1995年3月20日 地下鉄サリン事件
私が30代後半だった1995年の今日、東京でオウム真理教による無差別テロ、地下鉄サリン事件が起きました。世界初となる化学兵器を使ったテロで、13人の方が犠牲になり、6000人以上が負傷しました。
狙われた地下鉄は、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の3路線で、いずれも警視庁や警察庁、検察庁などの中央官庁がある霞ケ関駅を通る路線でした。この中で、最も多くの犠牲者が出た日比谷線では、小伝馬町駅で4人、八丁堀駅で1人、築地駅で3人の方が亡くなっています。
当時、私が勤めていた編集部は築地にあり、自宅の最寄り駅からは1本で行くことが出来ました。しかし、その日は北千住の手前で電車がストップ。当初、原因は確認中との車内アナウンスが流れていましたが、やがて「築地駅で爆発事故があった模様」という情報がもたらされました。
後になって分かったのですが、乗客が車内非常通報装置を押し、サリンが撒かれた車両が停車したのが築地駅で、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームに倒れ込んだそうです。そして、それを見た運転士が、「車内から白煙が出て乗客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という話になったようです。
実際の日比谷線でのテロは、次のように実行されました。
1995(平成7)年3月20日(月曜日)、実行犯の林泰男はサリン3パックを携帯して、上野駅から日比谷線中目黒行きの3号車に乗車。秋葉原駅でサリンが入った袋に穴を開けました。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客の一人が、サリンの袋をホームに蹴り出しました。
これにより、電車は運行を継続。しかし、サリンの液体は車両の床に残ったままだったため、車内はパニックとなり、乗客は他の車両へ避難をし、非常通報ボタンを押すことになります。また、サリンの袋が蹴り出された小伝馬町駅では、ホームに広がったサリンを多くの乗客が吸引、4人の方が犠牲となりました。
当時、カメラ器材などを購入していた会社が、小伝馬町にありました。そこの店長は日比谷線の利用ではなかったため難を免れましたが、出勤はまさにテロがあった時間帯で、朝、小伝馬町駅の前を通り掛かったら、出口付近に大勢の人が倒れており、二日酔いにしてはずいぶん人が多いなあ、と思っていたとのこと。そんなのんきなことを思い浮かべるほど、無差別テロなどということが日本で起こるとは、誰もが予想もしていませんでした。
私も全く同様で、そのまま通勤を続けました。と言っても、日比谷線も千代田線も北千住で止まってしまったため、東武線で浅草へ出て、そこから都営地下鉄で東銀座に出ることにしました。そして、東銀座から日比谷線で1駅戻るという作戦です。
しかし、東銀座駅に着いたところ、日比谷線への通路は閉鎖されていました。歩いても10分程度なので、あまり気にすることなく歩き始めましたが、築地駅の爆発事故が気になり、駅の方へ寄ってから、事務所へ出ることにしました。
すると、築地本願寺の前に東京消防庁のテントが張られ、パトカーが道路を遮断して、近くに緊急車両がたくさん待機していました。
1995年と言えば阪神・淡路大震災があった年で、震災から2カ月となる3月17日前後には、私も避難所での炊き出し奉仕などを取材に、神戸や西宮へ行っていました。そのため、たまたま取材用のカメラを持っていたので、その様子を少し撮影していましたが、「気分が悪くなった方はいませんかー」などの呼び掛けと共に、有毒な液体が撒布されたので、現場から離れるようにとのアナウンスもあり、築地駅周辺から立ち去ることにしました。
日比谷線では、亡くなった8人の方の他に、2500人近い方が重症を負ったそうです。編集部を始めテロに巻き込まれた知人はいませんでしたが、絶対に許すことの出来ない、憎むべき事件として、頭に刻まれています。
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