早明戦二つの引き分け(その1)1975年・藤原のダイビングトライ
実は、全勝同士の早明戦で引き分け、両校優勝となったことが、2度あります。1975年と90年で、75年は10対10、90年は24対24でした。100年近い早明戦の歴史の中で、引き分け自体、この2回しかありません。
1975年は、早稲田の藤原優、明治の松尾雄治が、共に最上級生の年でした。12月7日の早明戦でも、松尾が難しい角度からのPGを決めれば、藤原が同点トライを挙げるなど、日本のラグビー史上、最高のウイング、最高のスタンドオフとも称される二人の対決だけでも、本当に見応えのあるゲームでした。
試合は前半17分、早稲田が自陣ゴール前のスクラムでノットストレートの反則を犯し、SO松尾がPGをきっちり決めて、明治が先制。これに対して、早稲田は3回のPGがあったものの、FB畠本裕士が2回続けて失敗し、3回目はWTB藤原が代わりに蹴るも、これも失敗。なかなか追いつくことが出来ませんでした。
そんな中、前半32分、明治が自陣でのドロップキックをミス。ゴール正面22mライン上で早稲田ボールのスクラムとなり、早稲田は両ウイングが左右に開く一方、SO、両CTB、FBの4人が、スクラムの真後ろに並ぶ、縦十字のフォーメーションを取り、スクラムから出たボールをSH辰野登志夫が、真後ろのSO星野繁一にパス。星野は迷わずDGを蹴り、これが決まって同点となります。
後半は、一進一退の攻防の後、22分、早稲田が自陣ゴール前でオーバーザトップのベナルティーを犯し、ほとんど角度のない難しい位置からのPGを松尾が決めて、明治が勝ち越し。しかし、直後の早稲田キックをキャッチした明治が、オフサイドの反則で早稲田FB畠本がPGを決め、再び同点。
更に後半25分、明治がゴール前に上げたハイパントのこぼれ球を、明治が拾い、左に展開して明治のWTB井川芳行が左隅にトライ。松尾のゴールは失敗して、10対6で明治がリード。
後半32分、明治陣の右サイドで早稲田ボールのラインアウト。スロワーはFL豊山京一で、ショートラインアウトからすぐに展開。FB畠本がライン参加し、左方向へ走りながら、右サイドから大きく回り込んできたWTB藤原へパス。藤原は、タックルにきた明治の選手を振り切り、そのまま斜めに走り込みます。ゴール手前で、藤原のトイメン明治WTB井川が横から藤原にタックルするも、藤原はそれをものともせず、ダイビングトライ。三度、同点に追いつきました。
結局、そのままスコアは動かず、早稲田、明治、双方優勝となりました。
同点トライを決めた藤原は、18歳で日本代表候補合宿に参加。1973(昭和48)年、日本代表の第1回英仏遠征には、チーム最年少の20歳で選出され、ウェールズ戦で初キャップ。以後、不動のウイングとして活躍し、76年の第2回イギリス遠征では、イングランド学生選抜との親善マッチで4トライを挙げ、イギリスで「神風ウイング」と騒がれました。また、早稲田卒業後、イギリスの名門「ハリクインズFC」でもプレーし、世界選抜でも活躍しました。いまだに藤原を歴代の日本代表で、最高のトライゲッターと評価する人は多いと思います(何を隠そう、75年入学組の私もその一人です)。
ところで、73年の英仏遠征には、藤原の2年先輩だったFBの植山信幸(当時早大4年生)も参加していました。この遠征で植山は、相手チームのプレースキックに注目。当時の日本は、つま先で蹴る「トウ・キック」が当たり前でした。しかし、ラグビー発祥の地イングランドで見た「インサイド・キック」は、トウ・キックとは比べものにならないぐらい飛距離が出ていました。植山は帰国後、見よう見まねでインサイド・キックを練習。それを、11月23日、国立競技場で行われた早慶戦で初披露します。フィールド中央、ゴールまで49mの地点で、植山はPGを選択。当時、そんな所からPGを狙う選手はなく、慶応サイドも観客も、単なる時間稼ぎと捉えていました。しかし、植山が蹴ったボールは、バーの遙か上を越えてポールの真ん中を通過、観衆も慶応も度肝を抜かれました。植山は更にその後、左中間から40m弾を決め、インサイド・キックの威力を見せつけました。今回話題にした75年の早明戦では、明治・松尾と早稲田・藤原はまだトウ・キック、早稲田FBの畠本は、先輩植山にならって、インサイド・キックを使っていました。今では当たり前のインサイド・キックですが、それをもたらしたのは植山だったのです。
↓長くなってしまったので、1990年の記事は後半へ。
早明戦二つの引き分け(その2)1990年・今泉の70m独走トライ
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