民謡のある風景 - 山峡に湧く情熱と郷土愛と(埼玉県 秩父音頭)
埼玉の西域、甲武信ケ岳に発した荒川は、延々144kmの流れとなって東京湾に注ぎます。その荒川が、秩父盆地から関東平野へ抜け出す区域、延長約4kmにわたるのが、「地球の窓」「地質学の宝庫」と言われる長瀞です。水は緑青色の深く静かな流れを見せ、岩畳と調和して、山国秩父ならではの景観をつくっています。
『秩父音頭』は、この山国の様子をこう唄い出します。
♪ハァーアーエ
鳥も渡るか あの山越えて
鳥も渡るか あの山越えて(コラショ)
雲のナアーアーエ
雲のさわ立つ アレサ奥秩父
秩父の一帯では、昔『日光和楽踊り』などと同系の盆踊り唄が唄われていましたが、次第にすたれ、昭和に入る頃は消滅寸前だったといいます。これを憂慮したのが、長瀞の上流にある皆野町の医師・金子伊昔紅で、昭和の初め、地元の唄を整え、保存する運動を起こします。
俳人でもあった伊昔紅は、1930(昭和5)年に詞も公募して選定、曲調は盆踊り唄を元に、秩父の屋台囃子の手などを伴奏に採り入れました。踊りの振りも、農村歌舞伎をベースに編み出し、ほぼ今の形の『秩父音頭』が出来上がりました。
初め、その唄は「秩父豊年踊り」あるいは「秩父盆踊り唄」などと呼ばれていましたが、33(昭和8)年、北海道帯広市で開かれた全国レクリエーション大会に、伊昔紅の社中が出場、その時から『秩父音頭』と名称も定まりました。
秩父は、よく知られたように「自由自治元年」の民権運動の古里でもあります。郷土愛の深さは、他国に優るとも劣らぬ地と言えるでしょう。その情熱が、『秩父音頭』を生み、育てました。
毎年夏になると、皆野町では唄の祭りが開かれ、山峡の人々の秘められた思いが、一気に爆発します。秩父・長瀞は、情熱の古里でもあるようです。
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