラブなど、町の各種団体が参加協力。七ケ浜町も、10年前の東日本大震災で大きな被害を受けましたが、会場の七ケ浜国際村は高台にあり、津波の影響はなかったことから、震災以降も途切れることなく開催され、町民に元気を与えてきました。 七ケ浜町では震災後、町民の声を大切にして、既存コミュニティーに配慮した復興計画を策定。住宅に関しては、地域ごとに高台への集団移転や災害公営住宅を整備する計画が進められました。震災から6年が経ったこの年、それらの事業が完了し、3月をもって仮設住宅が全て閉鎖されることになっていました。 取材は、そうした復興状況も含めてのもので、この時、七ケ浜町議会議員を6期務めた鈴木國男さんに、震災当時のお話を伺うことが出来ました。その時のお話を少し抜粋してみます。 「地震の時は、町議会議員として3月の定例会に出席していたため、町役場3階の議場にいました。今まで経験したことのない激しい揺れで、議場はすぐに閉鎖され、午後3時過ぎには役場から3kmほどの場所にある自宅へ戻りました。 七ケ浜の震度は5強で、もちろん物が落ちたりということはありましたが、地震そのものでの被害はほとんどありませんでした。また、私の自宅は多賀城寄りの遠山という高台の地域なので、津波の影響もありませんでした。しかし、代々受け継いできた田んぼが自宅の下の方にあり、そこに海水が入ったのには驚きました。 私は18歳の時にチリ地震津波を経験しているんですが、七ケ浜は沿岸部での被害はあったものの、今回のような壊滅的な被害ではありませんでした。東日本大震災では地震から約1時間後に第1波が到達し、最大12.1mの津波に町がのみ込まれました。何しろ町の3分の1が流されてしまったんですから・・・。 七ケ浜は三方を海に囲まれているので、東北と言っても比較的温暖なんですが、3月はまだこ

全てを失った閖上地区の復興に向けて

イメージ
名取市は宮城県南部、西側の丘陵地帯から東側の太平洋に向けて広大な仙台平野が広がっています。北を接する仙台市との境には名取川が流れ、その河口部に閖上港があります。また南には仙台空港があり、東北の空の玄関口となっています。この他、東北自動車道、仙台東部有料道路、国道4号線、東北新幹線、東北本線などが市域を縦貫、アクセスには非常に恵まれています。 東日本大震災では、津波が広大な平野部全体をのみ込み、900人を超す名取市民の命を奪いました。特に、海に近い閖上地区は人口の1割を超す約750人が犠牲となりました。 震災前の名取市の人口は約7万3000人でした。震災により、市の人口は一時、大きく減りましたが、仙台まで電車で13分という立地や、沿岸部から離れた地域での住宅開発などもあり、現在は約8万人で、震災前を上回っています。特に仙台駅と仙台空港を結ぶ仙台空港アクセス線が走る美田園地区は、震災後、仮設住宅が設置され、人口が増加。2012年2月には、閖上で商売をしていた店舗を中心に31の事業所が集まる仮設商店街「閖上さいかい市場」が美田園に誕生し、この地域は大きく変貌を遂げました。 閖上は、平安時代から開けた土地で、安土桃山時代には100戸近い集落になっていました。その後、阿武隈川河口の荒浜(亘理)から名取川河口の閖上まで、仙台湾に沿って堀(木曳堀)が開削され、仙台城の造営や城下町の建設に必要な物資が、この堀を経由して運ばれました。そして、その結節点だった閖上は、大いに発展しました。 しかし、仙台と若林で大規模な城下町の建設が終わり、また北上川や七北田川の改修によって石巻や塩竈が、海運や物流の拠点になり、船運で栄えた閖上の地位は相対的に低下してしまいます。それでも、仙台藩直轄の港として漁業が発達。明治後半から大正にかけては、その漁業で景気が良くなり、閖上の人口が増え、1928(昭和3)年には町制を施行して、それまでの東多賀村から、最も栄えていた閖上浜の名前を取り、閖上町へと改称しました。 震災前の閖上の人口は約7100人でした。一方、仮設住宅が設置された美田園地区は、震災前は下増田地区に含まれており、当時の人口は下増田全体で約4800人でした。が、下増田地区でも、沿岸部で多くの尊い命が奪われ、家屋の流失や損壊も多数発生しました。そのため、現在の人口は閖上が約3000人、下増田が約1

ホッキ貝とイチゴの二枚看板。宮城県東南端のおいしい町

イメージ
山元町震災遺構 中浜小学校 山元町は宮城県東南端、東は太平洋に面した直線的な砂丘海岸が続き、南は福島県新地町に接しています。東日本大震災では海岸沿いの地域が壊滅的な被害を受け、町民637人の命が失われました。常磐線が海寄りを走っていたため、宅地や商業地の被害も大きく、浸水域の人口は約54%、町の半数以上の人が被災しました。 しかし、震災からしばらくは、山元町の状況が報道されることはほとんどありませんでした。福島第1原子力発電所が約60kmの場所にあり、原発事故の影響で、いつ避難を迫られるかもしれず、町では報道関係者の受け入れを断っていたのだといいます。そのため市民レベルの支援が届きにくく、水や食糧などの物資は自衛隊による救援に頼っていました。 そうした中、いち早く支援の手を差し伸べたのが、前のブログ( 「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」 )で紹介した岐阜のOTさんたちでした。ちょっとかぶる部分もありますが、経緯を説明すると、OTさんは、東日本大震災後、すぐに沿岸部の各市町村災害対策本部に連絡。その中で3月14日、相馬市災害対策本部から食料品などの支援要請が入り、3月22日に支援物資を持って相馬を訪問しました。 その後、3月24日には、山元町からの支援要請も入り、山元に対しても必要とされた物資を支援することになりました。これは、22日に相馬を訪問した際、相馬の受け入れ窓口となった八坂神社の岩崎和夫宮司が、相馬と山元の中間にある新地町の方にも連絡し、必要物資を受け取りに来た新地のライオンズクラブから山元のライオンズクラブへ情報がもたらされたことによるものだったようです。 OTさんたちは、再度、支援物資を調達。そして4月1日に、東京のFSさんらと共に、山元町へ搬入しました。この時、山元ライオンズクラブの方たちが集まったのは、いつも例会を開いていた「レストランわか菜」でしたが、オーナーの渡邊一雄さんは、奥の座敷を開放しており、当時は被災された方たちが、30人ほど身を寄せ合って暮らしていたそうです。 ここでOTさんたちと合流したライオンズの方たちは、OTさんたちのトラックを誘導して避難所を回り、支援物資を配布しました。驚いたことに、物資が入った段ボールには北海道から沖縄まで、全国のライオンズクラブの名前が書かれていました。OTさんたちは、災害救援などを

震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント

イメージ
2011年5月4日、震災後初めてとなるゴールデンウィーク中に、福島県新地町で大規模な炊き出しイベントが行われました。イベントを主催したのは、新地ライオンズクラブ(当時31人)で、これにSNSを通じて全国から大勢の支援者が集まり、新地町役場前で盛大に実施されました。 SNSで発信したのは、明石の橋本維久夫さんでした。橋本さんは、阪神・淡路大震災以来、被災地での支援活動を実践されてきました。更に、2004年の新潟県中越地震の炊き出しには、他県からも数人の賛同者が参加。07年の新潟県中越沖地震では、その輪が6都県20人と大幅に広がり、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。そして新地には、橋本さんの呼び掛けに12都県から43人のボランティアが参集しました。 新地での活動のきっかけとなったのは、岐阜のOTさんでした。OTさんは、東日本大震災後、すぐに沿岸部の各市町村災害対策本部に連絡。その中で3月14日、相馬市災害対策本部から食料品などの支援要請が入り、3月22日に支援物資を持って相馬を訪問しました。そして、災害対策本部に物資を下ろした後、相馬編( 「母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み『常磐もの』」 )で紹介した、八坂神社の岩崎和夫宮司らの案内で、避難所4カ所にも直接物資を届けました。 この時、岩崎さんは、所属するライオンズクラブのつながりで、隣の新地ライオンズクラブにも連絡。新地から5人の会員が相馬まで出向き、緊急で必要としていた乳児用のミルクなどを受け取り、新地町の避難所でそれらを配布しました。OTさんは、ここでつながりが出来た新地の方たちと、その後もコンタクトを取り続け、ゴールデンウィークの炊き出しイベント開催にこぎ着けたというわけです。 一方、受け入れ側の窓口となったのは、歯科医の笹原健児さんでした。笹原さんは、自宅と歯科医院が流失し、自らも被災する中、炊き出しイベントの中心として活動されました。新地町は福島県浜通りの最北端にあり、3月11日の本震では震度6強を記録。新地ライオンズクラブのメンバーでもある加藤憲郎町長によると、その時点で津波により92人が亡くなり、23人が行方不明とのことでした(その後の調べで死者118人、家屋全半壊630戸)。 そんな中、当日は朝から、加藤町長自らが防災行政無線でイベン

母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み「常磐もの」

イメージ
東日本大震災から1年ほど経った頃、相馬でお会いした八坂神社の岩崎和夫宮司(当時)は、「相馬は幸い放射能は少ないのですが、それでも海産物や農作物などに影響が出ています。相馬のカレイやアイナメは本当においしいんですよ。でも1年以上、地元の魚を食べていません」と、話していました。 相馬市は震災前、高級魚主体の近海漁で名をはせていました。しかし、大津波で港が破壊され、漁船や漁具も流されました。更に原発事故により海が汚染され、近海漁は自粛を余儀なくされてしまいました。 そんな中、相馬市長の発案で、港に近い原釜地区の漁業関係者が、NPO「相馬はらがま朝市」を立ち上げました。活動目標は、被災した人たちに生きる勇気を届け、「一人の落伍者も出さない」こと。そして震災2カ月後の2011年5月から、毎週末、飲食ブースや支援物資の配布をする朝市を開催していました。 相馬市の仮設住宅には、市内で被災した人たちばかりでなく、飯舘村や南相馬市など、原発事故避難者も多く入居していました。この人たちからも「落伍者」を出したくない。そのため、「相馬はらがま朝市」は「朝市に来れば何かに出逢える」を合言葉に、笑顔のコミュニティーとしての役割も担うよう努めていました。 岩崎さんとお会いしてから、更に半年ほど経って、この「相馬はらがま朝市」を取材しました。当日は、茨城県笠間市の方たちが、支援活動で訪問していました。笠間は日本一の栗産地として知られ、びっくりするほど大量の栗が投入された栗おこわや、つきたての餅を被災された方たちに振る舞いました。 また、前日に、6人がかりで3時間掛け、畑から抜いてきたという約550本の大根も無料で配られ、大好評でした。 笠間の皆さんが、「相馬はらがま朝市」を訪問するのは2度目のことで、震災の年の12月に餅つきと手打ちそばで参加したのが最初だそうです。「その時、地元の人たちも一緒になって盛り上げてくれ、復興のため自分たちもがんばろうという気持ちが強く感じられました。それを見て、また来なくちゃと思い、朝市の代表者にそう伝えちゃったんです(笑)」と、訪問団の代表が話していました。 相馬を始め福島県と茨城県北部の沖合いは、親潮と黒潮が交じり合い、カレイやヒラメなど150種以上の魚が集まる好漁場となっています。ここでとれた魚は、「常磐(じょうばん)もの」と呼ばれ、鮮度と質の高さで知られてい